第2話「悪魔と少女」

 夜も見えない。昼も見えない。

 迫り来る闇の招き手から逃げることが出来ない人はどうすればいいの?

 おとぎ話の勇者のように、昔話の優しい人のように。

 我らを救う手は、あまりに遠い。


 この国は守られた王国。

 聖なる獅子と、王がおわす人の楽園。差別はなく、貧困はなく、飢えもない。

 そこに生まれたからには、恩恵を受ける権利がある。生まれたからには、生きる権利がある。

 ならば、殺さないのでしょう。

 誓いに満ちた清やかな庇護を受ける為、貴方は己の心に偽りを持たない。

 降りかかる厄災は全て我が身に。暗礁の空を穿つ弓矢となりて、守る為に。






 人が移り変わり、夜の色が面を変えても月は巡り陽は昇る。

 正体の分からない寒さに怯えて眠りについたリリーにとって、窓から差し込む光は暴力的なものでしかなかった。

 リリーは、本当に久しぶりに首都アルフォンスにある実家に帰宅を許されていた。

 許されたというとおかしな聞こえであるが、リリーからすればそれが普通であった。

 悪魔の大地から帰ったばかりのリリーを迎えたのは、温かい母の言葉と、父のねぎらいなどではなく。入れ違いに出て行こうとする、二人の男女の冷たい視線だけだった。

 男と女は、リリーに「恐れ」を抱いていたのだ。

 リリーには、両親の気持ちがよく見えていた。だが、何故怖がられているのかは分からなかった。

 あの人たちは自分にきちんと食事も与えてはくれたし、他者に恥じるような行動はしてはいない。

 だが、ただひたすらに、腫れ物に触るように。遠巻きに、獣を見るように。無難な言葉で、当たり障りのない表情で。強張った笑顔の奥を隠しながらリリーという人物を育て上げた。

 それ故、リリーは人との関わり方が分からなかった。

 人が自分に向ける感情は「恐れ」か「侮蔑」か、「建前」以外に何もない。それが普通で、それが日常だった。

 その中で、セイレの笑顔は春を思わせるほどに光に満ちていた。

 心からの笑顔と、優しい腕の中。しかし、それは自分の手の内にあるように感じられるものではなかった。

 傍で咲き誇る花をその手に包んでも、己の体が花のようになるはずもなく。見えているのに、決して掴むことは出来ない太陽のように。

 年月という静かな支配者が、リリーを外側から、砂のように固め上げてしまっていた。



 * * *



「リリー」


 聞き覚えのある声が、窓の外から聞こえる。


「リリーってばー!」


 硝子の格子の間で、影がゆらゆらとしている。確か、ここは二階の筈だったが。

 眠い目を擦りながら、リリーはしぶしぶと窓を開けた。


「……ベリー」


「おはよ~! 眠れた?」


 扉の前に立っていたのは、聖騎士管理組合監査官のベリーだった。

 明るい笑みを浮かべてはいるが、出で立ちは昨日とは違い、白地に黒い縁取りをした清潔感ある服装をしている。

 見ると、彼女の足元には安定した様子で浮いている杖。ベリーはそこにバランスよく立ち、窓枠にもたれかかっていた。


「朝から何?」


「リリーを起こしに来たの~」


「嫌がらせ……」


 窓を無理やり締めようとすると、ベリーは慌てて部屋に押し入ってきた。


「ちょっとちょっとちょっと~! いつまで寝るつもり? もうお日様高いよ~!」


「寝かせて」


「今日! 登城しなきゃいけないの忘れてない!?」


「忘れてない。まだ時間はある。おやすみ」


「ごめんごめん顔見に来ただけなの! 入れてよ~!!」


 二人は窓の内と外で押し問答していたが、廊下を通りかかったハウスメイドがけたたましくノックを繰り返してきた為、とりあえずその場を収めることにした。


「……どうぞ」


「お邪魔しまぁす」


 ベリーは部屋に入るとベッドにぽふんと腰掛け、リリーはひとつだけある椅子に足を組み腰を掛けた。


「珍しいじゃん、実家で寝るなんて」


「仕方ないでしょ。あっちと行ったり来たりしていると出費がかさむんだから」


「お給料あるでしょ?」


「……ベリー、監査官は騎士と馴れ合ってはいけないと思う」


 リリーが神妙な面持ちで問い掛けるが、そんなもの関係ないといったような明るい声でベリーは答えた。


「友達に会いに来てるだけ~。だってあたし今日はお休みだもん。問題ありますか~?」


 リリーは一応心配したのだろうが、当のベリーはまったく平気らしく、絶えず笑みを浮かべていた。


「あっそうそう、任務お疲れ様」


「大分地形が変わっていたみたいね。……あそこまで凍っていたら仕方ないか」


「“大凍結”だっけ……ヴァイスは、凍ったままなんだよね」


 頬に睫の影を落とし、ベリーが言う。


「悪魔どもはよくあの環境で生きていられるな。あの男なんて見た目は普通の――」


「男?」


 はっとして、リリーは口を閉じた。瞳を左右に動かし、取り繕う。

 が、嫌な気のある笑顔を浮かべたベリーは、矢のように質問を投げかけてきた。


「男の人と会ってたの? 悪魔の? それって若い子たちの間で噂の見た目はかっこいー悪魔ってやつ? へえ~」


「ふざけた勘繰りをするな!」


「ごめんごめん。でも、人間の男の人に見える悪魔もまだいたんだね~。戦いにくくない? 大丈夫そ?」


「……だい、じょうぶ」


 頼りない返事に、ベリーは眉を下げた。


「ねえリリー、しんどくなったら話してね。あたし、ちゃんと聞くから」


 ベリーは、話の最後にはいつもリリーを気遣う言葉を発していた。

 心に余裕があるのだなとリリーは感じていたが、最近特にそれが過剰になっているように思えた。

 ベリーはよく喋り、リリーは黙りこむ。リリーが嘆くと、ベリーは寄り添う。

 薄い桜色の髪が、光に反射して金になる。愛らしい少女の容貌をした彼女を、リリーは眩しそうに見つめた。


「貴方ほんと変わってる」


「変わり者の聖騎士で有名なリリーに言われたくな~い」


 灰色の瞳が半月になる。そこに映る自分にも、自然と笑顔が彩られていた。


「あ、変わってるといえばね、さっきね、外であいつも見たよ。じぃ」


「じぃ?」


「ほら、ノーブル皇国の。英雄聖騎士の一人!」


「もしかして、ジークフリード? 第三位聖騎士の?」


 リリーは、再び眉をひそめた。


「ああそれそれ! 知ってるよねリリーも」


「魔導師の国……ノーブルの元皇子」


「そ。なんでか聖騎士やってる元皇子様」


 ジークフリードという少年はどうやらその国の出身らしく、しかも「元」皇子だというのだから、聖騎士の間では彼に対して妬み嫉みの気持ちを強く持つ者が多い。

 彼に会ったことのないリリーにとって、その噂が真実であるかどか計りかねたが、確かに話だけを聞くと嫌味な気もする。


「そんな高位の聖騎士まで招集が?」


「上位聖騎士は全員呼ばれてるよ。戦に行く前に、アルフレッド陛下からのお言葉があるみたいだから、第二位のアメリも今日にはここに着くはずだよー!」


「アメリ?」


「そっか、あの子活動拠点は東の共和国だから会ってないか……。あ、でも安心して。アメリとリリー。間違いなく気が合わないと思うから知らなくて正解~!」


 他人事のように笑い飛ばすベリーを見て、リリーは軽い疲れを感じた。

 ジークフリードに、アメリ。英雄と呼ばれる彼等はどんな人物なのか、一般的な聖騎士ならば興味がわくだろうが、リリーは「面倒だ」という気持ちのほうが勝っていた。

 話を聞きながら、リリーは髪を結あげた。そしてあの小さい荷物袋に入っていた礼服を取出し袖を通した。


「へー、そんな服あったんだねリリー」


「ちょうどね」


 リリーが取り出した服を見たベリーは、指を差して声をあげた。


「これ、セイレがいつも式典で着てたやつじゃない!?」


「うん」


 白地に上品な装飾がほどこされた上質な素材の礼服。袖は大きく広がり、裾は床につくほどに長いが、太股近くまで入ったスリットのおかげで、歩くことに不自由は無さそうだ。

 実家の姉の部屋に、大切にしまってあったこの服を、まさか着るとは思っていなかったのだが。


「セイレが大好きだったんだね、リリー」


 ベリーが、悲しげに眉を下げる。


「うん」


 私は姉さんが大好きで、憧れていた。

 あの強さに、大きさに。手の届かない雲の上のような存在だったけど。

 私のたった一人の肉親。もし、生きているなら、会いたい。

 リリーは、きゅ、と首元を整えた。

 着替えを終え、部屋の備え付けの鏡台の前に立つと、いつもとは違う自分がいた。

 セイレの服を着た自分、いきなり上級騎士の仲間入りをしたかのように、凛とした佇まいでそこになる自分。

 鏡に手をそえまじまじと見つめていると、横からベリーが顔をひょいとのぞかせた。


「似合うよリリー!」


「ありがとう」


 リリーは少し照れ臭そうに、だが無表情に礼を言った。


「そろそろ昇級しちゃえばいいのに……」


「だから、昇級してしまうと自由に動けないんだって、前から言ってるでしょう」


 鏡の前から移動し、無造作にベッドにほうりなげられていた先程まで着ていた服を綺麗にたたむと、リリーはカーテンを開けた。


「私が上位聖騎士になったところで……」


「え~あたしは嬉しいよ! リリーのこと知らない人に、リリーはこんなに凄いんだって分からせる絶好の機会だもん!」


「そんなことしてどうするの」


「セイレだって、きっとそう思ってるよ」


「いいよそういうの。……で、ベリーはいつまでここにいるの? 鍛冶屋に行きたいんだけど」


「鍛冶屋?」


「ええ」


 リリーは、ベッド脇にたてかけてある剣を見た。

 かなり年季が入っており、柄の部分に巻き付けられている布は汚れて変色し擦り切れている。


「新しいの買うの?」


「これは大事なものなの。だから新調する気はない。鍛えてもらうのよ」


「ふぅーん……どこで買ったのそんなの」


「貰ったのよ。昔」


「誰に?」


「貴方も聞きたがりね。私に剣を教えてくれた人」


「だから誰~?」


 彼女は話を聞くまで帰らないだろう。そう感じたリリーは、仕方なく話し始めた。


「“世闇一族”って、分かる?」


 リリーはそう言うと、剣を手に取り少し懐かしそうに微笑む。


「それって東の、あの超~排他的な種族の? 真っ黒い服ばっかり着てる人たちだよね?」


「そう。姉さんを探し始めて旅をしていた時、ちょっと色々あって。剣を教えてもらったの」


「意外な人たちと知り合いなんだねえ~」


「まあ、なんていうか、偶然……」


「そっか。じゃあそういうことならあたし帰るけど、正午にはちゃんとお城に行ってね?」


「わかった」


 すると、ベリーはあっさりと窓から降り、自慢の魔導術を使ってどこかへと消えてしまった。桃色の光がちらちらと光るのを見送りながら、リリーは微笑む。

 荷物袋を持ったリリーは、最後に剣をしっかりと腰のベルトに固定した。ただでさえ傷んでいるこの剣を、もう無闇に扱うわけにはいかない。

 大事そうに鞘を撫でたリリーは、家の外へと向かった。



 * * *



 城下町の鍛冶屋へは、歩いて少しの距離だった。

 白い衣服に見覚えのある人々は、好奇の視線をリリーに送る。リリーは、居心地の悪さに苛立って、勢いよくローブを羽織った。

 蒼い髪すらも隠すように深く羽織られた黒のローブの足元に、冷たい風が吹いていた。

 まだ朝の早い時間なのに、さすが王都とでも言うべきか、忙しなく歩く人で溢れかえっていた。人の波が揺らぐ彼方には、王がおわす白亜の城。リリーは太陽の光を手で遮りながら、それを見つめた。

 城に続く大通りに面した店は、高級店が多い。空を仰げば、美しく洗練された建物たちが、今にもこちらに倒れてきそうな高さで立ち並んでいる。その豪奢な装飾の窓枠の前には、これまた高級そうな装いの婦人たちが、飾られている靴や鞄を眺めながら談笑をしている。

 行きかう人は耳の長い者、異国の服を纏った者、やたらと大きい体の者など目に賑やかだ。観光客はというと、そんな中を外からの客人であるという顔でにこやかに歩いている。

 リリーはその光景を横目に、顔を伏せながら目的の鍛冶屋の方向に足を進めた。


「こんにちは」


 高級な店が立ち並ぶその一角に不釣り合いな「鍛冶屋」の名前。石壁は他店に馴染むように、くすんだ薄灰色に染められている。

 リリーが鍛冶屋の門をくぐると、中で刀をうっていた店主らしき男がすぐに気付いた。


「おっ、あんたか。どうした?」


 鍛冶屋の男は、いかにも「鍛冶屋」らしい屈強な肉体と面構えをしていた。作業をする為の衣服は、汗でじっとりと濡れている。目元には疲れの見える影があるが、まだ年は若そうだ。

 石壁に似た灰とも水色ともとれる髪は、梳かしたことがないのかと思うほどぼさぼさで、申し訳程度に生やされた不ぞろいの顎髭が彼の性格を表している。


「どうも。……剣を、また鍛えてほしいの」


 リリーが腰の剣を手渡すと、鍛冶屋はそれを鞘から抜きふむふむと観察し始めた。


「またかよ! あんたずっとこればっかだなあ。新しいのにしたほうがいいんじゃねえか? 東の剣なんて片刃だから使いにくいだろ」


「大事なの」


「大事ねえ……。もっと似合うもんありそうだけどよ。まあいいや余計なお世話だな。待ってろよ」


「ありがとう」


 リリーが軽く会釈すると、鍛冶屋の男は歯を見せて笑い、作業にとりかかった。


「少し、買い物がある。後で来るから」


「そうか? んじゃゆっくりしてきていいぜい。まあすぐ出来っけどな」


 愛想のいい店主に見送られ、リリーは鍛冶屋を後にした。

 それにしても、いつもより街中は人が多い。歩くほどに、増えている気がする。

 すると、後ろからパタパタという足音が聞こえてきた。かと思えば、小さな少年たちがリリーの横をすり抜けて走っていった。


「あっちだぜあっち!」


「おい本当だよな!?」


 少年達は顔を輝かせながらリリーの進行方向の遥か彼方に消えていく。


「なんだ……?」


 呟きながら少年達が走っていった方向を見ると、何やら彼方に人だかりらしきものが見えた。

 この行くと、街の中央広場に出る。人だかりが出来ている位置は、ちょうどそのあたりにあった。

 リリーは目を細めながら、広場の方角から歩いてきた人間の内の一人に声をかけた。


「何かあったの」


「ああ、喧嘩だよ喧嘩」


「喧嘩……」


「ああ、まあ心配いらんよお嬢ちゃん。あの方が相手してるからね。すぐ終わるさ」


 リリーの問いに答えた男は、ひひっと笑いながら去っていった。


 ちょっとした好奇心に導かれ、リリーは足を進めた。近づくたびに、言い争うような声が大きくなる。いや、これは一方的に怒鳴りつけていると言ったほうが正しいか。

 人だかりは、喧嘩をしているだろう者たちを囲むように円形に出来ている。リリーが少し背伸びをすると、その中心の様子が伺えた。

 そこには、言い争う男が二人。そしてその足元には、何人もの男がうめき声をあげながら蹲っている。


「俺はてめぇが前から気に食わらかったんらよ!」


 一人は酔っているのか、少し呂律が回っていない壮年の大男。手には大きな斧を持っており、体は隆々と鍛えられている。身にまとう鎧も重厚で真新しい。

 もう一人はというと、線の細い青年だった。相手の怒鳴り声にものともせず、ただ黙っている。真っ白な髪、いや、銀の髪か。肩幅もさほどなく、ともすれば少女にも見えてしまう。


「なんとか言えよ!!」


「僕が何とか言えば、アンタは満足するの?」


 少年の冷静な言葉に、酔っている男はぎりぎりと歯を食い縛る。リリーは黙ってその様子を見つめていた。が、次の瞬間。


「てめぇ! なめんなよ!」


 憤慨した男が、持っていた斧を頭上高く振り上げた。


「いけない!」


 リリーは人込みを無理矢理かきわけ、二人がいる中心へと走りだした。予備の短剣を抜きながら、なんとか斧を止めようと走る。

 だが、その行為は無駄に終わった。

 飛び出してきたリリーに気付いた青年は、彼女に目を合わせると小さく微笑んだ。やっと見れたその顔は、幼さ残る少年そのものであった。

 銀の髪に、金色の瞳。至上の宝石のようなその色味に、リリーの意識が奪われた。


「危ないよ、お姉さん」


 金の瞳の青年は、目を細めて笑った。

 その隙を、大男は見逃さなかった。これ好機と言わんばかりに力一杯に斧を振り下ろした。


「くたばれジークフリードォ!!」


「ジークフリード!?」


 叫ばれた名前に、リリーが驚く。

 ジークフリードと呼ばれた青年は、斧が頭上に迫っているというのに狼狽える事もなく、リリーと目を合わせたままただ立ち尽くしている。彼の胴体ほどの大きさがある斧が眼前に迫る。

 観衆の悲鳴が大きくなったその時、ジークフリードは静かに男の方に視線を戻した。


「──出でよ、通り抜ける白雨の空に“カヤゲレス”」


 少年がそう呟いた瞬間に、斧は動きを止めた。そして間を置かず、まるで薄い硝子が割れるようにいとも簡単に砕け散ったのだ。


「なっ……」


 男は何が起こったのか分からず、先程まで手に握っていた斧の残骸が散らばるのを茫然と見つめた。

 観衆達にも何が起こったのか理解出来ず、ざわついている。


「魔導術……」


 リリーの独り言は小さく風に消された。


「どうしたんだよ、僕が気に入らないんじゃなかったのか?」


 ジークフリードは嘲笑うかのように、地に散らばった斧の破片を足でぐりぐりと踏み躙った。


「てめぇ!」


「ええーちょっとまだやるの? 頭悪いってそれ」


 未だ闘志を鈍らせない相手に呆れ気味なジークフリードは、悪態をつき続ける。その口調は、幼さ残る容姿にとても似合わない。


「魔導術だ……」


「ノーブルの精霊魔導術……」


 観衆の大半は彼が何者かを知っていたらしく、感嘆の息をもらした。


「ほら、僕は今いつものあの剣を持っていないんだ。さっき鍛冶屋に預けたからね。今ならお前でも勝てる唯一の機会かもよ」


 ジークフリードは、相手の心をわざと逆撫でるように悪態をつく。

 男はあまりの悔しさに拳を握り締めて、ふるふると震えていた。


「もういいでしょう」


 見兼ねたリリーが、二人の間に割って入るように立った。男もジークフリードもぎょっとしたが、リリーは毅然とした態度で二人の間合いを壊す。


「邪魔すんじゃねえ! 関係ねぇだろが!」


 男は距離を置いたままリリーに吠えたが、リリーは彼に鋭い目を向けた。


「お前も掟を知らないわけではないでしょう。聖騎士同士の争いは禁じられている筈」


 リリーの言葉で、男はぎくりとした。とっさに自身の手首を隠す。隠したその場所には包帯が巻かれていたが、聖騎士の紋章が僅かに見えていた。

 不思議そうな顔で、ジークフリードは首を傾げた。


「こいつ聖騎士だったの? お姉さんすごいね、よく気付いたなあ」


 無邪気に笑いながらジークフリードはリリーを見た。だがリリーは瞳を伏せると、穏やかな口調で語りはじめた。


「貴方はジークフリードね」


「そうだよ」


「じゃあ、戦う前から自分のほうが強いのは分かっていたでしょう?」


 リリーの目蓋が開き、翡翠の瞳がジークフリードを捉えた。威圧感に少したじろいだジークフリードだったが、すぐに唇を尖らせる。


「お姉さん、誰だよ。僕に説教するなんて」


 ジークフリードは顔をそらしながら、少し反抗的に尋ねた。


「私はリリー・ウルビア。下っ端の聖騎士よ」


「リリー……ウルビア?」


 ジークフリードがその名を繰り返し口にする間に、地面にうずくまっていた男たちはよろめきながら立ち上がり、口々に喋り始めた。


「おい、ウルビアって……」


「ああ……」


 ウルビアという家名。それを聞けば、誰でも「彼女」を連想する。


「あはははは! お前、誰かと思ったら落ちこぼれ騎士リリーか!」


 対峙していた男が高笑いをしながら口をはさんだ。


「だから、何?」


 リリーは男を睨み付ける。だが、男は増長し、リリーに指を差して笑った。


「アストレイアのたった一人の妹のくせに位をうろうろしてる落ちこぼれちゃんかよ! 口を挟むんじゃねえよ!」


 その言葉をきっかけに男たちは一斉に笑いだした。


「お姉さんセイレの妹なの? いや、全然似てないんだけど」


 セイレの髪は金色で、豊かにうねるもの。目は大きく、光に満ちている。それと並べれた時、自分が妹だと言って納得する者は少ないだろう。


「よく言われる」


「ふーん。……で、あんなこと言われて怒らないの?」


「事実だもの」


 慣れた様子のリリーに、ジークフリードは眉を寄せた。

 反論しないリリーを見て、益々調子に乗った男は、手首の包帯をとり、聖騎士階級を示す紋章をリリー達のほうに意気揚揚と見せた。


「貴様の階級は十八位だろうが! 俺は十二位だ!」


 男の手首には、特殊な方法で彫られた紋章。確かに、正真正銘十二位階級の聖騎士のようだ。


「……お姉さんさあ、あとは僕が片付けるからもう行きなよ」


 ジークフリードが小声で促す。


「気にしなくていい」


「分からない人だなあ」


「彼が噛み付いているのは私の方だ」


「いや、だからそうじゃなくって」


 するとジークフリードは、言いにくそうに頭をかきむしると、困り顔を見せた。


「あのさ、喧嘩してんのは僕だから。お姉さん怪我するのわかっててほっとくほど僕はやばくないって。いいから行きなよ」


 そう言って、リリーをそっと背中に回したジークフリードは、優しい瞳をしていた。背は、リリーより少し高いぐらいなのだが、佇まいは確かに男性であった。


「……ありがとう」


「そ、素直に逃げて」


「貴方、そういう人なのね」


 薄く笑んだリリーは、ジークフリードの頭を後ろからふわりと撫でた。

 ジークフリードは、撫でられた頭を自分の手でも触り、きょとんと立ち尽くす。

 その横をすり抜けたリリーは、つかつかと男の側まで歩み寄った。


「なんだよ、なんか文句あんのかよ」


「十二位階級の騎士って、そう難しい試験でなくとも上がれた筈。大変だった?」


「なんだとてめえ!」


 男は思い切りリリーの胸ぐらを掴み上げる。折角の礼服に、皺が走っていく。


「お前みたいな聖騎士がいるから、いつまでたっても悪魔に勝てないのよ」


「てめえセイレの身内だからって調子に乗ってんじゃねえよ!」


 男が、力任せにリリーの体を突き飛ばした。リリーはよろめき、その衝撃で肩にかけてあっただけのローブがするりと地に落ちた。追撃をかける男は、リリーの手首を掴んで引き寄せる。反動のまま、殴りかかろうとしたその時、リリーは自ら男の懐に飛び込んだ。

 急な接近に、男は一瞬怯む。僅かに勢いを失った拳を払いのけたリリーは、そのまま体当たりをするように男にぶつかる。細い体でも、相手の重心を崩すには十分な勢いだった。

 その隙を突いて、リリーは男の足の甲に踵を落とす。ヒールで踏みつけられた足に激痛が走った時、目の前には短剣の鞘が迫っていた。


「駄目駄目その距離はやばいって!」


 思わず止めに入ったジークフリードのおかげで、男の鼻は砕かれることはなかった。

 ショックで口をパクパクさせる男の手を振りほどき、リリーは胸元の衣服の乱れを整えた。


「っあ……な、なんだお前……」


「落ちこぼれだから、できることは全部できるようにした」


「っぐ……くそ!!」


 男たちは地面に唾を吐いたり、悔しそうに舌打ちをしながら傷ついた体をひきずりその場から逃げ出した。


「聖騎士、か」


 逃げ去る男たちの背中を見ながら、呟く。

 周囲はリリーを嫌な気で見つめながら、口々に囁き始めた。その全てが、黒い風のようになってリリーの耳に入ってくる。

 居心地の悪い視線を振り払うように頭を振ったリリーは、落ちたローブを拾う為、体を屈めた。

 だが拾う前に、横からジークフリードの手が伸びる。ローブを持ち上げたジークフリードはにっこり微笑むと、それを差し出した。


「どーぞ」


「……どうも」


 急な優しさに戸惑いつつも、リリーはそれを受け取った。


「ねえ、リリーって呼んでもいいよね?」


「構わないけど」


「僕のこともさ、ジークでいいよ!」


「……は? ……ああ、いや、……うん」


 どう応えるべきか悩み、リリーは中身のない返事をした。

 リリーがローブを羽織る間、ジークフリードは彼女の顔をにこにこしながら見つめていた。

 リリーはそれが気になったが、顔には出さなかった。

 しばらくすると、感心したように、ジークフリードが言葉を発した。


「リリー、やっぱりセイレの妹だね、強い」


「姉さんは関係ない」


「あっ、リリー今めんどくさって思ってるでしょ」


 少し残念そうにジークフリードが眉をひそめる。


「僕を助けてくれたんだからさ、仲良くしようよ」


「なかよく……」


「そそ!」


 ジークフリードは満面の笑みを返した。そんな彼は、どこにでもいるような、至って普通の少年。

 これが、戦争で幾つもの功績を打ち建てた英雄聖騎士だとは、リリーはにわかには信じられなかった。

 しかし、あの姉のことを思うと、そう不思議なことではないかと納得した。

 そうしているうちに、いつのまにか観衆達は遠退き、散っていった。視線が離れたことにほっとしたリリーは、ジークフリードに背を向ける。


「じゃあ、私はこれで」


 リリーが立ち去ろうとすると、ジークフリードがすかさず前に立った。


「えっ、どこ行くの?」


「買い物」


「僕もついていく!」


 リリーが歩くと、ジークフリードもその後をててっとついていく。どうやらリリーを気に入ったらしい彼は、まるで親鳥の後をついていくひよこのようだった。


「ついてくる意味が分からない」


「僕は聖王国の登録じゃないからさ、王都に来るのは久しぶりなんだ」


「質問の答えになってないわよジークフリード」


 歩く速度を早めても、彼はなんなくついてくる。

 この行為が無駄だと気付いたリリーは、ついに諦めて彼に向き直った。


「分かった。ジークフリード、私は今から鍛冶屋にいく。正午には城に行かなければいけないから」


 そう言われてから気付いたようにジークフリードは腕につけていた時計を見た。


「ほんとうだ。もうこんな時間」


 時計の針は文字盤の十一時すぎを指していた。

 いらぬ騒ぎに首を突っ込んだせいで、リリーは思わぬ時間をくってしまっていたのだ。


「そういえば僕も行かなきゃいけないんだった」


「ああ……そう」


 彼の無邪気さにリリーは毒気を抜かれたらしく、その後の彼の行動には何も言わなかった。



 * * *



 鍛冶屋の店主は驚いた。

 ジークフリードとリリーの二人が並んで入ってきたものだから、思わず口にくわえていた煙草を落としそうになった。


「なんだ、お前ら知り合いだったのかよ」


 店主はそう言いながら、目を丸くする。

 ジークフリードが「そうだよ」と無邪気に答えると、リリーは複雑な表情を見せた。


「ま、いいや。丁度出来てんぜ」


 重そうに腰を上げた店主は、布に包まれた二人の武器を後ろの作業場から持ってきてカウンター台に置いた。


「こっちがボウズの、んでこっちがあんたの」


 二人は各々の武器を受け取り、包んでいた布を外し中身を確認した。


「うわあ、ぴかぴかに綺麗になってる」


 ジークフリードは細身の双剣を大事そうに腰に提げると、財布を出し支払いをすませた。


「どもども! ジークフリード様は現金即金でありがてえなあ!」


「お金払う時だけ様っていうのやめてくんない?」


 リリーはというと、布から出された剣をまだ嬉しそうに見つめている。


「……すごい。綺麗になった」


 剣は美しい直刃を見せ、鈍く光っている。刃だけではなく、柄の部分に巻かれている布も新調されていた。


「言っとくけどそいつ研ぎなおすのほんと大変なんだからな! なんで俺がわざわざ東の文献調べないといけないんだよまったく……」


「じゃあこれ」


 リリーは店主の愚痴を聞き流し、代金を支払う。だが店主の手のひらに金が落ちるのを最後まで見届けず、さっさと店内を出ていってしまった。


「えっ、ちょっと待ってよリリー、僕も行くよー!」


 ジークフリードは置いていかれた子供のような声をあげながら、リリーを追った。

 先を急いだくせに、店の外でちゃんとジークフリードを待つリリーを見て、店主は感心したように腕を組んだ。


「へー……あの姉ちゃんが珍しく人と関わってやがらあ……」


 店を出たリリーとジークフリードは、肩を並べて城へと歩いていた。

 ジークフリードは、リリーと紐かなにかで繋がれているかのように後ろをついて回った。

 妙なことになった。そう思いながらも、リリーは悪い気はしなかった。

 セイレがいなくなってから家族というものを知らなかったリリーは、ジークフリードの好意を少し心地よく感じていた。

 そんなに背が変わらない二人は、はた目には姉弟のように見える。すれ違う人々は、仲睦まじく見える二人を好奇の目で見ていくが、本人達にはあまり気にはならないらしく談笑していた。

 だが不意に、ジークフリードは暗い顔を見せた。


「あのさ、ごめん。言っていいのか分からないけど……」


「……どうしたの」


「セイレのこと、残念だったね」


 先程からの会話の中で、この少年はリリーの挙動に注意しながら、すべき話の内容をずっと選んでいたのだろうか。ばつが悪そうに、眉が下がる。


「言おうか迷ってたんだけどさ」


「大丈夫。悪魔と戦うって、そういうことだって分かっていたから」


「セイレ、すっごい強かったんだってね。僕はあんまり話したことなかったけど、魔導術使えないのにめちゃくちゃ強いんでしょ」


「そういえば、貴方は魔導術が使えるのね。さすが――」


 言いかけて、リリーは口を噤む。

 だが、続きを察したジークフリードは、明るく笑ってみせた。


「“ノーブルの皇子ね”って?」


「……いや、その」


「気にしてないからいいよ。自分で聖騎士になったんだし」


 ジークフリードは、リリーよりもずっと会話が上手かった。守られて育った皇子にしては、妙によく気がつく人物だとリリーは不思議だった。

 彼が何故、皇子でありながら聖騎士になったかは分からないが、何か理由があるのだろう。


「聞きたい事あったら聞いてもいいんだよ?」


「詮索はしたくない。ただ、さっき使ってた魔導術……不思議な感じがしたから」


「精霊に語りかけないと使えないからね。詳しく聞きたい!?」


「いや、私は魔導術が使えないし……いい」


 ジークフリードはどこか納得いかないような顔をしていたが、リリーの横顔をちらりと見るとパッと嬉しそうに微笑み、会話を続けた。


「ねえねえ、リリーの目って緑色してるんだね。翡翠っていうのかな」


「それがどうしたの?」


 リリーが無関心に尋ね返すと、ジークフリードは少し俯きぽそりと呟いた。


「僕の知り合いと同じ目の色だ」


 リリーがジークフリードに顔を向けると、彼は何か懐かしむような表情で見つめ返してきた。


「目だけじゃなくて、色々似てる。顔も似てるかも」


「世界って広いから」


「だね。僕に似てる人もいるかもね!」


 そんなことを話しながら歩いていると、彼方に小さく見えていた城が、徐々に大きさを増す。

 白亜の城が陽の光に照らされ輝いている。だが、城門にはいつもより多く警備兵が配置されている。

 門だけではなく、厚く高い城壁の上にも警備兵がずらりと並んでいる。彼らはいつもなら軽装なのだが、今日は兜まで装着しており、銀に光る頑丈そうな全身鎧を装備していた。手にはさらに、獅子の装飾が施された斧を持っている。


「なにこれすんごい厳重だね」


「要人でも来るんじゃない」


 リリーが気にせず歩みはじめると、ジークフリードもすぐに後を追い、横に並んだ。

 城門は固く閉ざされている。近づくと、両側に立つ警備兵が互いの斧を重ね、二人の行く手を阻んだ。


「御用件を」


 左の兵士が尋ねると、リリーは二の腕の紋章を見せながら答えた。


「聖騎士リリー・ウルビア」


 横にいたジークフリードもすぐ後に続き、襟を開き首筋に彫られた紋章を見せ答えた。


「同じく聖騎士ジークフリード・クレイメル」


 兜は、兵士の顔を全て覆っているので、表情こそ分からないが、少し驚いた様子で斧を降ろした。


「無礼をお許し下さい。お話は伺っております。どうぞ」


 両側の兵士は斧を降ろしすごすごとまた元の立ち位置に下がる。だが、門は閉じたままだった。

 いつもならば兵士の合図とともに扉が向こう側に向けて開くはずなのだが、今日は一向に開く気配がない。


「いや、開いてないし」


 苛立ったジークフリードが兵士を睨みながらそう言ったが、リリーが何かに気付いたのかそれを制止した。


「待って」


 リリーが見つめる先のその巨大な城門に、僅かに変化が現われた。


「開門願う」


 銀の鎧を纏った兵士がくぐもった声でそう言うと、閉ざされたままの門はやがてぼんやりとした光を放ち始め、その場に存在することを拒絶するかのように色褪せ、消滅した。


「魔法門だ。なんでリュシアナにこんな高度な魔導術が……」


 驚いたジークフリードの疑問に答えるかのように、兵士が言った。


「ノーブル皇国皇帝陛下のご協力によるものです」


 ジークフリードの顔が、瞬時に強ばった。

 リリーはというと、思わず何かを言い掛けた。しかし、彼の表情の変化を見て取り、口を閉ざした。リリーが横目でジークフリードを見ていると、それに気付いた彼は無理矢理な笑顔を見せた。

 門を抜けると、長い階段が姿を見せる。真っ白な階段の両側には、これまた銀の全身鎧と斧を装備した兵士が等間隔に立ち並ぶ。


「ノーブルの魔法門を使うなんて、悪魔対策ね」


 なんとなく呟いたリリーの言葉に、ジークフリードは頷いた。


「いくら金を受け取ったんだろうね」


 ノーブル皇国は極端に魔法が発達した国。それも、精霊を介して行使する「精霊魔導術」に特化した国だ。

 それというのも、ノーブル皇家の祖先は「精霊」であり、皇族並びに国民はその精霊の血を持つ。精霊への語り掛けは媒介や、技術ではなく血統のみに左右される。

 精霊に認められなければ、彼らの姿を見ることはかなわない。


「皇帝は貴方がここに来ることを心配したんじゃないのか」


「あーそれはない。関係ないよ。ぜんっぜん関係ない」


 吐き捨てるようなジークフリードの言葉を、リリーは表情も変えず黙って聞いた。


 長い階段にようやく終わりが見え始め、城内部に入ると豪華な彫像が二人を迎えた。まさに権威の象徴ともいえる獅子の像が立ち並び、汚れひとつない赤絨毯は王の間へと続く。

 天井を見上げれば、透明なガラス。支えるように這う、白い装飾の蔦。隙間からは青い空が見える。

 回廊には、まばらに大臣達や議員たちの姿が見える。それぞれ難しい顔をしたまま、二人を気にもせず通り過ぎていく。


「大佐はどうにも若すぎる」


 ぶつくさと文句を言いながら横を擦り抜けていく大臣達の言葉を、リリーはさほど気にはしなかった。

 そんな雰囲気を打ち壊すかのように、前方から前のめりに走り接近してくる人物がいた。


「リリ~!」


 それは、先程街で別れたのベリーだった。嬉しそうに、リリー達の元に走ってくる。


「神出鬼没ね貴方」


「会議の内容を諜報してた!」


「そういうことを大声で言うのやめなさいよ」


「それよりさぁ大変だよ。会議聞いてたら……あれ?」


 はた、とベリーは動きを止める。傍らにいる人物を見ると目を丸くした。


「じぃ!!」


「誰がじぃだよベリー」


 明らかに自分を馬鹿にした発言に、不機嫌に眉をしかめるとジークフリードは腕を組んだ。

 ベリーはそんなことはおかまいなしだ。


「てか何その見た目。相変わらずの若作りだよね。純粋な魔法使いって怖い」


「なに? じぃ喧嘩売ってんの~?」


 二人が犬と猿のように睨み合い火花を散らす。リリーは頭を抱え深くため息をついた。


「で、ベリー。一体何が大変なの?」


 するとベリーは急に表情を変えた。困ったように眉を下げながら。


「それがね。今終わった軍事会議の席で、アルフレッド陛下と大臣が衝突しちゃってさ」


「陛下と?」


 リリーは表情を変えた。

 ジークフリードもまた、ただ事じゃないことを察知したのか真剣な顔つきになる。


「…………あ、えと」


 ベリーはそこからさらに深い続きを話そうとしたが、ジークフリードを見て少し口ごもった。

 それを察したジークフリードは、「ああ」と腰に手を当て首を振った。


「別に他国の情報なんか興味ないし、報告するつもりもないけど。話しにくいんなら消えるよ」


「ごめんね、じぃ」


「まだ言う?」


 額に青筋を浮かべながらも、ジークフリードは二人に背を向け長い回廊を進んでいった。

 ジークフリードが少し遠くに離れたのを確認すると、ベリーは少し声を押さえ気味に話し始めた。片手を口元にあて、いかにも内緒の話のように。


「軍事会議では、聖騎士の軍の編成と、ヴァイスへの先制軍をどうするかって話だったの。アルフレッド陛下は、当初予定していた聖騎士だけの軍勢を送り込むより、上位騎士や聖王国の軍幹部を司令塔とした混合部隊を幾つか編成する案を出したわ」


「大佐が緊急会議で唱えていた案よりはよっぽど使える」


 頷くリリーに、ベリーもまた同意した。


「私もそう思うよ。国議院議長も賛成したの。でもさ、ぶっちゃけ聖王国の内部ってここまで分裂してたっけ? て感じの軍事会議だった」


「あの人は優しすぎるのよ」


 そうなんだよね、とベリーは頭を抱える。


「国議院と元老院は違うから……。国議院は国議院議長バロン様を中心に新体制を唱える革新派だけど、元老院は旧王家の血を引く化石の集まりみたいなもんだから。自分達の意見が通らないと嫌なのよ」


 淡々と語るリリーは、話しながらも思索にふける。


「今の聖王国は二つに別れてるよね。アルフレッド陛下の意志を尊重する新体制の国議院と、旧体制の元老院。こんなときなのにさ」


「で、アルフレッド陛下の意志に反した元老院はどんな案を出したんだ?」


「彼らが出したのは、聖騎士のみで軍を編成して備えること。聖騎士だけで事が済めば、王国は軍事力を削らずに済むから。あいつら、セイレがいたらそんな案恐くて出せないくせに!」


 アストレイアがいたならば、大臣達は何も言わずにアルフレッドの意志に従っていたくせに、とベリーは言いたいのだろう。

 アストレイアはアルフレッドを擁護していたし、政治に於いても多大な影響力があるくらい有能だった。


「私たちがここで話していても何も変わらない。結局会議はどうなったの?」


「なんだかんだ、陛下の案で可決されたよ~!」


「そう」


 そっけないリリーの返事だったが、顔はどこか安堵したような表情を交えていた。

 会議が終わったら軍部に通達がいく。そうなったらいよいよ「戦争」が始まる。自分はどこに配属され、どういう作戦に駆り出されるのだろうか。

 この戦いに生き残れさえすれば、姉に報いる事が出来るだろう。


「……悪魔の言葉に惑わされてはいけない」


 言い聞かせるように、剣を握る。片刃の剣は、静かに煌いていた。



 * * *



「聖王国も大変なんだなあ」


 二人と別れた後、ジークフリードはあてがわれた部屋には行かず、城内をぶらついていた。

 通り掛かったメイドが彼に気付き、丁寧な物腰で声をかけてきた。


「ジークフリード様どちらへ? もうすぐ王から知らせがある筈ですので客間にご案内いたしますが……」


「すぐ戻るから気にしないで」


 メイドが言い終わる前にキツイ口調でそう言うと、ジークフリードはまた歩き始めた。

 回廊を闇雲に歩いていると、中庭に面した場所に出る。視界には、あの祈りの塔が飛び込んできた。


「こんなでかいものよく作ったなあ。全部“聖石”かな?」


 回廊の柱に持たれかかりながら独り言を言う。

 祈りの塔はその全てが聖石と呼ばれる特殊な鉱物で出来ている。聖石は聖王国リュシアナでしか採れない鉱物、これだけの聖石を採取するにはかなりの年数がかかっただろう。

 祈りの庭には今日も民達が祈りを捧げに膝まづいているはずだが、少し様子が違った。

 それに気付いたジークフリードは手のひらを額に当て、真上からの陽を遮りながら祈りの塔の下部を見つめた。


「ん?」


 蠢く何かを見付け、目を凝らす。そこには数人の人間が、塔内部に通じる扉の前で何やら話し合っていた。


「なんなんだろ……」



 * * *



 それから幾日か経ったある日、リリーの元に来客が訪れた。

 ずっと城での待機を命じられていたリリーは、いい加減退屈だった鬱憤を晴らすように、これでもかというほどくつろいだ姿でそこにいた。


「なんて格好しているんだよ……」


 聞き覚えのある声にリリーは瞳を動かす。本を顔に被せソファに横たわっていた彼女は、まるで下着同然の部屋着のままだった。そしてそれは、マティスを認識した後も変わらない。


「マティス?」


「人を招き入れる恰好じゃないだろそれ」


「何か用?」


 相変わらずそっけない態度にマティスは苦笑いした。


「いや、用ってほどじゃないんだけど、少し話があって」


「王からの伝令?」


「ああ、その伝令を伝えにきたんだ」


 マティスは持っている封書を見せた。獅子の紋が押されている。


「それなら早く言って」


 リリーは封書を受け取ろうと手を伸ばしたが、マティスがひょいとそれを上に上げた。


「ふざけないで」


 当然のようにリリーは眉をひそめた。


「お茶くらい飲ませてくれてもいいんじゃないか?」


「……面倒」


 程なくしてメイドが部屋に訪れ、紅茶と菓子を出してくれた。

 香り高い紅茶の琥珀に揺れる水面を見つめながら、リリーは懐かしそうに溜息を吐いた。


「俺も連日会議に出たからさ、疲れて喉が乾いちゃって」


「この前は大分モメたようね」


「何故知ってるんだい?」


 しまった、とリリーは顔には出さず後悔した。ベリーが諜報してたなんて言える筈もなく。黙ってカップに紅茶を注ぎ足した。


「それより、伝令の内容は?」


「ああ、そうだったね」


 マティスは封書を机に置き、注がれた紅茶を一口飲んだ。


「作戦の詳しい内容は、全体協議の時に話してくれるだろうけど、大体はこれだ」


 封書を開くと一枚の通達文が入っていた。


「作戦名は『グランカリウス』。本作戦の成功を祈り、王と共に在った彼の剣聖の名前からとったそうだ」


「聖戦気取りね」


 リリーは書面を手に取り、椅子に腰掛ける。向かい側に座るマティスを、怪訝な顔で一瞥した。


「マティス、騎士の名前に私が入っていないんだけど、出なくていいってこと?」


「も、もう最後まで読んだのかい?」


「読み飛ばしただけ」


 マティスは頭をかいた。


「肉親があんなことになったんだ。まだ日も浅いのに、いきなり前線送りにはしないよ」


「……で?」


「というより、陛下と国議院議長がそれを止めたんだ」


「え?」


 マティスは驚いた様子のリリーに微笑みかけた。


「大臣達は君に先陣をきらせようとした。士気が高まるってね。でもそれを陛下が止めたんだ。だから君は、後続部隊だ」


「陛下と議長が……」


 妙なこそばがゆさを感じながら、リリーは封書を元どおりにしまう。


「君に死なれては困るんだよ、陛下も議長も」


「私が、セイレの妹だから」


「違う、『君』だからだよ。俺だって君とじゃなかったらヴァイスから帰ってはこれなかったよ」


 まっすぐリリーを見つめてマティスは言う。

 窓から差し込む陽の光が、マティスの蒼い瞳を透き通るように輝かせ、貴族らしい雰囲気をかもしだす。

 しばしの沈黙が流れ、耐えられなくなったリリーは顔をそらした。


「ありがとう」


 リリーの頬は、少し赤くなった。

 今までどんな時でも姉の付属品でしかなかった自分だが、今初めて姉抜きで必要とされたことに戸惑う。

 その様子を見たマティスもまた、頬を赤くした。小さく咳払いし、彼女をまた盗み見る。

 可愛いと思ってしまった自分に素直に照れ、また赤くなった。


「──もう、用事は済んだ?」


 視線に気付いたリリーは、あからさまに顔をそらした。


「あ、ああ。そうだね。これを飲み干したら帰るさ。リリーはもう飲まないのかい?」


 リリーは、自分用にも紅茶を入れていたのだが、すっかり忘れていた。冷めてしまってはいたが、リリーはそのカップを手に取った。

 カップを手に取り、一口。口の中に、紅茶葉の香が広がる。口を離し、ふう、とそれをテーブルに置いた。

 その刹那。カップはテーブルに置かれることなく、大理石の床に落ち砕け散る。陶器のカップはあたりに音をたてて散らばりながら、橙色の液体を撒き散らす。

 そしてそれに続くかのように、リリーが体勢を崩していく。

 目の前の景色がぼやける。足に力が入らない。

 反射的にテーブルに手をつき、なんとか倒れるのを防ぎ首を振るが、体に力は入らない。


「な……ッ……何……」


 声すらも、うまく出ない。

 段々と景色は白んでいき、見えなくなる。

 ぼんやりとした中に、向かい側に座っていたマティスの姿を見つけ、リリーは助けを請うように手を伸ばした。しかし、


「リリー……ごめん」


 言葉とは裏腹に、マティスは妖しい笑みを浮かべていた。

 何が起こったのか。

 それを考える間もなく、リリーの思考は途絶えた。

 蒼く結い上げられた髪ははらりと崩れ、体はそのまま倒れこんだが、地に叩きつけられる前にマティスが支えた。


「……識り過ぎた」


 華奢な少女の体は、完全に彼の手に委ねられてしまった。


 ──暗闇の中、リリーは夢を見た。

 夢か幻影か。現実との境がつかないくらい、情緒的で懐かしい夢。


「ねえセイレ。悪魔って私たちとあまり見た目は変わらないんだね!」


 蒼い髪の幼い少女が花畑の中を走っている。

 あれは、昔の自分。リリーは客観的にそれを見ていた。


「リリー。そういうことを言うと罰をうけるぞ?」


 姉さんか。

 背格好からして、聖騎士試験を受ける前だ。

 リリーが見ているのは、十二歳のセイレだった。


「だって! この間悪魔さんとお話したよ? 優しかった!」


「悪魔と? お前何もされなかったのか?」


「一緒にお花摘んだ!」


 幼いリリーは満面の笑みで花で作った冠を姉に渡した。

 セイレはそれを受け取ったが、被らずして、リリーに語り始めた。


「あのなリリー。私はもうすぐ聖騎士になるんだ。その優しい悪魔さんを倒さなきゃいけない」


「なんで!? 駄目だよセイレ! 倒しちゃやだよ! 悪魔さん優しいよ!」


「リリー……でもな」


 花畑に佇む二人。セイレは困ったように笑い、泣きじゃくる妹を優しくなだめた。


「やだよ……やだよセイレ。悪魔さん殺しちゃやだよ……」


「リリー……泣くな。悪魔は敵なんだ。私はお前を守りたいから」


 ──こんなことが、あったんだな……。

 覚えていない……。


 “リリー、泣くな。賢く待ってるんだぞ。かならずお前を、守ってやるから”


 守ると言った、セイレ。

 守ると言った、あの悪魔。

 私は、どちらの、意志を。


 リリーは、静かに目を閉じた。



 * * *



 遠く離れた、北の大地。

 緋色の髪をひとつに纏め、青年は身仕度を整えた。

 腰には、鋭い鉄の剣。誰が見ても、これから彼が何をしにいくかは一目瞭然だった。

 彼の背後にはいつのまにか金髪の青年が立っており、未だ回復しきっていない体をひきずっていた。


「行くのかよ、ヒル」


「……誰かと思ったらライザーか」


 緋色の髪の青年ヒルは、ライザーに振り返り笑みを浮かべた。


「わかってんのか? あそこには今各地から……」


 ライザーは彼が『そこ』に行くのを快く思わないのか、引き止めるような言葉を出す。


「俺にしか出来ないんだよライザー。色んな意味でな」


 ヒルは笑みを浮かべたままだが、瞳は少しも笑ってはいない。

 ライザーはそれ以上何も言えず、力を凝縮し空間移動の準備を始めるヒルを、ただ見守るしかできなかった。


「セイレ……今お前との『約束』、果たしてやるからな」


 ヒルが前方に手をかざすと、そこには鏡を割ったときのような亀裂が入り、ピシピシと音を立てながら異空間への道が開いた。中は、漆黒の闇。

 ヒルは恐れもせず、静かに足を踏み入れた。


「絶対戻ってこいよ、ヒル……」


 ライザーの言葉は、ヒルには聞こえてはいないだろうが、それでも彼が居なくなった空間を見つめつぶやいた。



 * * *



 明朝、リュシアナ王都アルフォンスには各国から名のある上位騎士が集結し、物々しい雰囲気に包まれていた。

 民達は、ひたすら祈るしかなかった。

 街の中を城へと向かう何十台もの馬車が通り、至る所から急に現われる騎士。空を見上げると、異様な色の翼をはためかせ、城へと向かう人ならざる騎士。

 いくらリュシアナの民が聖騎士を崇めているとはいえ、そんな異様な光景に不安がつのるのは当たり前で、皆は一様に顔をしかめ、その場で祈るように膝まづいた。

 部隊は既に編成され、軍事会議も「魔導通信機械」を使い、各国首脳との連携はとれている。準備は、万端だ。

 後は、出陣前のアルフレッド王の演説を待つばかりだった。


「演説? なんで演説なんかするのさ」


 城の中庭、祈りの塔がある庭に続く回廊を進みながら、ジークフリードは疑問を独り言のように口にした。  


「人の心を統一するには、絶対的な心の拠り所、象徴的な人間の存在が必要なのですわ」


 ジークフリードの問いにすぐさま答えが返ってきた。

 淡々として聞こえるが、その声の持ち主の女性の顔は優しく微笑んでいる。


「分かりますか? ジークフリード」


 ジークフリードはその細い両腕を自身の頭にやったまま理解したように小さく頷く。


「ふーん、今はセイレがいないからかなあ。確かに、聖騎士は単独行動が多いから自分勝手な奴が多いし…………陛下の話を聞くと、まとまるかもね」


「そこまで分かっているならば上出来ですわ。よく出来ました」


 女性が優しさを帯びた声で誉めると、ジークフリードは少しムッとした顔つきを見せた。子供のように扱われるのが、どうやら気に入らないらしい。


「あのさ、僕はもう十七歳だよ? それに、頭だけなら君よりは良いと思うけど?」


 生意気な態度を見せるジークフリードだったが、女性はなんら感情を高ぶらせる様子もなく会話を続ける。


「ジークフリード。そのような言い方は、あまり感心しませんわ」


 ぴしと目の前に立てられた細く白い指。ジークフリードは思わず口をつぐむ。


「だからさあ、僕は子供じゃないっていってるのに」


 拗ねたジークフリードを母性溢れる眼差しで女性は見つめていた。


「ねえ、聞いてるアメリ?」


 アメリと呼ばれた女性は、小首を傾げ微笑んだ。腰ほどまでの黒髪が、さらさらと細かに流れる。包容力を兼ね備えた落ち着いた瞳は青く、誰が見てもはっきりと「美人だ」と感想をもらすだろう。

 異国情緒漂う服は、高価な綾で出来ている。


「聞いていますわジークフリード。ですが、あなたは少し目上、目下という関係を知らなければいけませんわ。私はあなたより上、第二階級なのですから」


 アメリの言葉尻は優しいが、奥深い威圧感がジークフリードに伝わってきた。

 だが、見た目は清楚で上品で、とても第二位の英雄聖騎士などという仰々しい人物には見えない。それこそ、和の織りなす畳の上に据えれば、月から来た姫だと言っても疑うことはないだろう。


「えっらそうにー。これだからお姫様は」


 歩きながらも彼女との距離を取り、怯えながらもジークフリードは反発する。どうやらアメリの実力は彼よりも数段上のようだ。


「ジークフリード。貴方と同じく、もう私に過去の身分は存在しません。その呼び方はやめて頂けますか?」


 アメリは、真剣な面持ちで言う。ジークフリードは、はいはいと軽く流した。


「それよりさ、アメリはリリーって知ってる?」


 アメリは頭の上に疑問符を浮かべ首をひねる。


「リリー?」


「こないだ会ったんだけどさ、セイレの妹だよ。すっごく強いんだよー!」


 そう言うジークフリードは、まるで自分のことを語っているかのように得意げだった。


「ああ、セイレ様の。変わり者の……」


「その言い方、本人の前では言わない方がいいよ。普通の子だったよ。ほんと」


「セイレ様を亡くされてさぞ落ち込んでいることでしょう」


「まあそれはね……。あ、でも聞いたらさ、その後四人の部隊だったにも関わらず無事にヴァイスから帰ってきたんだって! すごいよねー! 僕たちだってなかなか行ってこようとは思わないのに」


「……そう」


 アメリは、僅かに眉をひそめた。そうこうしている内に、回廊の終わりが前方に見え始めた。その向こうに見える中庭には、昼間の太陽からの橙色の光と、祈りの塔から発せられる光が不思議に交差していた。


「リリー……偉大なアストレイア様の妹」


 小さく、誰にも聞こえない声で呟くアメリ。二人はそれ以上会話を交わすことはなく、足を進めていった。

 祈りの庭にはもう大勢の人間が集まっていて、塔の前には玉座が設置されていた。周りを高く頑丈な壁が円形に囲み、祈りの塔を守っている。その厳かな雰囲気から、人は神の存在を信じずにはいられなかった。

 ジークフリードは辺りに目を凝らし、しきりに彼女を探している。


「リリーはもう来てるかな?」


「さあ、どうでしょうか」


 アメリはそっけなく答えた。


「間もなく陛下がお出ましになられる! 隊列を乱すな!」


 祈りの庭には、上位騎士や各国軍幹部たちの錚々たる顔触れが並んでいた。

 庭にいるのは各部隊長、一般兵は庭の外にある投影装置を見ていた。

 そして、庭の中心部にそびえる祈りの塔の前、祭壇のようになった玉座が据えられていた。

 右にはシュナイダー大佐、左には元老院議員が並んでいる。


「おかしいですわね」


 最前列の中央に並んでいたアメリはその大きな瞳を玉座に向けた。


「何が?」


 すぐ横に並んでいるジークフリードはその呟きに気付き、首を傾げる。


「先程から気になっていたのですが、議長殿の姿が見えませんわ」


「議長? バロンのおじいちゃん? そういえば……」


 ジークフリードは目を懲らし辺りを見回してみたが、確かに国議員議員の姿はあっても、バロン議長の姿だけは見当たらない。


「陛下と一緒にいるんじゃない?」


「そうですわね、あまり気にすることでもないかとは思うんですが」


 アメリは目を伏せため息を吐いた。


「何故か、祈りの塔から凶々しい気配がするものですから」


 そう言われると、ジークフリードは改めて塔を見上げた。美しい聖石の塔は、いつもと変わらないように見えるのだが。


「何も気にすることないでしょ」


「ですけど、こんな大事な日に……」


「アメリって細かい」


「なんですって?」


「ううん、何でもないよ」


 アメリは横目にジークフリードを睨んだが、彼はわざとらしく知らないふりをした。

 ふいに、ジークフリードは何かに気付き、その視線の先をじっと見つめた。


「ジークフリード?」


 アメリが尋ねると、ジークフリードは自信がなさそうに答えた。


「見間違いかな。今、塔が揺れたような…………」


「まさか」


 アメリも目を凝らして塔を見上げた。だが、別段変わった様子はない。


「何も変わりませんわよ?」


「ほんとだって!」


 ジークフリードは頭をかきながら、納得がいかない様子だった。だが、アルフレッドの演説が始まる合図のファンファーレが中庭に鳴り響いたため、姿勢を正し、王が現われる扉に目をやった。

 ジークフリードは、しきりに塔を気にする。話をしながらも、ちらちらと横目で様子をうかがう。アメリも、先程から妙な気配を察知してはいたが、ジークフリードほど気にはしていなかった。

 ファンファーレによる演奏が終わりに近づくと、祈りの庭に入る扉の中でも、ひときわ大きな扉が開いた。

 そこから塔に向けて、近衛兵達が両側に並び王の通り道を作り、獅子の紋が施された剣を垂直に持直し敬意を現す。

 びたりと兵士達の動きが静止すると、扉の奥からアルフレッドが現われた。彼は、いつもと変わらない優しい微笑みを讃えている。

 獅子の大きな顔がついた毛皮のローブ、暁色の長い髪をなびかせ、自らも戦に参加することを示すかのように、白銀の鎧に身を包んでいた。


「──静粛に! 陛下より出陣前の御言葉を承る! 皆、心を静めよ!」


 シュナイダー大佐の言葉とともに、アルフレッドが玉座が据えられた祭壇にあがった。

 椅子に座らず、目の前に集結した聖騎士達を見渡し、感慨ぶかそうにし目を細めた。

 庭が、静まり返る。

 アルフレッドが背にした祈りの塔は、彼の王たる威厳を増長させるかのように、光り輝いている。

 祭壇のすぐ横に立っているアメリを含め庭にいる騎士や兵士ははそれに見とれていたが、ジークフリードだけはまだ、塔を気にしていた。


「皆、偉大なる戦いを前にして、今何を思う?」


 アルフレッドは静かに語り始める。声は、不思議と庭全体に響き渡った。


「祖国の為、民の為、戦地に赴く勇気あるそなたらに、私は今強い歓喜に震えている」


 穏やかで、少し低い声が響き渡り、皆は魅き込まれたように彼の話に聞き入っていた。


「世界は蝕まれ続けている。北より現れ出でる悪魔の恐怖。そして創世神を信じぬ不幸な者たちの歩み。狂わされた世界を取り戻した我ら人間を、脅かす存在。私は、その全てに立ち向かおう。このまま歴史が過去の災厄を繰り返し、再びあの横暴な悪魔の手により破壊の危機を迎えることだけは、決してさせはしない!」


 アルフレッドの声に、力がこもる。呼応して、人々も拳を握り締めた。


「獅子の子よ! 正義の執行人である騎士よ! 剣を持て! これ以上、命を恐怖の牙で失くすべきではない! 人間が生きるこのアーリアは、人間の御世! そしてついに悪魔の世は去るのだ! そなたらの剣で――!」



 * * *



 痛い。

 何も、見えない。今は、朝か夜か。

 そんな感覚もつかめない。


「……あ…………」


 そこは、見渡すかぎりの闇。かろうじて見えるものといえば、遥か頭上にゆらゆら揺れる灯りのようなものだけだった。

 リリーは声を出そうとしてみた。だが、擦れたような吐息が洩れるだけ。今度は四肢を動かそうと試みる。しかし頭の中で四肢に命じても、それらが命令に従うことはなかった。否、従えない、動けないのだ。

 何故なら彼女の手首には、重い薄灰色の鎖と、手錠のようなものがはめられていたからだった。鎖はリリーを吊り下げる形になり、浮いていることで彼女の手首には全体重の負荷がかかる。結果、痛々しい程の擦れ傷が出来ていた。リリーは朦朧とする頭で、こうなってしまった直前の出来事を思い出していた。


 浮かんだのは、意識を失いかけたリリーを見下ろす、マティスの瞳。それから後は、わからない。気が付けばこうやって、この暗闇に四肢ばかりか視覚や声までも梗塞されていた。

 リリーは気丈に、なんとか助かる方法を探していた。だがこの三日間、飲まず食わずだったせいもあり、さすがに頭はうまく回らなかった。


 リリーはふいに耳に神経を集中させた。遠くから、何者かの靴音が聞こえてきたのだ。カツン、カツンとその音は徐々に大きくなり、こちらに近づいてくるのがよく分かる。

 その靴音はある一定の場所に到達すると止み、それを合図にリリーの眼前には小さな灯りがともった。おそらく靴音の持ち主が燭台に火をつけていっているのか。灯りは暗闇だった室内を照らし、ついにその人物とともに全様があきらかになった。


「マティス!」


「……リリー」


 その人物はマティスだった。白に青い縁取りが施された正装。胸には聖王国の勲章をつけ、髪も少し後ろに流している。

 明るくなったことで、自分が吊されているのは、祭壇に飾られた白く巨大な十字架だということが分かった。十字架のさらに後ろの壁には、獅子と女性の象が飾られている。

 彼女が今いる場所は、どうやら何かの教会のようだ。中央には長い通路があり、両側にはマティスがつけていった燭台が等間隔に並んでいる。全体はよく見れば円形で、やたらと天井が高い。


「なぜ……」


 リリーの消え入るような問い掛けに、マティスはその前まで歩み寄り、彼女を見上げた。その視線にかつての優しさはなく、冷たく透き通る青いガラス玉のようだった。


「さすがに、丈夫な体だね」


 リリーの体は既に生気なく、衣服も拷問を受けたのか数ヶ所破れている。それでも、その眼は輝きを失ってはいない。


「何故……だ」


「何故かって? そうだね、もう話してもいいかもしれない」


 マティスは冷たい笑みを浮かべると、腰の剣をすらりと抜いた。細身の剣はリリーの首元に定まり、今にも容赦なく貫きそうだった。


「リリー、覚えているかい?」


「なに……を」


 リリーは喋るのもやっとだったが、なんとか声を振り絞る。


「あのヴァイスで、俺が君に言った『言葉』さ」


「言葉?」


 眉をしかめ、リリーは記憶の糸を手繰ってみたが、何のことか見当はつかなかった。


「俺はこう言ったんだ。『悪魔の言うことなんかに耳を貸すな』って」


 マティスは剣の切っ先をリリーの頬に移し、刀身をぴたりとつける。


「君は俺の言うことを聞かなかった。迷っていた。そうだろう?」


 確かに、あの時リリーはヒルから『セイレは生きている』という話を聞いた直後で、ひどく混乱していた。


「あれは人類に対しての逆臣行為だ。聖騎士なら、規約は覚えているだろう。『悪魔を見たならば、全てその場で抹殺すべし』」


「ちが……ッ。あれは……!」


「なんだい?」


「あれ……は」


 マティスは剣を下ろし、リリーの口元に耳をやる。だがその小さな反論の言葉を聞くのではなく、自身が語り始めた。


「どうしたんだい。悪魔から、衝撃的な何かを聞かされたりでもしたのか?」


 その言葉に、リリーの瞳は大きく動いた。凝視するようにマティスの顔を見る。


「貴女には失望したよ」


 マティスは落胆したかのようにため息を吐くと、祭壇から離れまたこちらを振り返った。

 何故だろうか、そこにいる彼は、リリーと共にヴァイスに赴いたあのマティスではなく、全く違う人間のようだ。


「あなたは……誰…………」


 低く唸るようにリリーが問う。マティスは薄笑いを浮かべながら答えた。


「俺はマティスだ。センシディア家の長男、マティスだよリリー」


 すると、室内に太陽が入り込んだのかと思うほど、辺りが急速に明るくなっていった。天井から光が差し込んだのか、燭台の光だけでは分からなかった室内の隅々までが見えた。

 それは無情にも、目の前の信じられない光景をも映し出す。リリーは何かに喚ばれたように、高い天井を仰いだ。

 天井で微かに輝いていた灯りは、灯りなどでなく。聖石と呼ばれる巨大な水晶が放っているものだった。

 いや、違う。水晶の中にいる人物が、といったほうが正しいだろう。

 どんな原理なのかは分からないがそれは空中に浮かび、呪印が施された帯を幾重にも巻き付けられている。

 しかしリリーが驚いたのはそんなことにではなく、中にいる人物をはっきりと認識したからだった。

 目の奥が、熱くなった。その聖石、クリスタルの中で淡く光を放つ人物は、リリーが長年探し続けていたその人。


「姉さ…………」


 金色の髪が水中にいるかのように揺れている。遠目にも分かる、あれはまぎれもなく姉のセイレだ。疑問は確信に変わった。


「姉さん!!」


 リリーは必死に名を呼んだ。先程まで擦れた声しか出なかったはずなのに、今度は響き渡るような大声で。

 死んだと思っていた、今となってはたった一人の肉親。なんとかしようと藻掻いても、腕を縛る鎖がリリーの自由を奪ったままで。


「マティス! 姉さんに……姉さんに何をした!!」


 睨み据えるも、マティスは平然としている。


「何もしていないさ」


「今すぐ姉さんを解放しろ! さもないと…………」


「――さもないと、どうなるのだ?」


 リリーの言葉が終わるより早く、とある人物の言葉が被さった。通路をゆらり、ゆらりと歩いてくるその者はあきらかに老体だったが、威厳に満ちた立ち居振る舞いは身分の高さを物語る。後ろには数人の警護兵。いずれも近衛兵の紋章をつけている。


「愚かな、何も識らずにいれば事無きを得たものを」


 その老人は、法王を思わせる荘厳な装飾が施された白を基調とした衣服を纏っている。手には、豪華な十字架を型どった杖。


「バロン国議院議長様」


 マティスは深く頭を下げた。バロンはうむ、と相づちをうつと、リリーに視線を戻した。


「議長……!」


 リリーは怒りに満ちた目を向けたが、バロンは不適な笑みを浮かべ、杖を支えに彼女の前に立つ。


「さて、リリー。此処がどこだか分かるか?」


「知るか!」


 バロンはふう、とため息をつくと首を振る。


「ここは祈りの塔の中だ」


 バロンは杖で軽く地面を叩いた。すると、先程まで頭上高く浮いていた水晶の檻がゆっくりと降りてくる。周囲には緑の粒子が舞っており、それは中にいるセイレから放出されていた。

 水晶の檻が、リリーの目の前に降り立つ。そうなったことで、リリーとセイレの距離がぐっと縮まった。

 もう、手を伸ばせば触れられる位置にセイレがいる。

 瞳は閉じられたままだったが、外見はあの頃とほとんど変わっていない。金の睫毛も、陶器のような白い肌も。

 リリーは、込み上げてくる何かを、唇を噛み締めることで必死に抑えた。


「セイレは良くやってくれた。申し分ない『器』だ」


 バロンは聖石に手をつきながら、慈しむような目でセイレを見る。

 その様子にますます腹が立ったリリーは、手首の手錠がちぎれんばかりの勢いで叫んだ。


「バロン!! セイレを返せ!! どういうつもりだ! セイレは死んだと…………あの時の死体はッ!」


「リリー、落ち着いて」


 マティスが諫めるように言ったが、それはリリーを余計に逆上させた。


「マティス……お前も知っていたの1? 騙したのか! 私を!!」


「そうじゃない! でも君は……!」


 マティスは何か言い掛けたが、バロンの鋭い目線に気付くとそれ以上の発言はやめた。


「リリー、見なさいこれを。『完璧』だ。力、素質ともにな」


 バロンがセイレを目で指し語る。


「お前は今疑問だらけだろうな。ひとつは何故アストレイアが生きているのか。もうひとつは何故自分が捕われなければならないのか」


「どういう……」


「これから、アルフレッド陛下の演説がある。それが終われば、シュナイダー大佐、英雄聖騎士達の軍がヴァイスに向けて出陣する」


 バロンは時折咳払いをまじえながら、話を進めていく。


「皆の心は、アストレイアが死んだということによってひとつに固まりつつある。だがな、まだ足りないのだ」


「リリー、君が気紛れに暴いていた大臣達の悪事。あれが明るみに出ることで、民の忠誠心は王室から離れていった」


 マティスが付け加えると、バロンは頷きため息を吐いた。


「そう、そして民の心はいつしか、アルフレッド陛下ではなく、ある一人に向けられるようになっていた」


 忌々しい、と言わんばかりにバロンが顔を歪める。老体とは思えぬ闘志を瞳に宿し、リリーを睨む。


「ふざけるな! 国民の心が移ろうのは貴様ら自身の責任だろう! 議会を分断し、己がすべての政治をしていれば当たり前だ!」


 もはやリリーには、いつもの冷静な分析と思索をめぐらせる余裕は無かった。ただ目の前の二人が、自分を騙していたということ。セイレを監禁しているということに対しての抑えきれない感情を剥き出しにするしか出来なかった。


「犬のように吠えるな、頭が痛くなる。それだけなら貴様を殺しはせんわ」


「なんだと?」


「リリー、先程もマティスから聞いたであろう。お前は悪魔と対峙しても、殺さなかったそうだな?」


「だからっ……なんだ」


「……我々はもうひとつ、恐れていた種が芽吹く前にそれを摘み取ることを決意したのだ」


 バロンが後ろに控えていた兵士に手で合図を示した。すると兵士達は素早くリリーの元に集まり、彼女の右腕だけを拘束具から外すと、ぐっと押さえ付けるように掴んだ。

 バロンは笑みを浮かべる。マティスは、傍観していたが、耐えられなくなったのか目をそらした。

 バロンが再び合図をすると、兵士の剣がリリーの聖騎士の紋章に向けられた。

 そうして何の前置きもなく、唐突に、剣はリリーの二の腕の肉を切り裂き、紋章を血に染めた。


「う、あっ……ひ……ぁッ!!!」


 焼けただれるような激痛が、リリーの神経を麻痺させる。鮮血が噴き出し、床に滝のように落ちていく。

 悲鳴が、とまらない。体をのけぞらせ痛みをなんとかしようと藻掻くが、体は左腕の拘束具と兵士達に押さえ付けられているままで、それは叶わない。

 瞳からはついに涙が雫となって零れた。それは、痛みだけのせいではないのだが。


「……ッあぁ……う…………、は……っ」


 体がぶるぶると震え、連動するように衣服はたちまち紅に染まった。十字架を背に泣き叫ぶも、救いの御使いが現れることはない。


「これも陛下の御意志だ」


 バロンの言葉は、リリーの精神を混乱させるには十分な一言だった。

 ついこの間、優しい声で微笑んでいたあの幼馴染みが、そんなことを命令したなどと。

 信じられる筈がない。だが、腕から流れる生温い液体の感触が、思い出を溶かしていく。


「なんで……っ、アルフレッドが……」


「喧しい、もう一度だ」


 続けて、斬りつけられる紋章。叫びの声から力が消え、女の悲壮に変わる。

 目を逸らしていても耳に入るリリーの叫び声。マティスはたまらず、バロンに歩み寄り声をかけた。


「あの、議長」


「なんだマティス?」


「もう、十分では」


「まだお前はそんな甘いことを。この出来損ないめ、下がっていろ」


 バロンに一喝され、マティスは下がるしか出来なかった。小さく、拳を握り締めたまま。


「そうか……。私を……前線に行かせなかったのは……」


 息も絶え絶えにリリーは言った。


「おお、まだ余裕がありそうだ。“さすが”じゃのう」


「最初……から、こうするつもりで……」


「それ以外に何がある? おいどうした、もう片方の腕もやれ」


 バロンの一言で、今度は別の兵士の剣がリリーの左腕を貫いた。


「ぃ、いっ、やぁッ!! あああああッッ!」


 両腕から血が噴き出し、狂うリリー。それはまるで紅い翼を纏う異形。

 リリーの深緑の瞳は急速に焦点が定まらなくなり、曇りを見せる。

 辺りの景色が、白んだかのようにぼやけていく。


「セイレ……っ」


 目の前の姉を呼ぶ声。セイレには、届かない。

 二人の間を、水晶の壁が阻む。

 リリーはもう何も考えられなかった。頭の後ろがじんじんと痛む。意識が薄れていくのに、胸の底が焼けるように熱い。


「私が……ッ、私が何を……」


 必死に喋るリリーを、バロンは虫けらか何かを見るような目で見ていた。


「お前の存在は我々の未来にとって非常に邪魔な存在だ。そう。貴様の『存在』自体がだ」


 バロンはリリーの顎をもち、くいと上に向かせた。涙に塗れた深緑の瞳は、怒りに満ちている。


「この翡翠の瞳、貴様の持ちえる希なる血統の証」


「くッ……」


 リリーの顔がひきつる。バロンは続けてこう言った。


「ひとつ昔話を教えてやろう。北の大地に豊かに発展した、おとぎの国の話じゃ。国の名は、“ヴァイス”」


 瞬間、リリーは無言に驚きの表情を見せた。


「驚くのも無理はない、世間の今の認識ではヴァイスは悪魔の巣、じゃからな」


 バロンは、続けて語り始めた。


「──気の遠くなる昔の話だ」


 北にヴァイス、南にリュシアナと云う二つの国があった。

 ヴァイスに住む人々は、不思議な力に長けていた。

 それは人間の夢である「不老長寿」や、「空間術」や「時間術」。

 自在に炎や水を出現させる力。いわゆる魔導術であった。


 そのような力を持ちながらも、ヴァイスの民は温厚で平和を好み、大国ながらもその力をひけらかすこともなく、日々ひっそりと暮らしていた。

 だが、時の聖王国国王は彼らを脅威と感じていた。


『いつか、自分達は彼らに支配されるのではないか』


 そこで王は、ヴァイスに友好を求め、様々な分野の技術交流を提案した。

 ヴァイスの民はそれを快諾した。平和を好む彼らは、世界を二分していた国がひとつになるのだ、と。

 その裏にある意図には、気付きもしなかった。

 そして、ヴァイスの民の"魔法"を我が物にした王は、すぐさまヴァイスの地に攻撃を仕掛けた。

 彼らから教わった魔法を、彼ら以上に使いこなす人物の手によって彼の地を永久凍土の地に変えたのだ。

 氷は建物を閉じ込め、人々を散り散りにした。


 生き残った民らはそのまま、極寒のヴァイスに、震えながら身を隠すことになった。


 以後、聖王国は飛躍的な発展を遂げ、歴史上類を見ないアーリア一の国家となる。

 しかし、王はぬかり無かった。

 ヴァイスに生き残りの者達がいることを知ると、彼らを討伐する「聖騎士」なる精鋭部隊を創設し、徹底的な排除を唱えた。

 自分達に歯向かうものは全て「悪魔」と称し、さも自分達は「正義」だといわんばかりに。

 数百年の間に数を膨らませていたヴァイス王家の生き残りの者は、それにより本来の温厚な性格は変貌し、彼らもまた復讐心から人間を襲うようになった。


 これが、人類と悪魔の戦いの始まり。


 今となっては、どの歴史書にも記されていない、削除された記述。

 ヴァイスの民は、かつて「魔法」を人類に伝えた心優しき民だったということだった。


「これで分かっただろうリリー。自分が何故ここまでされるのか」


 バロンは、そこまで語るとリリーの顎から手を離し、十字架の杖をたよりに祭壇から下り背を向けた。


「嘘だ…………」


「お前は、悪魔から寄越された『献上品』だ! そうすれば我らはこれ以上ヴァイスに侵攻しないという条件でな!」


 悪魔を倒さなきゃ。

 姉さんを殺した悪魔を倒さなきゃ。

 どれだけ寂しくても、辛くても、人々のたった一つの目標。

 世界の安寧を揺るがす、悪魔を倒さなきゃ。

 今分かった。あの両親の、怖がるような態度。

 今気付いた。この髪が何故、曇るような青であるのかを。


「よく働いた! 今までよく働いてくれた! 同胞の首を刎ね同胞を踏みつけ! よくここまで聖王国のために働いてくれた!」


 バロンは手で顔を庇いながら、狂ったように笑った。

 暗い顔が背後で笑う。流れ落ちる胃の濁りが、熱を持つ。

 足元の硝子が砕けて、決して見てはいけない闇の向こう側へと招き寄せる。

 信じていた全てが、送る花の色へと変わり、翡翠が、あの青い世界の翡翠が。

 ただ、終わりを待つだけの時間。流れ出る血が、体を氷のように冷たくする。

 倒れることすら許されないその塔の中で、己から流れ出る血の音が、最期へ向かう鐘のように鳴り響いていた。

 考えようとすればするほど、リリーは悔しさと悲しみに押しつぶされそうになり、最早涙も枯れ果てていた。

 生まれてから見てきたもの全てが、ただの偽りだったのだと気付いた時、怒りよりも寂しさが心を握り潰してくる。

 ベリーは知っていたのだろうか。あの鍛冶屋の主人は本当は何を思っていたのか。アミーは。バルドは。


 あの、優しい姉は、本当は――。


 “お前を、守る者だ”


 頭の中に、蘇る温かい眼差し。

 真紅の瞳に映る、小さな自分が泣きそうな顔で彼を見つめる。


「我らが創世神の御元で、そのまま果てるが良い」


 バロンが冷たく言い放つ。そしてそのまま、急ぎ足で外に通じる扉に向かう。


「マティス、分かっているな」


 マティスは、リリーに向けて剣を構えた。

 何も言葉は無い。僅かに唇を噛みながらも、息を整えてリリーを見据える。


「い、やだ……」


 嗚咽を漏らし、リリーは歯を食い縛る。


「私は聖騎士なんだ……姉さんの仇を……姉さんの仇を……」


 血で滑る床に、涙が落ちる。


「っ、私が……悪魔……だ、なんて……っ」


 こんなになってまで、まだ生きていたいと思う心が残っている自分を、リリーは浅ましく感じていた。

 早く、この体の全ての血が流れてしまって、そして終わればいい。

 姉を、生きながら裏切っていたこの命は、在るべきではない。


「もう…………」


 終わる世界に、もう、救いは要らない。


「……もう、終わって…………」


 眼前に迫る白銀の刃。まっすぐに首を目がけて迫るそれは、なんと冷たく恐ろしいのか。

 瞳を閉じる事すらできない。涙も枯れた。

 もう、何も考えられない。


「――終わらせはしない」


 その瞬間、巨大な剣が刃を跳ね返した。同時に、弾け飛ぶ手枷。鉄の残骸が無数の欠片となって、血溜りの中に落ちていった。

 急に与えられた自由に、リリーの体が崩れ落ちる。酷く変色した膝や手首が、床へと落ちていく。

 だが、そうはならなかった。

 差し出された大きな手の平が、リリーを抱き留める。血の香りがするその中に、ほのかに薔薇の香りがした。

 強い腕に支えられ、リリーは瞳を開けた。

 そこには、あの瞳があった。優しい輪郭が縁取る、真紅の瞳。

 あの時の、悪魔がいた。


「ヒル……」


「名前を覚えていてくれたのか」


「……私」


「助けに来た。遅くなったな」


 そう言って、リリーの体を優しく抱き上げたヒルは、額同士を重ねる。


「冷たいな。だが大丈夫だ。すぐに治してやる」


 夜の色をした軍服に、リリーの血が滴り落ちるが、ヒルは気にする様子もなくリリーをしっかりと抱き締めた。

 強く厚い胸から、鼓動が聞こえる。自分となんら変わらない、命の音だった。


「なぜ……助けてくれるの」


「言っただろう。俺は、お前を守る者だって」


 瞬間、リリーの胸の内から、蒼い光が溢れ出る。それは、決して強い光ではなく、蛍のように淡い光の粒であった。


「離れろ!!」


 マティスの声と共に、白い鎧に身を包む一個小隊が現れ、あっという間に陣形を整えた。


「ヒル……まさかヒルシュフェルト……!?」


 バロンのおぼつかない足が、さらによろめく。


「議長は外へ! ここは俺が防ぎます!」


 剣の切っ先を、ヒルに向けて構える。

 ヒルもまたリリーを片腕に抱きかかえ、大剣を片手で構えた。


「あの時の人間か……」


「リリーを離せ!」


 ヒル以上に険しい顔つきでマティスが叫んだ。ヒルは冷たくマティスを見据えたまま、敵意を以て言葉を発した。


「悪いがそれは出来ない。お前も知っての通り、彼女は元々こちら側にいるべき存在だ」


「うるさい!!」


 マティスは熱くなり、感情のままにヒルに斬りつけた。

 ヒルは片手に抱いたリリーを庇いながら、大剣を横なぎにぶつける。

 巨大な剣をそのまま防ぐことは難しく、マティスは体勢を崩しながらも距離を取って退いた。


「リリーに当たったらどうする」


「貴様がリリーを離せば済むことだ!」


「――殺そうとしていたくせにか」


「それは……」


「自分が気に入らなければ虐げ、気に入れば意のままにしようとする。お前たちはいつもそうだ」


「それはお前たちだって同じだ!」


「ヴァイスの民は違う――何よりも安らぎを望んでいた」


「どこまでが真実か分からないだろう!」


 再び、マティスが斬りつける。

 ギリギリと刃と刃を重ね合わせていた二つの剣は互いに打ち付け合い一度離れた。二人は間合いをとり、互いの出方を伺う。


「退け」


 ヒルはそう言うと、剣を構えた。

 少しでも間合いを詰めれば、上から剣撃がくるだろう。


「マティス様! 我らが!」


 周囲を囲む兵士が、次々に弓を構える。弓の間合いよりも遥かに近い場所から、一斉に矢が放たれた。

 避けられる筈がない。誰もがそう確信して弓を引いた。だが。


「ヴァント・ルーフェ」


 ヒルが、剣を縦に構えて呟く。刃の端から覗く瞳が、鋭く光った。


「なっ……!」


 突如、ヒルを中心にして、立体に折り重なる魔法陣が出現した。

 黒く光りながら、赤い軌跡を残しつつ文字を刻む。奇妙な文字の帯は、ヒルの周りを一回転すると、まるで歯車が噛み合った時のように音を立て、一瞬で爆発した。

 そうなるまでが、全て一瞬であった。放たれた弓矢はヒルに届くことはなく、全てがそこで燃え尽きてしまった。


「ひるむな! 続けろ!」


「やめろ! あれは魔導術だ!」


 マティスの制止も空しく、兵たちは弓を放つ。だが、それが引き金であった。

 防御に徹するかと思われた文字の帯は、形を変えた。

 束のようになり、ヒルの頭上に集まると、放たれた矢を全て取り込み、光へと変える。

 光は、兵が放った矢と同じ形を成して、方向を変える。そして一気に、彼らに向かって降り注いだのだ。

 更に、魔法陣は四方に衝撃を放ち、円形に爆発した。


「うあああっ!!」


 吹き飛ばされたマティスは、なんとか我が身を庇う。だが幾つかの矢が足を掠め、その場に膝を着いた。


「詠唱のない魔導術か……」


「詠唱?」


 煙が上がるその中で、ヒルは妖しく微笑んだ。


「そんなもの、人間が俺たちの術を使う為に考えたおまじないなんだろう?」


 本来、魔導術を行使する際には、必ず何かしらの「媒介」と呼ばれるものが必要となる。

 それは杖であったり、生贄であったり、力を乞う為の「詠唱」であったりする。

 そうすることで、人は己の体に直接の負担をかけず、未知の力を操ることに成功したのだ。

 だが、この男がやって見せたそれは、何ひとつとして必要としない。まるで歩くように自然に、魔導術を見せたのだ。

 ヒルの腕の中では、意識を朦朧とさせるリリーがいた。先程から世話しなく鳴り響く音に、なんとか意識が保たれている。

 虚ろな彼女の顔を見て、マティスが叫ぶ。


「今リリーを連れていったところで同じだ! お前たちはもう数が少ない! どれだけ頑張ったとしても、未来はなんら変わりはしない! 希望を求めたところで、一緒なんだよ!」


「それは、“誰の話”だ?」


 紅い光が、再び燃え上がった。



 * * *



 アルフレッドの演説は、兵士や騎士を奮い立たせる為に十分すぎるほどの効果を与えた。

 彼らをまさに英雄だといわんばかりに褒めちぎる。しらじらしいお世辞演説だろうと、今、報復というひとつの志に縛られている皆であるからこそ、彼の言葉は皆を奮い立たせる雄々しい演説となった。

 それがちょうど終わると同時に、ジークフリードが嬉しそうにそわそわとし始めた。


「陛下の演説、短かったね」


「不謹慎ですわよジークフリード」


 アメリが嗜めるが、彼の耳にその言葉は右から入って左に流れた。


「敬礼!!」


 シュナイダー大佐の掛け声とともに、庭の騎士や兵士は一斉に敬礼をした。


「よし、ではこのあと、第一陣は正門前の──」


「まだあるのかあ。僕の師団の出番は後なのに……」


 ジークフリードはシュナイダーの説明を聞かないままこっそりと抜け出すつもりだった。だが、シュナイダーの真横、あまりにも皆から目立ちすぎる位置に立たせられているため、なかなか動けずにいた。


 ジークフリードはリリーを思い浮べ、淋しそうに空を仰いだ。


 その瞬間、彼の目に信じられない光景が飛び込んできた。


「えっ!?」


 轟音と共に、祈りの塔の側面の一部が内部から外に向けて吐き出されるように爆発したのだ。


「な……なんですの?!」


 アメリもすぐに体をひねり塔を見上げた。その爆発した場所からはもうもうと黒い煙があがる。内部が、燃えているのだ。燃え上がる赤い炎がちらりと見えた。


 庭の兵士や騎士はざわついた。誰もが我が目を疑った。神聖なる聖王国の象徴ともいえる「祈りの塔」が、一部とはいえ破壊され、火を出しているのだから。


「落ち着け! 何事だ! 状況を報告しろ!!」


 シュナイダー金の髪を振り乱しながら叫ぶと、どこからか傷ついた近衛兵がよろよろと現れた。


「大佐! 敵襲です! 悪魔が!」


「なんだと? 敵の数を報告しろ!」


 シュナイダーがきつく聞き返すと、近衛兵は震えながら自身の傷を抑え、おずおずと答えた。


「一人です! あの爆発は、塔の破壊は、単体によるものです」


「馬鹿な! 塔は聖石で出来ているんだぞ! いくら悪魔といえど……!」


 ありえない事実にシュナイダーは塔の爆発した箇所を見上げ、再確認した。そこからは、煙がもうもうと舞い上がるばかりだった。


「あれが悪魔一匹の仕業ですって?」


 アメリは眉をひそめ、信じられないというように唇を噛む。


「各兵に告ぐ! 悪魔は単体との報告があるが、定かではない! 配置につけ!」


 シュナイダーは冷静に各騎士や兵士に指示を出す。慌ただしくなる庭の中、騎士や兵士達はちりぢりに自分の持ち場へと走り始めた。

 だが、そんな混乱の最中でも、ひとり微笑みを浮かべたままの人物がいた。

 シュナイダーは彼の様子に気付ぎ不審に思ったが、すぐにまた自分も走り出した。


「中に悪魔がいるの!? 人型?」


 ジークフリードが傍に居た兵士に説明を求めるが、兵はおどおどとした様子で首を振る。


「もう! 悪魔が首都に入り込んでるってんだからしっかりしてよね!」


「ジークフリード、わたくしは門へ向かいますわ。逃げられないようにしなければ!」


 アメリが、着物の裾を結び上げながら言う。


「分かった。僕は魔法門の方に行くよ。手助けしないと」


 各々が素早い判断で動く中、ただ一人その王だけは、静かに椅子に座っていた。

 太陽の輝きを持つ髪を風に預け、喧騒の中、頬杖をつく。


「来たのか、ヒル」


 獅子王、アルフレッドはぽつりと呟いた。誰にも、聞こえないように。

 どこか喜んでいるかのような表情で。



 * * *



 リュシアナの首都アルフォンスは、騒然となった。

 あの、誰にも侵されることのない聖なる塔に、悪魔が侵入したという話は、時を待たずして街にまで広がった。

 首都の通路は全て限界態勢となり、あちらこちらに兵が配置される。聖騎士も例外なく走り回り、普段は見ないような路地にまで目を光らせる。

 そして、祈りの塔がある王城では、爆発で汚れた聖なる庭を見て戦慄く、バロンの姿があった。


「ええい、みすみす逃がすとは! マティス貴様何をしている!!」


 苦虫を噛み潰したような顔で、バロンが怒りを露にする。周りに人がいることも憚らず、バロンはマティスをきつく責める。

 罵声を浴びつつも、マティスは深く頭を下げるだけだった。

 その光景を見かねたのか、彼らの元に歩み寄る者がいた。軍部大佐のシュナイダーだ。


「恐れながら議長殿。これは一体どういう事態ですか」


 シュナイダーはマティスを横目に見つつ、穴の開いた塔を見る。


「おお、大佐か。これは非常事態だ」


 うって変わって落ち着いた顔で、バロンは言う。


「裏切り者が出た。だがその身分により、混乱を避ける為に幽閉をしておったのだ」


「裏切り者?」


「た、大佐!」


 会話を遮って、男が一人こちらに走ってくる。白い鎧を身に着けたその人物は、バルドだった。

 馬の手綱を引きながら、足を引きずりながらこちらに向かってきた。


「騎馬部隊のバルドか。療養していたのではないのか」


「そうだったんですが……その」


「何だ。どうした」


「……そ……の」


 シュナイダーが強く聞きただす。だがバルドは口ごもるだけで、それ以上は何も言わなかった。


「……急ぎではないなら後で聞こう。お前も、悪魔の捜索にあたれ。だがくれぐれも無理はするなよ」


「は、はい……」


「悪魔を探し出せ! 外にはまだ出ていない筈だ!」


 勇ましく号令を下すシュナイダーに、バロンは張り付いたような笑顔を見せた。

 心に引っかかる妙なものの存在に気付かないふりをして、シュナイダーは軍服の襟を正した。


「あの、議長。裏切り者って……何ですか……」


 バルドは恐る恐る問いかけ、愚鈍であるかのようなふりをする。その横では、今来たとばかりに息を荒くするアミーがいた。

 二人を認識したバロンは、愉悦に笑いを零した。


「聖騎士の中から、裏切り者が出たのじゃよ」



 * * *



 リリーは、今まで感じたことのない温もりを感じていた。

 とくん、とくんと頭に心地よく鳴り響く心臓の音。背中には、しっかりと自分を支える腕の感触があった。


 あたたかい。また、夢?

 もういい、私の見る夢は嫌なものばかり。

 甘えたような、まるで現実から逃げているようなものばかり。

 うっすらとだが、自分は誰かに抱かれているのがわかった。

 目が、うまく開かない。

 体も動かないし、これはまずい。私を抱いているのは味方だろうか?

 カチャカチャと、何か金属音がする。ああ、これは剣か何かが揺れてこすれてるのね。

 なら剣士か、騎士か。

 ああ、わからない。頭がうまく回らないから。


 朦朧とした意識で、リリーが考えられるのはそのくらいだった。ただ、自分を抱いている人物の体温が、とても優しくて、暖かいということだけは、はっきりと認識していた。


「……大丈夫か?」


 低い、包み込むような声が体を通して響いてきた。リリーは、そのまま身を委ねている。


「遅くなったな」


 次にその声はとても悲しそうに響いてきた。リリーは朦朧としながらも、なんとか手を動かし、その者に手を伸ばした。

 するとすぐに何かに触れることができた。柔らかく、温かい。それはその者の頬だということに気づくと、リリーは開かぬ目を必死に開こうとした。

 ぼんやりと見える、自分を抱き抱えている人物の顔。リリーの口から、自然と言葉がこぼれた。


「悪魔……?」


 今、何故か思い出したことがある。

 幼い頃、一度だけ私は、悪魔に遊んでもらったことがあった。

 赤い赤い花畑で、たったひとつ白い花を摘んでいた。

 その時の悪魔は、この人物なのだろうか?

 でも今は、どっちでもいい。

 この声も、その時の悪魔の声も、何故かすごく安心するから。


「……目が覚めたか?」


 暗い天井から、低い声が降る。重い瞼を開けようとするも、なかなか開かない。


「私……」


「すまないな。思ったより兵が多くて、まだリュシアナの王城内だ。もう少ししたら――」


 そこまで聞いて、リリーの意識ははっきりと覚醒した。そして、今自分が置かれている状況も。

 目の前には、ヒルの胸板と、首元。背中にしっかりと回された右手、左手は太腿を支えており、彼の膝に座るような形になっていた。


「なっ……」


 理解しがたい状況に慌てたリリーは、反射的にヒルの胸板を押した。

 だが、力は難なく制されてしまう。


「こら、危ない」


「だ、だって、なんでお前……私……痛っ」


「動こうとするな。止血はしたが、傷が治ったわけじゃないんだからな」


 リリーを抱えたヒルは、衝撃を与えないようにゆったりと歩いている。

 先程ここがリュシアナ王城の中だと言ったが、何故そんなに悠長にしていられるのかとリリーは思った。そんなリリーの心を読んだかのように、ヒルは口を開いた。


「一瞬の内に魔法結界が張り巡らされてな。すぐに逃げる予定だったんだが……まあ、焦っても仕方がないということさ」


 ヒルは、至極落ち着いた面持ちだった。悪魔にとって敵地の真っ只中であろうこの場所に置いて、どうしてそんなに余裕を持っていられるのか。

 歩く音も静かに、ゆったりと進む。頭を預けると、温もりが伝わってきた。


「あ、の……。ヒル……」


「ん?」


 おずおずと問いかけると、優しい声色が返ってきた。


「あの、私を……どこへ……」


「おい! そこのお前!! 何をしている!」


 鎧が擦れる音が響いて、回廊の彼方から兵士が現われた。長い戦斧を持った兵たちは、ヒルを見るなりそれを構える。


「紅い髪……聞いた通りだ! 悪魔め!」


「その女性を離せ!」


 兵は、ヒルに対してだけ敵意を持っているようだった。

 戦斧を構える部隊の後ろで、状況を伝える役目の兵が走り去る。

 目を細めたヒルは、大きなローブでリリーを隠すように包む。


「ウルビア!」


 伝令兵が走り去るや否や、入れ替わりにシュナイダーが現われた。金の髪を振り乱して、息巻いて剣を構える。


「その娘をどうするつもりだ悪魔め!」


「シュナイダー……大佐」


 リリーが名を呟くと、ヒルは何かに気付いたように口端を締める。


「人型の悪魔……見た目だけでは人間と相違ないな……」


 悪魔が侵入したという情報だけを聞いているシュナイダーは、リリーが悪魔に捕らわれたものと信じている。

 得体の知れない相手に対し、どう出るべきかと機を伺う。


「ウルビア! 今助けてやる! 待っていろ!」


 熱い正義に燃える銀の瞳に、強い想いが宿る。それが誰に誰を重ねて滾る物か、リリーには一目瞭然だった。

 だが、また湧き上がる罪悪に胸が痛む。

 彼が助けようとしているのは、セイレ・ウルビアの妹、リリー・ウルビアであるのだ。

 する必要のない筈の言い訳が頭に浮かぶ。


 私は悪魔ではない。そうだ、助けてくれ。

 私は悪魔だった。存在自体が、裏切りだった。


 もう、選ぶことなど出来ないのだと分かっているのに。


「――リリーちゃん!」


 その時、追うような怒声が響いた。

 シュナイダーの更に後ろから、剣を構えたアミーが現われたのだ。

 だが、彼女はひどく憤っていた。相当な距離を走ってきたかのように、息が荒い。


「リリーちゃん、こっちにおいで。違うわよね。騙されているのよね……?」


 縋るような声で、リリーに語りかける。


「セイレが倒そうとした悪魔。きっと口が上手い筈。……大丈夫よ。ちゃんと助けてあげるから、こっちにおいで」


 彼女の瞳が光に潤むのを見て、リリーは彼女の心の内を察した。

 悲痛な程に語りかけてくる彼女は、リリーに必死に手を伸ばす。


「アミー……」


「悪魔を倒すのよ。貴方の敵は悪魔。だって、そうでしょ。セイレの妹なんでしょう? だから……!」


「アミー、私は……私は……!」


「ハンニ卿、さっきから何を言っているんだ?」


 シュナイダーが戸惑いつつ言う。アミーはそれに答えず、ヒルを睨みつけた。


「連れ去らないでよ……あんたたち悪魔はそうやって、何もかも奪おうとする。あんた達悪魔は、全部壊していく!」


 アミーの言葉は、重くその場で響く。だが、ヒルは動じず、黙したままだった。

 じりじりと詰められていく距離に怯えることはなく、ただしっかりとリリーを抱いている。


「立ち去りなさい! 悪魔!!」


 アミーが言うと同時に、彼女の背後から強い光が放たれた。それは、まぎれもない魔導術の力だった。

 いや、それよりももっと、清らかな力に見えた。

 真白な光は、幾重もの絹帯のように変化し、ヒルの頭上に舞い集まる。

 ヒルがそれに気付くのは速かった。認めると同時に、リリーを抱いたままその場に強い防御の壁を作り出した。

 光は、矢のようになってヒルに降り注いだが、見えない壁に弾かれて、風となって消えた。


「わぁあッ!!」


 魔導術同士がぶつかった衝撃はすさまじく、兵やシュナイダーたちは煽られてよろめく。

 壁に僅かに皹が入り、飾られていた彫像の腕が落ちた。

 煙が四方に飛び散るその中で、動じず、穏やかに立っている者たちがいた。白む景色の中、上品な靴音が回廊に響く。

 動く影は、二つ。ひとつは、白い法衣に身を包む老人。そしてもうひとつは、暁の空に染まる髪をした、青年。

 アミーとシュナイダーの間を割って歩み出たその青年は、穏やかな笑みを浮かべて言った。


「よく逃げれたね、リリー。すごいじゃないか」


 獅子王アルフレッドは、まるで水面のような清廉さを湛えて微笑んだ。


「アルフレッド……、バロン議長……」


 ゆったりとした動きで現われた二人を、リリーは呆然として眺める。

 自然と、ヒルを掴む手に力が入った。


「逃げた……とは?」


 シュナイダーが問うと、アルフレッドの口元に、また微笑の兆しが見えた。


「そうだね。ちゃんと幽閉しておいた筈だったんだけど、さすが悪魔ヒルシュフェルト。どこからでも入ってこれるね」


 馬鹿にしたような言い草をするが、依然としてアルフレッドの表情は穏やかなままだ。


「陛下、あの、先程から話が――」


「シュナイダー、君も可哀想だね。騙されてしまったんだね。アミー・ハンニ卿も、頑張っていたのにね。騙されたね。みんな騙されてしまった」


「……やめて下さい……」


 アミーがうろたえる。だが、その剣を降ろすことはない。


「ねえ、あんな見た目をしていたら誰だって分からない。悪魔って本当に、怖いものだって、誰もが思ってるんだから」


 冷ややかに、無機物のように変わらない声の感情のまま、アルフレッドは言う。


「しかしもうここまでだ。逃げることは許さんぞ、悪魔ども」


 ぞっとするようなアルフレッドの横顔の向こうで、バロンが苦々しい口調で言った。

 戸惑うのは、シュナイダーや、他の兵士だった。

 互いに囁き合い、不安そうに視線を移す。


「あれ……? ああそうか。みんな知らなかったんだ。いや、知らせてなかったね?」


 アルフレッドが、斜めに周囲を見遣る。そして、ゆっくりと顔をリリーたちに向け、氷のような笑みを浮かべた。


「勅命である。リリー・ウルビア。いや、ヴァイスの悪魔直系、アシュトレートの娘。我らを謀り、アストレイアを死に導いた悪魔として、……殺せ」


 その一言で、リリーの中にある全てが断ち切られた。


「違う……」


 翡翠の瞳が、細かに揺れる。


「違う…………!」


 涙が落ちるよりも早く、怒りが溢れるよりも強く。


「違う、違う、違う……」


 彼女の内にある大きな力が、奮い起こされた。


「――リリー!」


 ヒルの声は、もはや届かなかった。悲しみに打ちひしがれたように、己の腕をかきむしりながら、リリーは叫んだ。

 悲痛な叫びを顕すかのように、リリーの中から蒼い光が放たれた。同時に、翡翠色の花片が吹雪のように出現して舞い散った。

 花は、春に舞うそれと同じく、傷つけもせず、ただその場にあるだけだったが、光は違った。

 兵士たちは次々と膝を折り、まるで意志の無い人形のように、その場でぐったりとし始めたのだ。

 シュナイダーとアミーは、かろうじてその場に立ち続けるが、それでも、まるで見えない何かに上から踏みつけられているような重力を感じていた。


「……凄いね。これが、ヴァイスの力なんだ」


 バロンの術に守られながら、アルフレッドは微笑む。

 彼女から放たれる光は、一瞬巨大な質量を持っているかのように見えたが、その力は徐々に消失していった。

 リリー自身の感情の起伏に合わせたのか、彼女が涙を流して唇を噛み締めた時、光は完全に消えてしまった。


「悪魔だ……」


 誰かが言った。それは、アミーの言葉ではなかったが、彼女が言い放ったかのように、リリーには聞こえた。

 絶望のまなざしでこちらを見るあの女性は、自分を助けたいと言った人。あの夜、優しく微笑んでくれた人。

 けれども今は、もう別の人間だった。裏切りに蒼然として佇む、人間だった。


「ア、ミー……」


「殺そう」


 慈悲もなく言い放つアルフレッドに、バロンが応える。


「『響け深淵より。汝罪の紋を背負いし愚かな者。荘厳たる神の清浄なる光に恐怖するが良い』」


「バロン議長!! 待って下さい!」


 シュナイダーが叫ぶ。

 だが、もう遅い。そう言わんばかりにバロンは不敵な笑みを浮かべてみせた。マティスは恐らくそれが何の呪文か知り得ていたのだろう。必死に、バロンを制止する。だが、止められるわけがなかった。既に、呪文は完成した。


「“ディアングレイザー”!!」


 螺旋を描いていた光はリリーの頭上に移動するとその動きを止め、槍のごとく彼女に襲い掛かった。奇怪な空気音をはらんだ無数の槍は、リリーの頭蓋を捉えた。

 リリーはゆっくり上を見上げた。迫り来るそれらを避けようともせず、呆然と、両の眼を見開いたまま。


「リリーちゃん!!」


 巨岩を破壊したような轟音が鳴り響き、リリーがいた場所を中心に円形に爆風が拡がった。石の床はサークル状に破壊され、視界を遮る白煙がもうもうと舞い上がる。


「はーはぁはぁはぁっ!! 見たか! 我が神術の前にはヴァイスの民の力も全くの無意味!」


 バロンは杖をかざしたまま高らかに笑う。傍らで唇を噛み、なんともいえない表情のマティスとは対照的だった。


「陛下、いかがですか神術は。愚かなヴァイスの民達が丁寧に我々に教えてくれた魔法を進化させたもの。素晴らしいでしょう?」


「へえ、それって、もっと癒しの力かと思っていたけど違うんだねえ」


 バロンは構わず、誇らしげに杖を構える。爆風と煙がようやく落ち着いてくると、魔導術の着弾位置に足を進めた。


「ふむ、これでは木っ端微塵だな」


 そして、バロンがまだ残る煙の中に足を入れたその瞬間だった。

 光が、まるで意志を持っているかのように回廊の床に文字を刻み始めたのだ。

 蔦のような魔法陣が巨大さを増し、円形に広がる召還陣の模様。荒々しく燃え上がる緋色の炎。露出した石畳の上で、――悪魔が笑った。


「それで終わりか」


 ヒルシュフェルトは、その血色の瞳を歪め、敵を見つめる。

 暗い光が宿る眼が、徐々に冷たさを増して行く。

 彼の周りには円筒の結界が出来上がり、さらにその外側には炎が燃え上がっていた。

 紅く光る火の粉が舞う中で、ヒルは低く言い放つ。


「我らを悪魔とし人を導くというのならそれもいい。だが、忘れるなアルフレッド」


 長く逞しい腕を伸ばし、ヒルは王を指差した。


「人が望むには過ぎたる栄華。特別な者を求めれば、いずれは散る。抗えば朽ち、刃向かえば滅びる。それが、勇気ある人間が得た代償だ」


「…………へえ。それ、“誰のこと”?」


 瞬間、黒炎が舞い上がった。アルフレッドとリリー、二人の間を分かつように、炎は回廊の天井まで伸び上がった。

 誰も、手を出すことが出来ないかに見えた。


「陛下! 危険です!」


 シュナイダーは、アルフレッドを強引に後ろに下げた。まるで命があるかのように、炎が逆巻いて二人に襲い掛かる。


「……これは駄目だね。大佐、他の兵も退避だ」


「承知いたしました。全員退避しろ! ハンニ卿も!」


 唖然とするアミーを立ち上がらせ、シュナイダーは後退する。リリーを見る瞳は、既に恐れに染まっていた。

 だが、バロンは臆さなかった。慣れた声色で呪文を紡ぎ、硬質化した氷の槍を作り出す。


「悪魔め! 逃がすか!!」


 炎が破られる。ヒルはリリーを一度降ろし、自身の背中に回した。

 急ぎ空中に文字を描き、弾き返す為の結界を作り出す。しかし、僅かなところで、氷の切っ先はその境界を越える。

 喉元めがけて迫る槍は勢いを増して迫る。避けられないその距離に、ヒルは咄嗟に別の術を確立させようと魔法を唱える。

 が、その時だった。ヒルの目の前に飛び込んできた人影が、バロンの攻撃をその身に受けたのだ。


「なに!?」


 バロンが驚嘆の声を上げる。

 ヒルを貫く筈だったそれは、突然の乱入者の胸を鈍く貫いた。

 氷の矢は、乱入者をその身に纏う鎧ごと貫いていた。獅子の紋章は、もはや見る影もなく裂かれていた。


「ぐ、あっ……」


「何だ! 何をしている!」


「議長……、やっぱり、無理でした……」


 貫かれた男は、血の混ざる声で言う。


「やっぱり、俺には、分かりません、よ……議長ッ……」


 ヒルたちに背を向けたままのその男は、貫かれた自分の体を見て、力無く呟いた。


「……“なんでこの子が”、悪魔なんだよ……」


 僅かに振り向いたその男の髪は、炎の光を受けながらも尚深い色彩を持つ藍の色。

 瞳は、瞼を焼くような熱い涙に、滲んでいた。


「バルド……!?」


 リリーが彼に気付いた時、ヒルが先程確立させた魔導術が完成した。

 背後の空間が割れて、世界に亀裂が走る。

 何故、庇ったりしたのか。そう問う間もなく、バルドの体は崩れ落ちる。


「あの子も……逃がしてやれば……よかった」


 世界が滲む。あの時、ベリーの力で転移した時よりも速く、リリーの視界が景色を変える。


「バルド!!」


 伸ばした手の先に、優しい手が触れた。白い指先が、リリーを押し返す。

 それは幻なのか、この魔導術が見せた蜃気楼なのか。

 判断のつかないまま、リリーの体は消えていった。


 あの、凍てつく大地へ。

 遥かなる北の大地、ヴァイスへと――。

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