神創系譜

いまり

第1話「聖騎士と悪魔」

 清閑な青き緑を光らせる森、太陽光を反射させ七色の懸け橋を創りだす滝。楽園かと思うようなその草の大地の上に、突如として赤い斑点が撒き散らされる。次いで、腐った肉を纏う醜悪な異形が重なるように倒れこんだ。


「これが悪魔」


 その戦慄の光景に反して可、愛らしい娘の声が揺らぐ。だが、口調はやけに冷め切っていた。


「獣、肉の塊、腐った異形。私たちに似た、人型とか。悪魔にも色々いるけど、これは腐った人型」


 娘はそう言いながら、瞳にかかる髪を邪魔そうにかきあげた。肩程までの長さの髪は、薄い水色に見えるが、光の加減によっては銀にも見える。

 煤けた白い外套の隙間から覗くその白い四肢には、筋肉の筋がうっすら影を刻む。腰に携えている剣の古さが、娘の置かれた境遇を語ることなく表していた。


「聞いてる?」


 娘は少し声を低くして、傍らで尻餅をついたままの男にそう言った。男は腰を抜かしたらしく、脚を僅かに動かして後退った。


「あ、ああ、そうか。そうだな」


 男の装備は勇ましく、重厚な全身鎧は真新しい。かなりの大男だが、今は娘の傍で小さくなっていた。


「……情けない」


 娘がそう吐き捨てると、男はかっと頬を染めた。

 きつく言葉を投げ付ける彼女に、男はなんとか反論してみせた。


「おっ、俺は聖騎士だぞ! 俺たちがいるおかげで世界は悪魔から守られているんじゃないか!」


 しかし次の瞬間、男は凍り付いた。それは、けして恐怖からではない。

 まるで、真新しい何かに魅入られたかのように、ぴたりと静止した。

 男の目は、娘の双眸に釘づけになっていた。

 雲の切れ間から降り注いだ光が、娘の顔を照らす。そこには、翡翠の輝きがあった。

 化粧などまるでしていない、泥に汚れた顔。だが、娘が持つ双眼と憂いに満ちた表情は、男をしかと捉えた。

 男は暫らく、あんぐりと娘を見つめていたが、ふと「ある印」に気付き目を見開いた。


「あんた、その紋章……」


 男は娘の二の腕を指差した。そこには、不思議な幾何学模様が刻まれていた。


「なんだ! あんたも「聖騎士」じゃないか!」


 途端、娘は明らかに嫌悪感を示した。

 しかし男は気にもせず、歓喜に沸き、両手を上げた。


「見た事あると思ったんだ……もしかしてあんた"リリー"か!? ほらっ、あのセイレ・ウルビアの妹の!」


「姉さんを知ってるの」


「セイレとは同期でさ、あんたのこと聞いたことあったんだよ! なんだあいつの妹か!」


 男はやっとこさ立ち上がり、リリーに握手を求める。


「どうだ? セイレは見つかったか? なんなら組合に申請して俺と組んでみようぜ! こう見えて割りと――」


 瞬間、リリーはその手をきつく払い除けた。驚く男に、畳み掛けるように言い放つ。


「馴々しくしないで」


 その声質は娘らしいものであったが、口調は冷めている。

 男は戸惑いながら、差し出した手はそのままに言葉を返した。


「な、なんだよ。俺は同じ聖騎士だぞ!」


「……一緒にしないで」


「はあ?」


「お前の助けなんか無くても、姉さんは私が必ず見つけてみせる!!」


 血のこびりついた手をきつく握り締め、まだ若きリリー・ウルビアは必死な様子で声を荒げた。

 怯えたように光る翡翠の瞳は、まるでまだ何も知らない子供のようだった。



 空はどこまでも澄み渡り、大地は果て無く続く。

 流れる川は先を語らず、大海の底には秘密が眠る。

 ここは、神創世界アーリア。まだ色濃く、神々の足跡が残る世界。


 だが、決して平和で穏やかな世界ではない。


 古来よりこの地では、"悪魔"と"聖騎士"による果てしない戦いが続いている。

 悪魔とは、人類を脅かす忌むべき存在。聖騎士とは、それらを打ち砕くべく日夜戦いに身を投じる神の刃。

 いつ終わるとも分からぬ戦いの連鎖、人類の未来はどこへ繋がるのか……。

 

 物語の舞台はアーリア中、最大の軍事力を誇る、聖王国リュシアナ。ここに、特別に自治を認められた街がある。

 そして、そこには変わり者として有名な一人の娘聖騎士がいた。

 古びた剣を腰に差し、化粧気の無い顔を気にする様子もない。だが、その蒼く銀に輝く髪と、翡翠色の瞳は鮮やかで美しい。

 彼女の名前は、リリー・ウルビア。聖騎士の中でも最高位の実力と権威を持つ、『聖騎士アストレイア』のたった一人の妹であった。

 リリー・ウルビア自身も姉に習い、「悪魔」を倒すべき聖騎士として日々を送っていた。

 聖騎士といえば、誰もが羨む憧れの職業だった。だが、彼女の人生は決して祝福に満ちたものではなかった。


 ――この世界ではなリリー。

 聖騎士という称号を受けた者は、その日からすべての過去を抹消されるが…登録すれば一生の生活の保障がされる。

 危険は、高いけどな。

 そういや昨日な。悪魔にやられた同志が組合に運ばれてきた。

 まあ、あいつは元々あまり強い騎士ではなかったし。

 わかるか? 聖騎士の称号を得るだけなら簡単だが……


 問題はそれからだ。


 なに? はは、やめておけ。

 お前には無理だ。


 さあ、そろそろ行ってくる。

 母さんたちの言うことを良く聞いて、賢く待ってろよ


 そう言って、美しい姉は家を出た。

 いつもと変わらない、優しい笑顔で。


 ――姉さん。

 リリー、賢く待ってるよ。


 その日の姉さんは朝食もキチンと食べて、寝起きも良かった。

「今日の相手は厄介だ」なんて言っていたけど、姉さんに倒せない悪魔はいないことは私がよく知っている。

 だって、姉さんは、最高位の聖騎士「アストレイア」だから。

 悪魔を討伐する為に設立された聖騎士という職業の中で、英雄のごとく扱われる位置にある。

 誰よりも強く、気高く、美しい。嘘みたいに完璧な姉さん。少し大雑把で、細かいことは気にしないあたりが男っぽいけれど……。でも、とても優しくて。

 

 私にとっては、姉さんが母であり、父であり、安心をくれる唯一の人だった。


 なのに。


 それは、リリー・ウルビアがまだ六つの時だった。

 リリーの姉、聖騎士セイレ・ウルビアは、いつものように、悪魔を討伐するため家を出た。

 だが、その日はいつもの「任務」ではなかった。セイレは、悪魔を統率する悪魔王を倒すため、自らの意志でその地を発ったのだ。

 まだ小さかったリリーだが、子供ながらも「悪魔」という存在がどれほど危険であるかはよく知っていたし、どうして姉がたった一人でそんな場所に行かなければならないのかと泣いて縋ったが、セイレはやんわりとリリーの手を振り払ったのだ。

 セイレは快活で、非常にあっさりとした娘だった。泣きじゃくるリリーを見ても、決心を鈍らせることはなかった。

 身の丈ほどもある巨大な剣を、よっこらしょと年寄りじみた掛け声とともにかつぐと、顔だけこちらに向けて、笑った。


「じゃあ、行ってくる」


 朝の光の中に溶けていく姉は、壮絶に美しかった。風に揺れた金色の髪が煌めき、幾束かに分かれて白い肌に落ちる。翡翠色の瞳が、自信に満ちた表情で半月に歪むのを見て、リリーは泣くのを止めた。そして、腕に抱いたぬいぐるみに、縋るように顔を埋めた。


「リリー、賢く待ってるよ……」


 だが、それから幾度月日が巡ろうとも、セイレ・ウルビアは、帰ってはこなかった。



 * * *



 ──鐘が鳴った。

 まだ新しさが残るこの音は、この街の教会の鐘だ。

 鐘の音は街中に鳴り響き、一日の始まりを告げる役割を果たしている。

 寝呆け眼の花屋の店主が、欠伸をしながら水を撒く。もうずっと前に仕事を始めていたパン屋の主人が、「お早いお目覚めで」などと冗談を言って店の扉を開いた。


 ここは、朝焼けの街アナトリ。大国リュシアナに属しながらも、領主による自治が認められた、特別な街だ。

 とはいっても、ただの田舎街だ。外を歩けば皆がほとんど知り合い。小さい商店こそあるものの、大半は自給自足の生活をしている。

 街の名前にふさわしく、日の出の光が木々や建物を通り過ぎるとき、まるで宝石を集めたようなきらめきを見せるため観光客も少なくはない。

 朝食を終えた子供たちが、庭先に出て朝露の雫を弾きながら遊び始めた頃のことだった。

 小鳥のさえずりに混じって、何か鉄が擦れ合うような音が規則的に聞こえてきた。

 一人、好奇心旺盛な男の子が庭から出て、音がした方を見る。ふと、街の中心を通る道の彼方に、人影が見えた。子供が背を伸ばして、興味深そうにその人影が近づいてくるのを待つ。

 するとそこには、薄汚れた布を纏った一人の娘がいた。

 肩程までの青灰色の髪に、何か赤黒い汚れがこびりついている。眼光は鋭く、ただひたすら目的地のみを見ている。歩く度に見える足は細いが、鍛えられた筋肉の筋が浮き出ており、か弱さは見られない。

 腰に差した剣が、歩く度にきちりきちりと音を立てているのを聞いて、子供は声を上げた。


「あ、リリー姉ちゃんの音だったんだあ」


 そう言った瞬間、リリーは睨むよう子供を一瞥した。


「お帰りなさいっ! 今日はどこに行ってたの?」


 無垢な瞳で問い掛けてくる子供に、リリーは笑むこともしなかった。そして、その純真さが気に入らないといった風情で瞳を歪め、


「悪魔を殺してきただけ」


 と、唸るように答えた。子供が、小さくしゃくり上げた気がしたが、リリーはそれ以上は見ようとせず、また歩きだした。

 だが、ふと立ち止まり、もう一度子供がいた方に振り返ってみる。しかしもう子供の姿は無かった。


 ──ああ、今日も生きている。


 リリー・ウルビア、この時、十九歳。

 彼女は帰らない姉を探す為、聖騎士になった。


 リリーは、聖騎士になった頃に一人でアナトリに移住した。

 両親はいた。しかしどうも折り合いが悪く、セイレがいなくなってからというもの、その仲はますます悪化した。

 だが、家を出た理由は、そんなくだらないことではない。

 ただひとつ、姉を探すという目的の為だった。


 聖騎士になるには、聖騎士管理組合が定める試験に合格をする必要がある。そして合格をしたならば、どこかの国家に聖騎士として「国家登録」をしなければならない。

 そうすることで、聖騎士管理組合は聖騎士の数を把握し、効率的に悪魔討伐のための配置、指示ができる。

 その代わり、生活に必要なものは全てその国家や組合が用意をしてくれる。だがその報酬は、国や聖騎士の位によって、かなりの差がある。

 国としては登録聖騎士が多ければ多いほど嬉しいものだ。自国の民を悪魔から守る意味はもちろんだが、権威と豊かさを他国に誇れるという対外的な理由もあった。

 

 また、聖騎士は悪魔討伐以外にも、聖騎士管理組合から通達される任務をこなす義務が課せられている。それは、有事の際は積極的な協力をというものであったり、要人の護衛であったり、内容は実に多種多様である。

 つまり国家は、聖騎士を自国の「兵」として扱うことも出来るのだ。

 そう言うと、聖騎士などと言っても名前だけのように聞こえるが、世間では彼らは「特別」な存在であることに変りはない。

 どこからともなく湧き出る悪魔に怯えるこの世界では、聖騎士は人々にとって希望そのものであった。


 だが妙なことに、このリリー・ウルビアは、どの国家にも登録していなかった。生活に必要な金も、「仕事」をして稼いでた。

 彼女と同期に合格した聖騎士の男がその理由を聞いてみたところ、「任務に縛られすぎると姉さんを探せない」と、うんざりした様子で答えたという。

 ならば、なぜ聖騎士になったのか。再びそう聞いた時、リリー・ウルビアは口を閉ざし、近くにあったコップの水を男にかけた。


「しつこい」


 その生意気な言葉ひとつで、彼女は他の聖騎士から罵られるようになった。


 アストレイアの妹のくせに、変り者。

 落ちこぼれ。


 リリー・ウルビアは、そう呼ばれるようになった。

 だが、リリーはひたすら、姉を探して回った。

 しかし、そんな聖騎士を管理組合が放っておく筈もなかった。聖騎士の名を悪用しないかどうかの監視がつくのは当然であった。

 組合からの再三の警告により、なんとか任務をごくたまにではあるがこなすようにはなった。

 そのつじつま合わせが、今日の討伐であった。


 家に着いたリリーは、前日に作っておいた朝食には目も向けず、よろよろとベッド脇へと向かった。

 まだ血生臭い服を投げ捨て、下着のまま椅子に座りこむ。窓から差し込む陽の眩しさに目を細め、ただ決められたかのように水を飲む。そのままあまった水を観葉植物にかけ、風呂に向かった。

 傷に湯が染みる。血の匂いが消えていくのを感じつつ、瞳を開ける。透き通った翡翠色の瞳に、生気はなかった。

 風呂から上がったリリーは、適当な布を手に取ると、頭をかくようにして髪を拭う。くしゃりと絡む蒼い髪を手ぐしでさっと梳かしていると、ふと、タンスの横の全身鏡に写った自分と目が合った。


「似てない」


 鏡の中に、セイレの影が揺らぐ。あれからもう、十四年経つ。歳月は、瞬く間に過ぎた気がした。

 誰かが、リリーに言った。


 “もう生きてはいないだろう”


 信じたくない。

 だが、頭のどこかで諦めている自分がいることをリリーは分かっていた。

 これ以上、探しても無駄なのだと。

 セイレがいなくなったあの日から、リリーは毎日取りつかれたように聖騎士の修行に励み、夜の街に出ては裏の人間達から情報を集めた。だが、一向にセイレに関する情報は入らなかった。

 鏡を見つめていると、セイレが揺らいで浮かび上がった。綺麗なブロンドの髪の隙間から見える額には、最高位の聖騎士の証が刻まれている。まるで暁に降りる星空のよう。

 触れても消える、その幻覚。

 家族もいない、親しい友人もいない。姉の優しい記憶と、儚い希望だけが、今のリリーを支えていた。


 ふと、軽快なノック音が聞こえた。

 その音で、鏡の中の幻像は消えた。

 

「誰……」


 そうやって軽く舌打ちをし、身なりを整える。


「王の使いです。ご対応を」


 えらく急いだ声だ。そう思いながらもドアに向かいノブに手をかける。少し怖じながら、扉を開けた。

 するとそこには、落ち着きを湛えた若い男が背筋を伸ばし燐として立っていた。

 枯葉色のような髪は、清潔に整えられており、前髪から覗く瞳は深海の色をしていた。

 獅子の紋章が刻まれた鎧は朝日を反射して光り、腰の大剣は年季が入っている。あまりにも愛想のいい笑顔を見せる男であったが、リリーはほだされることなく、睨み付けた。


「何か用?」


「貴方が、リリー・ウルビア殿?」


 そう言って、男は僅かに目を瞠った。失礼な反応だと言わんばかりに、リリーは口を結ぶ。


「あ、ああ失礼。私は聖リュシアナ・アニェス王国、近衛隊所属のマティス・センシディアです」


「聖王国、近衛兵……」


 聖王国リュシアナ。このガウディが属している、国家の名だ。

 男の胸に光る獅子の紋章は、その聖王国の国王を表すもの。何人たりとも、他国であろうともそれと同様の紋を刻むことは禁じられている。本物ですかなどと確認をするのも馬鹿らしいくらい、清やかな金で輝いている。

 だからと言って、リリーが態度を改めることはなかった。


「近衛兵が王の下を離れて、こんなところまで何の用?」


 扉に持たれかかったまま、リリーはマティスを見据えた。

 不遜な態度だったが、マティスが気を悪くすることはなかった。むしろ、どこか高揚した様子で姿勢を正した。


「変り者とは聞いていたけど……」


「は?」


「あ、いえ」


 失言に口を押さえながらも、マティスは話を続けた。

 リリーは顔をしかめ、ため息を吐いた。


「あんまり人の顔をじろじろと見るのはやめて」


「あ、ああ、いえ……その」


 リリーは、この反応にはいい加減うんざりしていた。こういう態度を取られることは、何も今日が初めてではない。彼女がアストレイアの妹だと知ると、人はお決まりかのようにその顔を見つめるのだ。

 翡翠の玉のような瞳は、色こそ同じだが、あの輝くような姉の瞳とは違っていた。輪郭がきつく、冷たさを帯びたそれを見て、人は肩を竦める。そして最後には決まって「両親のどちらに似たのかな」などと言うものだから、リリーは益々口を閉ざしてしまうようになっていた。

 おそらくこの男も、同じようなことを言いたいのだろう。言わせてなるものかと先手を打ったリリーは、マティスを睨み上げた。

 だが、彼が放った言葉は、少し違うものだった。


「優しい色の瞳ですね」


 意外な言葉に、リリーの表情は強張った。何と返せばいいのかと戸惑っていると、マティスは手に持っていた何かをリリーに差し出した。


「失礼、本日はこちらを持ってまいりました」


「手紙……?」


 それは、しっかりと閉じられた一通の封筒だった。リリーは封筒とマティスを交互に見つめた後、それを手に取った。

 何も言わず、そっと封筒に手をかける。中には、陳腐な見た目に反して、しっかりとした硬さのある手紙が入っていた。


「この刻印……」


 手紙の一番上には、リュシアナが誇る獅子の刻印が押されていた。獅子が天を望むその姿が象られた刻印は、リリーの目に懐かしく映る。


「リュシアナ王の召文……。なんで今更、私を」


 手紙には、形式的な挨拶の後、短くこう記されていた。


 “至急、王都アルフォンスへ”


 この一文だけでは、何のことか全く意味が分からない。

 リリーは軽く首を振ると、手紙を元に戻した。


「聖騎士として登録はない国の召文、応える義務はあるのか」


「だから私が来たのです。貴方を何としても、王都へ連れていく為に」


「理由も言えず、連れ去るようにと王が?」


 すると、マティスが急に黙り込んだ。やけに表情が暗い。


「……アストレイア様のことで御用に伺いました」 


「姉さんの?」


「大事な話です」


 深刻な様子で言うマティスに、リリーは姿勢を正した。


「実は……アストレイア様が、発見されました」


 リリーの体中の神経がざわついた。全身の毛が逆立つのを感じながら、リリーはマティスに詰め寄った。


「姉さんはどこ!?」


 リリーの目が、喜びに輝く。

 だが、マティスは、答える前に周囲を気にした。

 片田舎のこの風景に、真白い近衛兵の服装は目立って仕方がない。


「落ち着いて。ですから、すぐに来て頂きたいのです」


「そう……そうね。分かった」


「では、出来ればすぐに」


 マティスは支度を急ぐように告げると、外にある白馬を見せた。

 彼以外に兵の姿が見えないことを不審に思ったリリーは、眉を潜める。


「一人で来たの? 王の近衛兵が?」


「一般兵に任せられない。だから私が任されました」


 馬を撫でながら、マティスが言う。


「よほど信用されているのね」


「名前だけですよ。信用があるのは俺ではなく、家名の方です」


「家名?」


「センシディア伯爵の長男ですって言えば、大体はちやほやしてくる」


 白い馬は、彼によく懐いている。その馬を見つめるマティスの横顔は、どこか寂しげであった。


「お互い、家名に嫌な思いをしているのね」


 リリーは、言うつもりはなかった心の声を零していた。


「そうかな」


 マティスは、困ったように微笑んだ。


 馬に乗り、村を出る。駆けるほど速く、進むほど遠く。手綱を握るマティスが焦っているのか、それともリリーの心が焦っているのかは分からなかった。教会の鐘を遠くに聞きながら、不安のままに瞳が乾いていくのを感じていた。


「マティス、姉さんは王都にいるの?」

 

 風を切る音に負けないように、少し声を張って問いかける。

 マティスは背中側にいるリリーに顔を見せることはなく、前に向かって答えた。


「王都にいます」


「ねえ、姉さんは誰が見つけてくれたの? 怪我はしていないのか?」


「……怪我、は」


「姉さん、昔と変わっていないのなら、無茶ばかりしていたに違いない。強いからって、やりすぎるんだあの人」


 草原を駆け抜ける時、黒い衣を纏った人々とすれ違う。異質なそれを見つめながら、リリーは独り言のように続けた。


「けど……強いから。やっぱり、ちゃんと帰ってきた」


 王都に近づくにつれ、黒い衣の人々の数が段々と増えていく。胸がどくりと、重い空気を飲んだように跳ねたが、リリーは気付かないふりをした。


「姉さんはやっぱり、強いんだ」


 リュシアナは獅子を崇め、神を崇める国だ。黒を纏うのは、何かが失われた時だけだと記憶している。だから国民は、普段はこれでもかと言わんばかりに白を纏う。現に、このマティスも、ローブを留める宝石以外は全てが白で統一されている装いだ。


「姉さんは、姉さんは……」


 美しく、神を愛した王都アルフォンス。城を中心に、放射線状に整備された大通りのひとつを馬で駆けていく。

 祝福の都に、黒衣の人々が列を成して何かを目指していた。

 彼らの向かう先には、王がおわす城ではなく、巨大な白き塔が在った。太陽の僅かな光で荘厳に輝くそれは、全てが聖石(せいせき)で造られた、人々の信仰の対象だ。


「創世神の塔……」


 リリーがそれを見るのは、数週間ぶりだったが、まるでもう何年も見ていなかったかのような感覚に襲われた。

 動く景色の中、巨大な城だけが悠然としてそこにある。近づくにつれ光を増す塔は、届かぬ神の姿を現しているようだった。

 すると、塔の方角から、花片が風と共に舞い散ってきた。まるで、リリーの到着を待っていたかのように。

 花びらは黒く、布のようになめらかな質感を持っている。手を伸ばすと容易に掴むことが出来たそれは、雫に濡れていた。


「これ、失われた時に咲く花の色。ねえ、マティス。ねえ、これは……」


 問いかけに、マティスは答えなかった。ただ馬を走らせる彼の背中から、緊張が伝わってきた。


「マティス」


 黒い花びらが、リリーを塔の元へと導く。門番は誰一人として阻むことはなく、馬は滑るようにして塔の前へと進んだ。

 頂きが霞む塔の下に、黒衣の人々が集中していた。どこからともなく降り注ぐ黒い花びらは、雨のような静かさを以って辺りを包み込む。悲壮な泣き声が響く。怒号のような言い合う声が聞こえる。

 歩む度に不安さだけが増すこの道を、どうしてこの男は、私を連れて進むのだろうか。

 

 その内に、群集の一人が、大きく何かを叫んだ。その言葉が俄かに聞き取れず、リリーは耳を澄ました。しかし、それはするべき行為ではなかった。届けられる言葉が全て、リリーにとって信じがたいものばかりであった。

 馬から降りることも考えず、リリーは周りから目を逸らす。手の平に、自然と力が入っていた。


「大丈夫かい?」


 マティスが、そっと声をかける。軍服の腰辺りが、きつく皺を刻んでいた。


「俺の役目は、アストレイア様のところへ、ちゃんと君を連れていくことだから。気分が悪くなったら、すぐに言って」


 マティスの気遣いが、重くリリーに響く。そんなことを言われなければいけないほどの何があるというのか。

 今から待ち受けているのは、姉妹の再会。それは喜ばしいことであり、リリーの長く辛い一人の日々が終わりを告げる瞬間でもある。

 そう、疑ってはいけないと、きつく言い聞かせているというのに。


 お帰り、姉さん!

 探したんだよ。ずっと探していたんんだよ。

 待ってた方が良かったかな。賢くはなかったかもしれないね。

 ねえ、でも姉さん。私はこんなに大きくなったよ。こんなに、強くなったよ。

 こんなに、強くなったから、姉さんと一緒に、一緒に。



 悪魔を――。



 男に案内された、塔の前。道を造るように、神を称える白い百合の彫刻が並ぶ。ここが世界の別れの場所であるのだと示すかのように、両側では黒衣の人々が膝を折る。

 そして、そっと置かれた硝子の棺。まるで御伽噺のお姫様。

 長い睫毛、ブロンドの髪。凍り付いた、美しい顔。掲げられた十字架の下で、青白い肌が光る。

 額には、「アストレイア」と書かれた複雑な紋章。

 棺の傍らで、泣き崩れる男がいた。金髪の長い巻き毛の、まるで王子のような風貌を持った青年。

 彼の口付けで目を覚ます筈の人は、もうこの世にはいない。


「姉さん」


 黒く、夜よりも暗く、失われた人を送る花が空に舞う。

 リリーの膝は、自然と大地に落ちていた。


 ──ここから。ここからだったんだ。

 世界が、私が、貴方が。

 全ての真実に向かって歩み始めたのは。


 この瞬間、私という人物は初めて失われ、そしてまた産声を上げ、生き始めたのだ。



 * * *



 時は、アーリア聖暦3062年。

 気の遠くなるような昔に生まれたアーリアの歴史は、千の時を経て尚、衰えることを知らず。それどころか肥大し、巨大な国家を次々と誕生させた。

 その中でも、最も巨大で権威ある国家「聖王国リュシアナ」。暁の獅子王が君臨する、神が降り立ちし白き国だ。

 その王都アルフォンスに、激震が走った。聖王国リュシアナの誉れ高き聖騎士アストレイア、英雄セイレ・ウルビアの訃報。

 惨い死に様に、彼女を崇拝する人々は悲しみに打ち拉がれ、同時に激しく怒り、拳を掲げた。

 信心深い民は、悪魔に対して「報復」という呪いの言葉を唱え、ついにそれはリュシアナのみならず、強国の軍を動かすほどに力ある声となった──。


「一刻も早く悪魔どもを根絶やしにせねばなりませぬ!!」


「しかし最高位の聖騎士がやられたのだぞ! 第二位以下の騎士に倒せると思うか!?」


「だが、むざむざ悪魔どもにやらせたままでよいのか! 民が何を言いだすか分かるだろう! これでは王国の威厳が……」


 国議院、元老院、軍上層部による緊急会議が開かれた。

 会議室では、聖王国の重鎮が雁首をそろえて不毛な言い合いを続ける。話は前に進む様子がなく、それぞれが言葉をぶつけ合うだけの論争が続いた。

 

「皆様、どうか落ち着いてください。私にひとつ、案がございます」


 その場をなだめるように、一人の男が手を挙げた。軍部大佐のシュナイダーだ。

 その上品な口ぶりといい、流れる金の髪といい、軍人というよりも貴族に近い。

 彼は、束になった資料を取出しながら喋り始めた。


「我が国家、または諸国の上位登録聖騎士を全てこの聖王国に召集し、軍を編成。そして我が聖王国軍部と連携し、大規模な軍事作戦を実行します」


 熱く語る男に、議員や軍の面々は難色を示した。


「だがな大佐。他国がそれをよしとするか? 準備だけでもどのくらいの費用と時間がかかるか」


「聖騎士の招集だけならばまだ良い。だが他国が聖騎士に依頼する仕事の内容は、今や悪魔討伐のみに留まらない。彼らとて、登録国家を空けるような真似はすまい」


「ご安心を。既に手配済みです」


「……分かっていたかのように仕事が速いなシュナイダー大佐。それとも、君を駆り立てる何か特別な理由でも?」


 茶化すような声をかけた男に、シュナイダーは答えを出さなかった。眉間に皺を寄せて、両手を机に叩きつけた。


「この機に総攻撃をかけ、この血塗られた歴史に終止符を打つのです! 今こそ人間全てが団結をする時なのです!」


 冷静さを事欠いたようにも見える彼の言葉に、老いた議員たちは囁き合う。

 そのさざめきを遮り、ある老人が言葉を発した。


「落ち着くのだ、若き大佐よ」


 老人の声は濁っていたが、妙に強みがある声音をしている。足元まで覆い尽くす質の良い白いローブには金の装飾が施されており、何重にもうねっている。

 会議室に据えられた長く巨大なテーブルの最奥に座るその老人は、質のよさそうな片眼鏡の位置を正しながら続けた。


「シュナイダー、そなたの想いは分かる。だが長きに渡る悪魔と我ら人類の戦いは、大国の剣を以ってしても制することが出来てはいない。隣国諸国とて、聖騎士の悪魔討伐の為にかける費用は途方もないものだ」


「悪魔との戦いが終わらないのは、彼らが無限といっていいほどに湧き出てくるからです。その原因を、あの大きな大戦から四十年経った今でも掴めずにいる」


「奴らは北より出でる。あの凍りついた大地から、山を越えてやってくるのだ」


「ですがあの地は禁足地となり、どの聖騎士も攻め入ろうとしたことはない! ……アストレイア以外は」


 シュナイダーのはめる白い手袋が、歪んでぎちりと音を立てる。片眼鏡の老人は、それを悲しげに見つめた。


「――おおよそ四十年前、奴らと我らの間に大きな大戦があった。先王アルフォンスが認めた剣聖と共に、奴らに打って出たのだ。この国に住む者なら誰もが知っていることだ」


「……勿論存じております。アルフォンス王は剣聖と共に悪魔の大地へと攻め入った。……しかし、悲願は果たされなかった。悪魔は王を殺し、剣聖を殺し、生き残りは逃げ帰るしかなかった。癒えぬ傷を負って」


 シュナイダーが続きを語ると、面々は重い溜息を吐いた。だがその中で一際大きく項垂れたのは、片眼鏡の老人だった。


「そういうことだシュナイダー。あの大地は、ある時から凍りついたままだ。悪魔どもならあの環境でも戦うことは可能だが、我らは人間だ。むざむざ攻め入るは愚策であろう」


「しかし!」


「――まずは、調査の必要があるということだ」


 皺の深い顔が、うって変わって微笑みで染まる。大きな玉がはめられた指先が、あるひとつの書類を指差して微笑んだ。


「調査には、適役がおろう」



 * * *



 聖王国リュシアナ。

 創造神の吐息が聞こえる聖地、巨大帝国、獅子の国。などと言われているが、それ故周りの国家から疎まれることも少なくはない。資源の豊富なこの国は、攻めることもせず、攻められることもなく、戦いがなく、ただ神を崇めて生きる清廉な国家とされていた。


 “聖地などは名ばかり。今の国王にそれほどの威厳はなく、議員たち欲深い人間の根城と化しているさ”


 セイレがリリーにそう言ったのは、騎士になってまだ少ししか経っていないときだった。

 まるで何十年もそこにいたかのような口振りで話すセイレを、リリーは強く尊敬していた。当時既に、彼女の聖騎士階級は、第三位まで上がっていたのだ。

 姉の声色をリリーはよく覚えていた。よく通る、強さのある声は、とても聞き取り易かった。反芻すれば、今でも耳の奥で姉が喋る。


 “お腹空いたか? また一人で留守番だったのか”


 笑う姉は、荷物の中から焼き菓子を取り出してくれた。聖騎士の任務から帰ると、必ずお菓子をくれる。それが二人のお決まりだった。


 ……もう二度と、姉さんに「お帰り」を言うことは出来ないのだろうか。


 国葬が滞り無く行われた翌日、リリーは城のテラスに一人で座っていた。

 三日間ほどの滞在を許された彼女は、部屋に閉じこもることはなく、ふらふらと徘徊を繰り返していた。痩せっぽちの少女が歩く様は不気味で、兵士たちはこぞって嫌味を囁く。誰が見ても意気消沈した様子であるのに、誰一人として慰めの言葉をかけはしなかった。

 彼女にかけられる言葉はひとつ。“アストレイアの妹のくせに”ただそれだけだった。


 リリーは、あの美しい姉の死体を見ても、何故か涙は出なかった。ただ、信じられないという気持ちと、絶望の感情を抑えるのに必死だった。それが周囲には、非常に冷徹な人物として映ってしまったのだ。

 だが、リリーはそれをよしとしていた。元より人との関わりに対して欲のない彼女は、安心していた。

 曇る瞳が見つめる先に、小さな薔薇の欠片が空へと消えていった。


「あんな色の薔薇もあるのか……」


 建物を巻くように造られたテラスからは、城の中庭が目に入る。円形に大きく広がったそこには、天まで届きそうな聖石の塔がそびえ立っていた。

 その塔の名は、祈りの塔。遥か昔、創造神が降り立った場所とされている信仰の対象だ。

 祈りの塔がある“祈りの庭”に限っては、民も自由に出入りできるため、信心深い者達が毎日ひざまずいては祈りを捧げている。今は、ただ悼む為に祈る者ばかりで、黒く染まっているが。

 その様子を手摺りにもたれて眺めながら、あの姉もここでこうして同じ光景を見ていたのだろうかと考える。

 ふと、気配を感じてリリーは身を強張らせた。見通しのいいテラスの通路の向こうから、男が一人歩いてくるのが見えた。


「リリー・ウルビアか」


 現われたのは、リュシアナ軍部大佐のシュナイダーだった。金の長い髪はセイレと同じ、朝陽のように輝いている。


「私のことはセイレから聞いているだろう。それで、お前は大丈夫なのか」


 彼がいの一番に言い放ったのは、その言葉だった。僅かに驚きを見せたリリーは、小声で答えた。


「だい、じょうぶ……とは」


「お前も、セイレを長い間探していたと聞く。今回のことは非常に残念だった」


 あまり経験がない優しい言葉かけに、リリーは少し身を縮めた。


「私にできることは少なすぎたから」


 俯くリリーは、まだ幼い少女のような表情を見せる。シュナイダーは、小さく息を吐いた。


「しかし、お前が一人で暮らすなど、ウルビアの家の者は何をしているのだ。今も一人で暮らしているのか?」


「アナトリで一人でいる。不便はない」


「そこは特別自治区だから聖騎士の登録は出来ないだろう。となると補助もない。リュシアナに聖騎士として登録をする気はないのか?」


「任務があれば、姉さんを探す時間が潰されるばかりだった。だからしなかった」


 何故いきなり、こんな込み入った話をするのだろうかと、リリーは少し警戒を見せた。

 そんなリリーに、シュナイダーは落ち着いた声で言う。


「……セイレからお前のことを頼まれた。最も、十四年前のことだが。その頃から一人でいることが多かったことも。なのにウルビア家は――」


「私の名前を聞けば分かるでしょ」


 一際鋭くなったリリーの瞳を見て、シュナイダーは口を噤んだ。


「リリーと呼ぶようにしてくれたのは姉さんだ。最初に付けられた名前は、リリム。おとぎ話の悪魔の名前だ。人を誘惑する悪魔だ。その名前のせいで色々面倒だった」


 シュナイダーはすぐさま腰を折り、気まずそうに謝罪を示した。


「失礼をした。無神経であった」


 軍人らしい無骨な態度を示すシュナイダーに、益々居心地を悪くしたリリーは、視線を逸らす。面倒だと態度で表すかのように、さっと背を向けた。


「あ、おい。ウルビア、ちょっと待て」


「何。まだ私の名前について何か言いたいの」


「そうではない。近く、君に勅令が下る。その事で話をしたかったのだ」


「……王の命令を貴方が先に言っていいの」


「我らの王のことは我ら以上んびよく知っていると聞いているが?」


 意味深な物言いをするシュナイダーは、にやりと笑む。


「勅令の内容まで言いはしない。だが、もしその内容が君にとって重荷であるなら、無理に受けることはない。いや、君だから許される。いいか、無理はするんじゃないぞ」


「そこまで言うと不安しかないのだけど」


「……君に何かあれば、セイレが悲しむ」


 深い、後悔の念が混じった言葉だった。リリーは重く溜息を吐くと、シュナイダーに向き合った。


「貴方は、姉さんがいなくなってしまったことだけを悼めばいい」


 リリーは複雑な表情でそう言うと、礼をすることなく彼に背を向けた。立ち尽くすシュナイダーだったが、思い切った様子で声を上げた。


「ウルビア! お前の名は、一説ではそうかもしれないが、だが、けして悪しき名ではないぞ!」


 大声に驚き、周囲の人々もシュナイダーを見る。注目の中心だったが、彼は怖じることなく続けた。


「逆もまた然り、かつては人の祖先とされたと唱える国もある! 名前を、重く思うことはない!」


 よくもまあ、恥ずかしくないものだとリリーは顔をしかめた。だが、その視線はシュナイダーから外されることはなかった。

 周りで囁き合う人の声も、今は耳に入らなかった。


「名は、言ってしまえば、ただ区別をするだけのものだ。お前はお前として気負うことなく生きればいい」


 そう言って、シュナイダーはその場を離れた。軽やかに白いマントを翻すと、豊かな金の髪もそこに付き従う。立ち去る男の姿を見送り、リリーは唇を噛み締めていた。


「……悪魔のようだって思ってるから、だから、区別する為にこんな名前をつけたのよ」



 * * *



 幾日か経った時、状況はシュナイダーの言っていた通りになった。リリーの元に、リュシアナ国王からの勅令が下されたのだ。

 数多に在籍する聖騎士が在籍するこの国で、何故非登録聖騎士のリリーの所にそんなものが届いたのか、聞くことは許されなかった。令状を届けた兵士はリリーにそれを無言で手渡すと、さも汚らわしいものを見るような態度で彼女を避け、馬を走らせていってしまった。

 何をそこまで嫌われなければならないのかとリリーは考えたが、どうやらそれはセイレの死に関係しているようだった。

 セイレの存在は、リュシアナでは特に信仰の対象と同等に扱われていた。延々と繰り返す悪魔との激突の中、疲弊した人々は身近に拠り所を求めるようになっていた。

 美しく、賢く、強く。誰に対しても朗らかで、気さくで、そんな希望の集まりのような人間が現われたとなると、彼らの心が集まるのは必然であった。

 住まいはリュシアナ王都の、そこまで気張ることのない中流家庭。運がよければ、寝ぼけ姿だって見ることができて、親しい者のように挨拶だって交わせる。

 夢物語の勇者のような彼女の存在は、そこに在るというだけで、人々を勇気づけていたのだ。


 そしてそれが無くなった時、人々は責任を押し付ける相手を探し始めた。


 “肉親ならば消息は分からないのか”

 “本当に悪魔の地に行くと言っていたのか?”

 “子供だから、嘘を言っているんじゃないか”


 不安が狂気を呼び、人々は幼い少女を攻め立てた。セイレとも両親とも違う青灰色の髪は、まるで異端の子供のように人々に映る。

 表立てば他に騒がれることをよく知る大人たちは、影でリリーを詰った。小声で汚い言葉を吐きつけ、怯える瞳を鬱陶しいと避け、痩せた体を気味が悪いと言い捨てた。

 やがてリリーは、「最後に姉を見送った自分こそが、姉を探し出さなければいけないのだ」と考え始めた。

 いずれ自分が悪魔たちの拠点に往き、彼らから姉を助けださねばらないのだと。強く、呪縛のような念を抱いて成長してしまった。

 その想いが、あったからかもしれない。

 リリーは、王からの勅命を、特に何も気にすることはなく、あっさりと承諾した。


「偵察任務……」


 羊皮紙に、勅命が厳かに走る。そこには、北の大地へと赴き、現状の地形や天候などの調査を行ってほしいと記されていた。

 指示された偵察任務の人数は四人。リリーの名前は、最後に記されていた。

 城内にあてがわれた部屋で紅茶を啜りながら、任務の資料を読む。同封されていた古い地図には、北の方角に「ヴァイス」と記されていた。


「資料は以上です。ウルビア殿、よろしくお願いいたします」


 マティスが、部屋の中央で背筋をのばして立っている。リリーに勅命を渡す為、わざわざ来たのだという。


「偵察はいいとして、これはどういうこと」


 すっと白い指を伸ばし、リリーが尋ねる。人差し指の先には、調査に赴く人物の名前があった。


「何で近衛兵の貴方が行くの」


「貴方をあのような場所へ行かせるなんてことのほうが、心許ないです」


「近衛兵なんて管轄外もいいところでしょ。素直に“監視”だって言えば」


「そんなまさか……」


「じゃあ暇なのね」


「はは、実は」


 照れ臭そうに頭をかくマティスに、リリーは目を伏せる。


「あと、ウルビアって呼ばないで」


「そうですか? では私も、お好きなようにお呼びください」


 資料を机に置き、ソファーに腰掛ける。ふいにもれたため息に、マティスが反応した。


「不安はありますか?」


 突然の妙な質問に、リリーは眉を寄せた。


「姉さんはきっと怖がらなかった。だから私も怖れない」


 だがその姉も、最後は死体になっていた。リリーは少し俯き、机の上にぽつんと置かれている冷めかけの紅茶を見つめる。


「なるほど。さすが姉妹だ」


 姉を褒められると悪い気はしないのか、リリーは少し口端に力を入れた。


「姉さんは……小さい私に、何回もヴァイスの話をしてくれた」


「へえ、どんな話を?」


「あの地は意外と綺麗だとか。花が咲いているとか。雪が振っているけど、薔薇も咲いているとか。悪魔って花が好きなのかな」


「興味深い。雪原に花が咲くなんて」


「子供に話すことだから、脚色していたのかもしれないけどね」


「優しい方だったんですね」


「……まあ、確かに」


 戸惑いながらも言葉を返すリリーに、マティスはさらに質問を投げ掛けてきた。


「優しい姉上の為に、聖騎士として上を目指さされないのですか?」


 癪に障るような言い方をしたマティスに、リリーはむっとした。


「実力がない。私はまだ下から3番目。昇格するほどの功績もないの」


「失礼ですが、わざと階級をそのままにしているのでは?」


「騎士が昇級するにはそれなりの功績や人柄、周りの評判まで見られる。簡単なことではないの」


「……ま、そこまで仰られるのならば追求はしませんが」


 諦めたようにわざとらしく肩をすくめたマティスは、堕ちていく陽を見つめながらこう言った。


「明日も、明後日も、この陽が見れるといいですね」


「見れるんじゃない。生きていればだけど」


 リリー自身、任務に対しての不安は本当に無かった。それは自信過剰というよりも、姉の敵討ちが出来るという期待感で頭がいっぱいだったからだろう。

 偵察任務という名目だが、悪魔を欺きこっそり帰ってくることなど不可能だ。きっと、戦闘になる。

 けれど、彼女はまだ何も気付いていなかった。

 意気揚揚と拳を握る彼女を、影で目を光らせ見張っている存在に。



  * * *



 偵察任務に出発をする朝が来た。

 空はいつもどおり美しい青に染まり、厚着をしていると汗ばむくらいの陽気だった。


「暑い」


 そう言いながらも、リリーの服装はいやに軽装だった。聖騎士として支給されている装いに、軽い布地のローブ。使い慣れていそうな、変わった片刃の剣。荷物はというと、洒落っ気の欠片も無い皮袋ひとつだった。

 それでも、蒼い髪と翠の瞳が郡を抜いて美しいので、道行く人が彼女を見ているのが分かった。

 時計の針は、午前十一時を指そうとしている。そろそろ昼食の準備をするために、女たちが早足になる時間だ。

 ざわめき立つ町の中、リリーは一人、橋の欄干に腰を預けた。

 リリーたちの待ち合わせ場所は、小さな国境の町だった。リュシアナの北にあるこの町は、首都に近いながらも少々田舎臭さの残る場所だ。

 かといって、何も見所がないわけではない。町中には、名産である花が色とりどりに咲き誇り、そこら中に胸を撫でるような優しい香りを放っている。

 勾配が多い町ではあるが、民家や商店の壁には必ず花が咲き誇っているので、楽しみながら歩くことが出来るというわけだ。

 水路も充実しており、今リリーが腰掛けている橋も、その水路のひとつに架けられている。

 流れる水路の水は美しく、リリーの陰鬱な表情さえ、水面の光に消してくれる。

 綺麗だな、と素直に思えることが出来た自分に、リリーは少し安心した。


「お待たせしました」


 喧騒の中から、声がした。顔を上げると、そこにはマティスがいた。近衛兵らしい少し洒落た服装で、合わせたかのように爽やかな笑顔を見せている。

 彼の後ろには、同じ調査隊として抜擢された人物が二人いた。一人は少し年配の男で、もう一人は、二十代後半の女性だった。

 いずれも、一目では軍人と分からないような旅装をしているが、雰囲気が一般の人間とは違うのは明らかだった


「あんたがリリー・ウルビアか」


 短く切り揃えられた濃い藍色の髪をした男が、驚いた様子で言う。さっぱりとした印象だが、年はそれなりに重ねていそうだ。扱いやすそうな片手剣には、獅子の紋章が刻まれている。


「俺はリュシアナ軍部、騎馬隊のバルト。こっちは……」


「聖騎士のアミー。貴方は……噂のリリーちゃんだね。若い若い」


 悪意のない声でそう言った娘は、けらけらと快活に笑う。乱雑にまとめられた紅葉色の髪には、耳を覆うようにして大きな布飾りが巻かれており、それを留めるように変わった簪を差していた。

 重そうな皮袋を背負い、旅装をしっかりと整えた二人の中で、マティスだけが非常によく目立つ。弱々しい瞳で視線を逸らす彼に、リリーは声をかけた。


「マティス……約束の時間は十一時より前だったと思うのだけれど」


 リリーが言うと、マティスは気まずそうに後ろの二人を見た。


「彼らの家族と少し話をしていまして。すみません」


 ああ、とリリーは悟った顔をする。年配の方の兵士が、咳払いをした。


「突然の出張なもんで、家族に言うのが今日になっちまった。すまん、遅れたのは俺のせいだ」


 恐らく、リリーより二十歳は上であろうこの男だが、非常に腰の低い態度で頭を下げる。

 居心地の悪くなったリリーは、「いえ」と小声で返事をした。


「リリーちゃんは時間きっちりだったんだね? 噂なんてほんとアテになんないね。真面目な子じゃない」


 笑顔を絶やさず、娘が言う。唇に乗った紅が、成熟した大人の印象を与える。


「リリーでいいです」


 思わず敬語になるリリーに、マティスが驚く。畏まった態度に肩を竦めた。


「リリーちゃんの方が可愛いじゃない! ね、あたしのことも好きに呼んでいいよ」


 とは言っても、短いその「アミー」という名前をどう捩ればいいのかとリリーは悩む。

 困り顔をしていると、アミーは嬉しそうに笑った。


「はは! 良い呼び方、考えといてよ」


「――さて、出発前に準備は要りませんか? 買い物があるなら、ついていきますよ」


 マティスは気を利かせて言ったつもりなのだろうが、リリーは怪訝な顔をして首を振る。


「準備が出来ていないとでも思ったの?」


「やっ、えっと、そういう意味じゃなくって。ほら、やっぱりローブの一枚くらいはあった方がいいと思うから」


 焦ったのか、マティスは敬語を崩して言う。

 そこで、はっとしたリリーは自身の体を見つめた。


「そうか……これじゃあ少し寒いか」


 首を傾げ、リリーは自身の胸元に手を当てる。


「ごめん。ローブだけ買わせてもらいたい。いい?」


 妙に素直に謝ったことに、マティスは僅かながら驚きを見せた。

 どうやら、彼女の棘のある言い方は、ある種の「癖」らしいということに気付く。

 少し頬を赤くしたマティスは、リリーに手を差し出した。


「この先に、店がありました。きっとリリーが好きそうな物があると思います」


「……“リリー”?」


 呼び捨てにいち早く反応したリリーは、横目にマティスを睨む。


「あ、えっと、その」


「別にいいけど……」


 そう言いながらも、リリーの横顔は明らかに嫌悪に満ちている。

 勿論、マティスの手は宙をひらひらと舞い、ポケットに悲しそうに仕舞われることになった。


「なんっか……印象違うなあ。いや生意気は生意気だけど、なんつうか」


 バルドが、冷や汗混じりに言う。


「リリーちゃん、って呼んだ時はあそこまで嫌がらなかったのに」


 アミーが首を傾げる。


「そうだね……可愛いのに勿体無い」


 マティスがぽつりと漏らした言葉に、アミーたちが色めき立ったのは言うまでも無かった。



 * * *



 リリー達の偵察部隊は順調に北上を続けていた。バルドが世話をする馬も、この寒さに負けず元気に走ってくれている。

 時折、異形の悪魔が襲いかかってくることもあったが、どれも人間程度の大きさしかない、いわゆる「小物」であった。そのほとんどをバルドが倒し、アミーが補助をする形だった。

 リリーはというと、マティスがやけに壁となっている為、その腰にある変わった形の剣を振るうことはあまりなかった。


「今日はここらへんで落ち着こうぜ」


 バルドが、馬を気遣いながらそう言った。

 周りを見ても街の光は既になく、北へ続く街道だけがどんよりとして続いている。

 暗い夜空の下、穏やかな炎が優しい音を立てて揺れている。大きな木が二つほどそびえ立つそこは、雨風もしのげそうで具合がいい。

 その屋根のような枝と葉が決めてとなり、本日はここで野営となった。


「厄介なのは人型だよなあ」


 座りこんでくつろいでいたマティスが、疲れた声で呟いた。


「人型なんかいた?」


 りんごをかじりながらアミーが尋ねると、バルドが代わるように答えた。


「また人型の話かよ。やめようぜそれ」


 年に似合わず若々しい瞳をしている彼だが、疲れが少々滲んでいた。


「あれは他と見分けがつかないから後味が悪いものね」


 同意するように言葉を続けたリリーに、バルドが表情を明るくする。


「だよなあ。軍部でもさあ、顔はかっこいい人型がいるだなんだって女どもがキャーキャー言ってんだよ。さすがに呑気すぎるだろ」


「見た目が似ていると、まるで人殺しをした気分になるから嫌」


 なんの抑揚もなく言い放つリリーに、バルドが喉を詰まらせる。

 焚き火の光に染まるその横顔に、悔やむような感情は見えなかった。


「えっと……そうそう。聞きたかったんだけど、その剣はやっぱりアストレイア様から習ったものなのか?」


 マティスが、リリーの傍らにある剣を差して尋ねる。

 リリーの右隣、荷物との間には、包丁を長くしたような片刃の剣があった。柄には布が幾重にも巻かれているが、雑ではない。間隔を違うことなく交互に巻かれ、模様のようになっている。


「これは違う」


 リリーはそっけなく答えた。


「それって、リュシアナのじゃないわよね。不思議な形」


「五年ほど前、師に剣を教えてもらっていた。その時に譲りうけた」


「へえ、士官学校とか?」


「誰もが貴方みたいに学校に通ってちゃんとした勉強をしているわけじゃない。師は旅をしている人だったから、今はどこにいるか分からない」


 嫌味を言われたにも関わらず、マティスはそれを意に介せず、言葉を続ける。


「それって、男?」


「そんなことを聞いてどうするの?」


「好奇心だよ」


「男。東の方の民族の、旅の人。もういい?」


「そっかあ……うん、もういいよ。ありがとう」


 一体何を聞きたかったのかと、リリーは眉根を寄せる。

 その後も、マティスは他愛のない話をリリーに投げかけ、その度に溜息を吐かれるのだが、彼の好奇心がおさまることはなかった。



 * * *


 

 そして、リュシアナの領土を出てから三日が経った。

 相変わらずいい天気ではあるが、風があからさまに冷たくなっている。

 馬にも疲れが見え始めた。


「――いい天気だなあ」


 青く澄み渡った空を見上げながら、マティスは気持ち良さそうに瞳を閉じた。その様子を見ていたリリーが怪訝そうに言葉をもらした。


「余裕ね。ヴァイスに行けば死ぬかもしれないのに」


「気を付けるよ」


 爽やかに笑みを返すマティスに呆れたリリーは、それ以上何も言わなかった。


「ヴァイスまで、どれくらいかな。もうだいぶ来た気がする」


 アミーが、マティスに尋ねる。


「国境のアルヘナ山脈までもう近いよ。ほら、そろそろ見えてくる筈だ」


 彼方を見つめると、地平線ばかりの中にうっすらと白い影が見える。

 恐らくあれがそうだろうと、バルトが言った。


「ヴァイスか……悪魔の居城があるくらいだから、やっぱり雷とかが絶えず鳴り響いているのかな?」


 素っ頓狂なマティスの問いに、眉をひそめながらもリリーが答える。


「おとぎ話の読みすぎ」


「ば、場を和ませようとしただけだって」


 そんな彼の努力も空しく、リリーとマティスを除いた二人の足取りは段々と重くなっていた。

 アミーはどことなく顔が強張り、時折胸を押さえるような仕草を見せた。

 聖騎士である者にとって、この北の大地がどれほど恐ろしいものかはよく分かっている。あのおぞましい化け物が、一匹でも厄介なあの悪魔が、この先にはごまんといると言われているのだ。

 悪魔に直接対峙した者でなければ、この胃の奥から突き上げてくるような恐怖は説明できないだろう。

 対してバルドは、何か悲愴感のようなものが漂っていた。怖がっているというよりも、何か腹を据えかねているような雰囲気だ。ぐっと喉を締め、唇を結んでいる。

 その様子を見て、リリーが前を指差す。


「偵察任務だからといって、そう急いでヴァイス入りすることはないと思う」


「えっ」


 予想外の言葉に、マティスが目を丸くする。リリーは彼を見遣り、何か目配せのようなものをした。


「この先に名前のない小さな村があった筈。そこへ行けば、宿くらい貸してもらえるでしょう。優しいマティスのことだから許可してくれるでしょ」


 少し悪戯めいた表情で光る翡翠の瞳に、マティスは弱ってしまう。

 向こうでは、期待に満ちた顔でこちらを見るアミーとバルドがいた。


「いや、一応予定にはあるけど、泊ま……。うん……まあ、いいか」


 久々の宿と風呂に歓声を上げたアミーたちは、馬を急いで走らせる。

 嘶きが彼らの喜びの声に聞こえて響く中、マティスは眉を寄せた。


「リリーって意外とそういう配慮をするんだね。先を急ごうって言うのかと」


「だって、すぐ死ぬかもしれないし」


 リリーは、無感情に言い放った。他人のことなど、どうでもいいのが本音だろうか。

 マティスはそんな彼女の冷めた表情を、その青い瞳に映していた。



  * * *



 限りなくヴァイスに近いその村は、小さいながらも整ったレンガ道が敷かれていた。

 黒く染まる空に色を入れるように橙色の光がぽつりぽつりと揺らめいて、旅人を温かく迎え入れる。

 街を覆う壁は高く積まれ、外部からの進入を警戒している。

 人気は僅かにあるものの、活気はない。


「せいきし様ようこそ。よくぞきてくださいました」


 一行が村に入ると、小さな女の子がすごすごと頭を垂れて近づいてきた。

 幼い娘は、リリーに北の地では珍しい野花を差し出した。続いてマティス、アミーと手渡し、最後にバルドにも渡した。


「よく聖騎士だって分かったわねえ」


 アミーが頭を撫でてやると、少女は誇らしげに答えた。


「あおいかみのお姉さん、腕に「もんしょう」! かっこいいからすぐわかった!」


 聖騎士は必ず体のどこかに証の刺青を彫る。それはリュシアナ領土内に住まうものなら誰もが知っている事だ。

 リリーは二の腕の目立つ位置にそれを彫っているので、誰が見ても『聖騎士』だと解る。ローブを払って歩く時に、目についたのだろう。


「へえ、綺麗だ。有難う。リリーほら、俺が持っていても仕方ないし」


 差し出された花を無感情に見つめていたリリーだが、仕方なく少女の手からそれを受け取った。

 それを合図にするかのように、家から次々と村人が飛び出しリリーに貢ぎ物を差し出し始めた。花に服に酒にと、無遠慮に押し付けられる。


「こっ、この村では聖騎士は崇拝対象にあるみたいだな」


 たじろぎながら、バルドが言う。


「田舎に行くほど神に対する信仰心が強いってね。でもこれはちょっと……」


 肉や魚を押し付けられながら、アミーが苦笑いを浮かべる。

 嫌悪感を示したリリーは、ついに人波を掻き分けた。


「ちょ、ま、待って!」


 逃げるようにマティスも後を追う。


「騎士様ぁ」


「ああ聖騎士様、貴女は神の刄だ」


「今度こそあのおぞましい悪魔共を…………」


 わさわさ群れる村人もそれに続き、村の大きな通りは一時異様な光景になった。

 だが、これが聖騎士の正しい崇められ方であるという。聖騎士であるが故に、無条件で期待を背負わされるのだ。

 縋り付く村人の手を振り払い、一行は逃げるように宿屋へと滑りこんだ。


 辺境の町にしては洒落たその宿屋は、門の前に白い百合の花が植えてある。暖かい季節に咲くはずのその花は、この冷えた空気の中でも生き生きとしてた。

 花を見ることはなく、四人は急いで宿屋に逃げ込むと、後ろ手に扉を閉めた。

 全員が同時にため息を吐く。マティスはクスリと笑ったが、反してリリーは眉を潜めた。

 その様子を見ていた宿屋の太った主人が、その巨体を揺らしながら鍵を差し出した。


「囲まれたのかい騎士様。年寄連中は聖騎士様を神様の使いだと本気で信じてるから気をつけないとな」


 ぐわはははと、宿の主人は豪快に笑う。笑うと腹の脂肪がたぷりと揺れる。


「馬を預けて……とりあえず部屋にあがりましょう」


 アミーに急かされ、宿の二階へと足を進めた。ぎしぎしと古い音を鳴らす階段だが、木造ならではの情緒がある。

 蜘蛛の巣が遠くに見えるのも、また愛嬌だ。

 だが四人は、部屋の前で立ち尽くしていた。

 男が二人に女が二人に対し、番号の書かれた鍵はたった一つ。


「何これ、バルドたちと一緒? きっついわね」


 アミーが鍵を差し込むと、部屋の中には二段ベッドが二つ置かれていた。辺境の村ならではの、まるで個人宅のような装飾にどこか安心感を覚える。部屋の中は割りと広く、美しい花が飾られていた。花に関してはおそらく、あの主人の趣味ではないだろう。


「内装はいいけど部屋が一緒なんて。リリーちゃんも嫌よね?」


 そういえばと、リリーは下の階にある食事処がやけに賑やかだったのを思い出していた。

 この時期に色々な集団が北へ向かうのは、分かりきっていた筈だったのに。


「神様の使いとして崇められてくっかあ? そしたら部屋くらい用意してくれるんじゃねえか」


 とりあえ早く座りたいといったように、バルドはソファーへと進む。


「あ、えっとその、部屋が余ってないか聞いてくるよ」


 階下に戻ろうとするマティスだったが、それをリリーが止めた。


「別に問題は無い」


 リリーはアミーの手から鍵を取り上げると、さっさと中へ入っていった。

 鍵を分かりやすい棚の上に置き、自分の荷物を壁際に放り投げた。


「問題ないって……」


 リリーは長旅にしては少ない荷物から、何か小物入れのようなものを取り出すと、そのままきびすを返し部屋のドアに向かった。


「どこへ?」


「化粧室」


「あっ」


 気まずそうに言葉を濁らせるマティスに、振り向きもせずリリーは部屋を出た。

 マティスは何かしら不謹慎なことを考えていた先程の自分に我慢が出来ず、ベッドにそのまま飛び込んだ。バルドとアミ―が、その情けない頭を優しく撫でさすった。

 部屋を出たリリーは、化粧室に入らずに何故か外へと向かった。

 外は、少し肌寒い。宿の軒下に白い花の芳香が、冷たさと重なって空をたゆたう。

 リリーは宿の入り口に敷かれた石畳の上に座りこんだ。凍えるような感覚をローブで凌ぎながら、リリーは気持ちを必死に抑えていた。

 聖王国を発ってからの道中、至って冷静だったリリーだが、今になって悪魔への限りない憎悪が行き場をなくすほど蠢きはじめた。

 明日中には奴らの居城を目にする。いざ悪魔を目の前にしたなら、これは偵察任務だということを忘れてしまいそうだ。


「おーい、だいじょうぶ?」


 背後の扉から顔を出したのはアミーだった。

 白い息を吐きながら、リリーを気遣う。


「平気。ちょっと外の空気を吸いたかっただけ」


「そっか。でも寒いでしょ」


「別に……」


 アミーはリリーの傍に立つと、空気に浸るように深呼吸をしてみせた。


「――あたしさあ、この任務に志願したんだよね」


「え?」


「そしたらすんなり通っちゃってさ。一応、リュシアナで聖騎士登録してるし、そこそこ仕事もしてたから優遇されてね」


「なんでわざわざ……」


 悪魔の地への任務は、聖騎士であろうと嫌うものしかいない。

 するとアミーは、リリーと視線の高さを合わせるようにしてしゃがみこんだ。


「内緒にしてくれる?」


「何を……?」


「内緒にするっていうなら話してあげる」


「自分から言い出しといてどういうこと」


「あはは、怒らないでよリリーちゃん。まあでも、あんたには話しておきたいんだ」


 一人で勝手に喋りだそうとするアミーに、リリーは興味なさそうな態度を見せたが、彼女はそれを気にしなかった。

 かじかむ手を温めながら、嬉々として語り始めた。


「私、セイレに助けてもらったことがあるんだよね」


「姉さんに?」


「そ。若かったころね。私の住んでた村に悪魔が出たーっつってね。リュシアナの聖騎士がたくさん討伐に来たんだよ。……そのまま村一つ全滅しちゃってさ。かなり大きな事件になったんだよ」


「ゴルゴファの村……」


「よく知ってるね! お姉ちゃんの任務は全部覚えてるの?」


 ゴルゴファの名前をセイレからよく聞いていたリリーは、すぐに思い出すことが出来た。

 悪魔と、それが従える獣による被害を抑える為の大きな討伐任務の話は、セイレから一番最後に聞いた話だった。


「私さ、昔は足も遅くって。逃げ遅れて馬小屋に隠れてたの。したらさ、セイレの大きい剣がバーンって! 小屋の上半分薙ぎ払っていってねー。そこで私を見つけて何て言ったと思う?」


 “泣くなよ! 怖がるなよ! さあ走れ!!”


 姉の顔を容易に想像して、リリーは口元が緩みかけた。


「そこからはもう必死。セイレの後を追いかけて、息が止まるんじゃないかってくらい走ったよ」


 焼け落ちる村の家、どこからか聞こえる慟哭。終わらない剣の衝撃音に耳が唸るのを我慢しながら、少女は英雄の背中を追いかけた。


「結局村はだめになったし、一人になっちゃったけど……。私はセイレのおかげで助かった。あの人はそうやって、どんなやつでも救ってきたんだよ。だからってわけじゃないけど、私もリリーちゃんに何か協力したくってね」


「……なんで」


「あなたがセイレの妹だって聞いた時、昔の自分のこと思い出した」


 アミーが微笑むと、その目元には僅かに皺が入る。苦労の跡が見える瞳には、同情というにはあまりにも暖かすぎる感情が揺れていた。


「なんかあったら言いなよ。リリーちゃんみたいな子って、放っといたらすぐ無茶するんだから」


 まるで知った風な口を聞く。そう言いたげに見上げるリリーに、アミーは困り顔を見せた。


「早めに戻っておいでよ」


 言いながら、アミーは宿の中へと入っていった。

 彼女の言葉が妙に胸に引っかかり、リリーは拳を握り締める。

 だが、アミーがかけてくれた言葉は、まるであの時のセイレに言われたように、リリーの胸に優しく残っていた。


「変なの」


 このままでは眠れそうにない。

 そう思ったリリーは、熱くなる腕を押さえながら、まだ人がざわめく酒場へと足を運んだ。



 * * *



 酒場には大勢の客が犇めいていた。

 酔った男たちの笑い声、時折喧嘩をするような声も混じっている。

 そんな中、毛色の珍しいリリーは客の注目を浴びたが、彼女は気にすることもなくさっさとカウンターに座った。


「いらっしゃい。なんにする?」


「ティバで」


「あいよ」


 バーテンダーから差し出された飲み物を少し口にする。客達はやはりちらちらとリリーを気にはしていたが、腕の紋章のおかげで話し掛けてくる者はいなかった。

 よく見ると、客は村人たちだけではないようだ。

 腰に大剣を携えた者。見るからに武骨な男や、薄気味悪いローブを深く被った魔導師のような者。

 その光景に馴染むようにと、心を手放す。だんだんと気持ちが落ち着いてきたので、ほうっと息を吐いた。

 残りのティバを飲み干すと、空になったグラスの底が見える。もう一杯頼もうかと顔を上げた時に、ふと違和感に気づく。

 いつのまにか、真横に男が座っていた。

 その人物は、いかにもな黒いローブを頭から被り体を隠している。だが相当鍛えられているだろう体は山のように大きく、リリーが子供のように小さく見えてしまう。

 グラスを持つ手は、骨ばって大きく、獣の爪のように荒々しい。

 グラスを口につける度にローブから覗く横顔は、その怪しい風貌に反してどこか神秘的に見えた。


「──珍しいか?」


 その隣の人物の言葉にハッとして、リリーは我に返った。

 少し口端をあげて笑うその人物は、こちらを向かずただ酒を飲み続ける。


「あ、……いや、その」


 口をつぐむリリーを見て、その者はまた少し笑った。なんだか馬鹿にされているようでリリーは少し不機嫌になった。

 またクスクスと笑う人物に苛立ちを感じたリリーは、カウンターに乱暴に金を置くと無言で席を立った。


「……お勘定」


 そう吐き捨てて銀貨を置き、リリーは早足に酒場から出ていってしまった。

 ざわめく酒場を出て、町の中央にある広場に向かう。そこでリリーは立ち止まり振り返った。


「ついてこないで」


 鋭く睨んでみせる。

 すると、つかず離れずの距離をついてきていた先程の人物は、同じく立ち止まりまた不敵な笑みを見せた。とはいっても、ローブを被っている所為で口元しか見えないのだが。


「お前、下位の聖騎士か」


 リリーはとっさに二の腕のその証を、ローブの上から抑えた。

 聖騎士の紋章は複雑な魔法図形となっている。一般人がそれを見ても、階級まで分かるわけがない。

 王国の者だろうか。それにしては怪しい。


「恐いか?」


 男はまたリリーに問い掛けてきた。


「何を言っているの?」


「言い方を変えよう。悪魔が恐ろしいか? 若い聖騎士」


 夜風が吹き、青灰色の髪が揺れる。

 リリーは、眉を潜めた。

 この見ず知らずの人物が何故こんなことを聞いてくるのか分からなかったからだ。


「悪魔を恐がっていたなら聖騎士にはなれない」


 少し怒り混じりの言葉を吐くと、リリーは背を向けた。それと同時に、またその人物は煽るように言った。


「いいや、お前は恐れている」


「は?」


「恐いのだろう。明日、何もかもが始まり終わるのだから」


 ローブを被った人物は腕を組み、また笑う。大きな体格と相まって、その声は低く、魅惑的だった。


「……何が言いたいの」


「分かっているはずだ」


「何を!」


 大きく声を荒げると、その人物は嘲笑した。

 ひとしきり笑うとリリーとの距離を縮め、顔を歪める彼女をまるで赤子か何かを見るように見下ろした。

 紅い瞳だ。花でも、炎でもない。もっと暗い底から湧き出るような、紅の瞳がリリーを捉えた。

 男が纏う厚みのあるローブが、風のせいで翼のようにはためく。手を伸ばす隙間もないほどに、男の体がすぐそこにあった。

 詰まる。距離が、息が、詰まってしまう。


「お前の恐れはいずれ、お前を苦しめる枷となる。この先に道を見出したいのならば、恐れを捨てることだリリー」


「えっ……」


「あっ! ほら! あそこにいる!!」


 その言葉を遮るように、遠くから二人を見つけたマティスがリリーの名を呼んだ。声のする方を見ると、マティスが息をきらして走ってくる。


「マティス」


「いつまで経っても帰らないから、どうしたのかと思ったんだよ」


 マティスは心配そうにリリーの元に歩み寄った。


「心配したんだよ」


「……ごめん。少し、外の空気を吸いたくて」


 謝罪の言葉をのべるも、リリーの顔はいつも通り無表情だった。

 そして再びその人物の方に目をやった。

 が、そこには何の影もなく、夜風が虚しく吹くばかりだった。


「……消えた」


「は?」


「いや、今そこに」


 そこまで言うと、リリーは頭の整理がつかず、説明するのをやめた。

 マティスには、今の人物の姿が見えていなかったのか。


「どうかした?」


 マティスはリリーの見つめる方を同じように見てみる。だが、やはり何もない。


「なんでもない。戻りましょう」


「そうだな、きっと疲れてるんだよ。もうあまりウロウロしないでくれ」


 リリーは自分の頭を疑った。だが、あれは幻覚という言葉で片付けるにはやけにリアルだった。

 ヴァイスを前にして緊張しているのか、とも考えたが、どうも腑に落ちない。

 耳に残るのは、「恐れ」という言葉。

 リリーは色々な仮説をたててはみたものの、あの人物の謎は解けないまま、宿についてしまった。



 * * *



 宿に戻ると、アミーが一番にリリーに駆け寄ってきた。続いてバルトも、手に革靴を持ってかまえている。二人とも、もう少ししたら探しに行こうとしていたのだという。

 少しいなかったくらいでここまで心配をされて、リリーは戸惑うことしか出来なかった。安堵したり、冗談を言ったり。何故こんなにも、自分に対して素直に接してくれるのかが分からなかった。


「お風呂に入ってきたら」


 アミーの提案を半分に、リリーは腕をさすった。

 何故あの男は、自分の名前を知っていたのだろうか。

 名前を呼ばれた瞬間に、縛られたように体が強張ってしまった。

 体はすっかり冷え込んでいたが、ひとつだけ、熱を持って忘れられない言葉があった。


 “この先に道を見出したいのならば、恐れを捨てることだリリー”


 ――その日、リリーは夢を見た。

 姉妹が、花畑を走り回る夢。

 なんとも幸せそうで、なんとも生暖かい夢だ。


 もう、夢でしか会えないのかな。


 頬を伝う涙が、枕に染み込む。早く乾けと、手を擦りつけた。



 * * *



 眩しい朝の陽が部屋全体を包み込む。静かな朝の風景を裂くように、リリーは窓を開け放つ。準備を進める仲間たちにも、どこか緊張の色が見えた。


「……行かなきゃ」


 アルヘナ山脈に入山するには通らなければいけない場所があり、そこは「霧の谷」と呼ばれる峡谷だ。

 枯れた木々を孕むおどろおどろしい谷だが、空気は澄んでいる。街道は比較的整備されており、視界の悪ささえ除けば「歩くだけなら」問題はない。

 そんな霧深い谷を、一行は注意深く進む。辺りはしんとしているも、時折聞こえる獣の鳴き声がいやに気味が悪かった。


「……あのさ」


 マティスがリリーに話し掛けると、彼女は前を向いたまま返事をした。


「昨日は、どこに行ってたんですか?」


「酒場」


「さっ…………!?」


「そんなに驚くこと?」


「夜の酒場なんて行ったのか?!」


 リリーは、マティスの言葉の意味が分からず眉を潜めた。少し振り返り彼の顔を見ると、唖然とした様子でこちらを見ている。


「女の子が一人で行くところじゃないよ!?」


「女の子?」


 リリーはぴたりと立ち止まりマティスに向き直った。

 明らかに嫌悪に満ちた瞳で、呟いてみせた。


「マティス、私は貴方の周りにいるような……そう、ドレスを着て茶会を楽しむような女たちとは違う。そういう扱いは必要ない。酒場なんて十三の頃には出入りしていたし、別に危険だと思ったことも無い」


 腰に手を当て、リリーは胸をはった。

 確かに、娘という言葉は今の彼女には似合わない。

 リリーからは化粧っ気も色気も伺えない。あるのは聖騎士の風格、そして殺伐とした雰囲気だけ。


「だけど貴方は」


 マティスが何かを言いかけると、リリーは首を振った。


「ご心配どうも、貴方の思ってるようなことは起こらなかったから安心して」


 ふいっと前を向くと、リリーはまた歩きだした。さっきよりも早足に。

 それを見てマティスは、彼女は何か無理をしているんじゃないだろうかと思ったが、それもまた「くだらない」と言われそうな考えだったので、すぐに頭から消した。

 二人の様子を見守っていたバルドとアミーは、互いに顔を見合わせて肩を竦めていた。


「しっかし冷えるなあ」


 リリーとマティスの後ろを進むバルドが、辺りを見回しながら囁いた。

 馬も、どことなく怯えているように見える。


「それだけヴァイスに近いってことよ。凍り付いてんでしょ。あそこ」


 アミーが口元を隠しながら言うと、バルドは声を震わせた。


「霧が深い上に寒いって最悪じゃねえか。リリーちゃんは寒くないかい?」


 にっとリリーに笑いかける。リリーは、一瞥して視線を外した。


「あんまり若い女の子に話しかけてると娘さんが怒るわよー」


 アミーがそう言うと、バルドはぐっと唸る。


「だよなあ……ただでさえここに来る前に怒られたっつうのに」


 そんなやり取りを余所に、リリーはふとその歩みを止め辺りを見回した。だが、霧により視界は悪く、影のような木々がうっすら見えるばかり。


「もう谷を抜けてもいいはずだけど」


 リリーの独り言に気付いたマティスが、彼女の側に歩み寄る。


「これは……」


 その異変に気付いたマティスが、声を上げる。


「リリー!! 後ろを見てくれ!」


 そう言われて後ろを向いたリリーは、我が目を疑った。今歩いてきたはずの道に、枯れた木たちが虫か何かのように集合し生い茂り、道を閉ざしているのだ。

 そればかりか、こちらに気付いた木々は、その尖った枝先をゆっくりと伸ばし始めた。

 そして、探すような仕草をしながら、バルドの足ににゅるりと巻きついたのだ。

 驚いた馬たちが前脚を跳ね上げる。バルドはすぐさま飛び降りながら枝を斬り払った。だが、それは斬られたそばから再生し、枝をうねらせながらさらに深く生い茂っていった。


「な、なんだよこれえ!」


 余りの事にバルドは持っていた剣をおろし、足を振りながら後ずさる。

 マティスも剣を抜き、警戒を強める。


「これも悪魔?」


「さあ、植物型のは見たことないけど」


 リリーはマティスと背中合わせに立ち、腰の剣に手をやった。


「警戒して」


 霧深い谷の木々達は、一行を嘲笑うかのように急速に生い茂り始めた。


「まさか木に襲われるなんて思わなかったな……」


 剣を構えたままのマティスが冗談混じりに笑う。リリーは目だけをマティスに向けこう言った。


「悪魔に見た目は関係ないのね」


 鋭角化した木の枝はその切っ先をこちらに向け始めた。機を伺っているのか、一行の周囲をぐるぐると回り始める。


「一気に来るぞ」


 刹那、細く尖った枝のひとつが隼のような速さで襲い掛かった。

 バルドの構えた剣を掻い潜り、木々の刄はまっすぐ彼に狙いをつける。


「バルド!」


 アミーが剣を後ろ手に引き、枝に斬りつけた。すんでのところでバルドは助かったが、今度は別の方向から枝が迫ってきた。

 地面を這うように迫るそれは、地中から一気に姿を現す。大きく広げた手のように変化すると、マティスに覆いかぶさる。

 よろけながら剣を構えるマティスだったが、その刃を使うことはなかった。

 間に割って入ったリリーが、体をひねりながら木々を切り裂いたのだ。木は想像するそれではなく、まるで肉のような感触があった。

 リリーはアミーの足元にある木々にも剣を突き立てると、木々の中心に向かって走り出した。

 他よりも生い茂り、何かを守るようにうねる悪意の集合体。今まで戦ってきた悪魔と、同じ場所に弱点があるはずだ。

 リリーは一気に走りだした。枝の切っ先を掻い潜り、枝が収束している場所を狙う。

 その中心に剣を思い切り突き刺すと、そこからどす黒い色をした煙のようなものが洩れ始めた。

 途端に、木がまるで獣のようなうめき声をあげ、生き物の皮が裂けるような音をたてた。

 リリーが無言でさらに剣を深く根に突き刺すと、木はのうめきはつんざくような金切り声に変わる。


「なんて声」


 そしてとどめといわんばかりに力を込めると、辺り一面に広がり一行を襲っていた木はついに黒い煙に包まれ、焼け焦げたようになって崩れ落ちた。

 マティスはというと、残骸を避けながらこちらに帰ってくるリリーの姿を、ただ呆然と見るばかりだった。

 微かに笑みを浮かべ、崩れゆく木々の中に佇むその姿は――。


「リ……」


 ふと視線に気付いたリリーがこちらを向き、顔にかかってきたその青灰色の髪をふわりと掻き上げると、隠れていた美しい緑の瞳がマティスを写す。


「誰だよ“リリーちゃん”なんて言ったの」


 怖ぇ、と付け足し、バルドが息を吐く。


「聖騎士ってなあ、あの若さでもあんなんかよ。なあアミー」


 傍らで、無言のままその様子を見ていたアミーは、静かに首を振った。


「……鍛えないと無理」


 リリーはというと、何気ない顔でさっさと剣をしまい、辺りにもう危険はないかと見回している。

 どうやってあの木の急所を見分けたのか。あの判断力は一体。

 田舎街でのんびりと最低限の討伐しか行っていなかった騎士にしては明らかに場慣れしている。

 そう、あれは上位騎士のそれに似ている。

 しかし、歴戦の勇士のような強さではない。彼女の強さには、必要に迫られ、仕方なく覚えているのだというような歪なものだった。

 谷の霧が段々薄くなり、進むべき道が見えてきても、マティスは目に焼き付いた鮮烈なリリーの姿を忘れることは出来なかった。



 * * *



 街道を歩く足音が、空しく響く。それまで軽い会話を交わそうとしていたバルドも、目下黙り続けていた。

 あの後、谷を抜けるのは容易であった。あの木の化け物はそれ以降出ることはなく、街道は静寂に包まれていた。

 それでも、いつどこから襲われるともしれない恐怖がつきまとっていたが、なんとか無事に谷を抜けることが出来た。

 ずっと先頭を歩いているリリーは、三人を顧みることなく歩いているが、背中からは緊張が伝わってきた。

 彼女を心配そうに見つめていたアミーは、いつでも抜けるようにと、腰の剣を傾けた。

 そうしてしばらくすると、遠目に悠然とそびえ立つ白い山脈が見えてきた。


「あれは……」


 白く銀色に輝く山脈を見た瞬間、リリーは微かに笑みを浮かべた。


「あれを越えると、悪魔の地ね」


「ということは、あれが国境とも言うべき山脈アルヘナか」


 マティスが、手で瞳に影を作り、その山脈を見上げた。

 悪魔と人間の世界を隔てる、絶対境界線アルヘナ山脈。

 堂々とそびえるそれは、高さはそれほどでもないが、横にはどこまでも続きそうなほど長い。

 警戒を緩めれば、それは死に繋がる。山を見上げていた一行は、互いの顔を見合わせて頷いた。

 幸いにも空は晴れていた。だが、気温の上昇で雪崩が起こりやしないかとリリーは心配した。

 山越えとなると、ここで馬は置いていかなければならない。バルドが酷く寂しそうだったが、仕方のないことだった。

 訓練された馬は、放たれると同時にリュシアナの方向に向かって真っ直ぐ走り始めた。寂しそうに見送るバルドを促し、四人は国境、アルヘナ山脈へと踏み入った。

 外の世界をあまり知らないマティスにとっては、まさにそこは未知の世界だった。山に入ると、銀色の雪を被った木々が陽の光で輝いている。時折顔をのぞかせる雪兎に、心が和む。

 樹氷を見たことがなかったのか、アミーがしきりに周囲を見つめて微笑んでいる。余裕のある人だな、とリリーは思っていた。

 山はまるで二人を拒むかのように、厳しさを湛えている。道は悪く、少し間違えば足を踏み外して落下してしまような悪所だ。

 時折遠くで雪崩の起きる音がした。マティスは立ち止まりそれを気にしたが、リリーの「早く」という声に急いでまた歩みだした。


 頂上付近まで来ると、山も徐々に優しさを見せはじめる。相変わらず厳しい寒さではあったが、近くなった陽の光が、白亜の光景を銀に光らせていた。

 登りきった者が見るその光景は、アーリアの全てを手に入れたかのような気分にさせてくれる、なんとも素晴らしい物だった。大鷲が空を舞い、歌を歌う。その蒼く突き抜ける空に軌跡を残しながら。 

 なんと、自分は小さい生き物だろうか。

 そう考えてしまうほどに、そこから見える景色は広く、雄大であった。


「すごい」


 感嘆の声を漏らすマティスだが、その感動を噛み締めたのも束の間だった。

 いくら大きくとも、いくら美しくとも、そこは彼の地『ヴァイス』。リュシアナ側とは、明らかに空気が違っていた。

 ヴァイスの大地はひどく鬱蒼としていた。枯れた木々に、凍りついた湖面。さっきまで晴れていた空が一瞬の内に一転し、黒雲が全てを覆う。その雲が陽の光を遮り、そこに植物が芽吹くことを許してはいなかった。


「すんなり来れるなんて」


 その光景を前にしてもリリーは冷静だった。ローブ軽く羽織り直すと、横で愕然としているマティスを見てため息を吐いた。


「しっかりして。まずは地形と位置を確認しないと」


 軽く叱咤を混ぜた言葉をかけ、リリーは鞄からまだ真白の地図を取り出した。


「二手に分かれようか。西周りと、東周りに、双眼鏡で地形の確認。魔導師がいれば、目測だってもっと楽だろうけど」


 マティスの提案に、リリーは頷く。

 軽く見渡しただけなら、以前書いたと見られる地図と相違はなさそうに見えるが、進軍の妨げになるものがあれば大問題だ。


「じゃああたしとバルドは東周り。マティスさんとリリーちゃんは西から行く?」


 時間を惜しむように、アミーが提案を出す。


「まあ無難だろうな。悪魔慣れしてる聖騎士さんを固めるよりかは安全だ」


 ばつの悪そうな顔で、バルドが言う。アミーは優しくバルドの肩を軽く叩いた。


「聖騎士っても、英雄聖騎士以外の待遇なんて似たりよったりよ。酷いとこじゃ差別だってあるし」


 小さく付け足した最後の言葉に、バルドが眉を寄せた。


「差別?」


「あっ、う、ううん。こっちの話。まあでも、リリーちゃんのあの強さなら、いずれ上位騎士くらいになれそうよね」


「なる気はない。ところで、それでいいなら出発しましょう」


 冷静に指示するリリーを見て、マティスは呆れたように問い掛けた。


「リリーは恐いものとかないのかい?」


「恐いものくらいある」


「参考までに教えてくれるか?」


「……肌荒れとか。なんか治らないし」


 思ってもみなかった答えに、マティスは吹き出しそうになるのをぐっと抑えた。

 二手に分かれた一行は、寒波が支配するヴァイスの地を歩きだした。

 落ち合う時刻を決め、何かあった時はとにかく己の身を守る為、そして事の事態をリュシアナに知らせる為に最善を尽くすこと。それを強く約束して別れた。

 リリーは、地図を見つめ直しアルヘナの位置を記入し始めた。支給されたインクの出が悪いらしく、時折ぶんぶんと乱暴に振るっている。


「寒いからインクが出ないみたいだね」


「そうね」


「暖めてみようか。手の平でこう……」


「それよりちゃんと周りを見ていて」


 彼女との会話は先ほどからこのような受け答えが主で、何か怒られているような気分になってしまう。

 それでもなんとか会話の糸口がないものかと努力するマティスだったが、リリーは相変わらずの態度であった。

 マティスはそのやり取りの中で気付いたのだが、どうやら彼女自身が「会話」というものに興味がないらしい。

 セイレを探して、十四年も孤独に過ごしてきたのなら、普通の子女が通うような学校には、満足に行けていないはずだ。剣術だって、この年で戦えるようになるまでどれだけ鍛錬を重ねてきたのだろか。

 それでも、その悲しみを小さな胸の内に押し込めているのだろうかと考えると、マティスは不思議な気持ちになった。

 凍り付いた大地を煽るように、冷たい風が吹き荒ぶ。二人はあたりを警戒しながらも、順調に地形を描き取っていった。

 大平原の中、リリーは前方に大河を見つけた。

 平原を渡る巨大な蛇のような河には、かつて人が通ったであろう橋の残骸も見える。


「運河だ……」


 遠くから見るとそうでもなかったが、それは近寄るととても大きな運河だった。もちろん、この北の地では凍り付いいる。


「川底まで凍ってるわね。見て」


 リリーがそれに手を触れながらマティスに川を見るよう促した。


「これは!?」


 川の中には、まさに今にも泳ぎだしそうな魚たち。

 そして、水精の姿があった。半人半魚の美しい娘の姿をしたそれは、苦悶の表情を浮かべている。まるで何かに助けを求めるように手を伸ばしたまま。


「何故、水精霊が?」


 マティスはリリーに答えを求めた。リリーは氷中のそれらを見つめたまま思考を重ねたが、その答えには至らなかった。


「精霊ってこんなはっきり見えるものなのね」


 一言そうこぼすと、リリーは凍り付いた川に耳を当ててみた。

 氷をつたい、何かが聞こえる。

 それは、まぎれもない生命の鼓動。血流の音だった。


「生きている……?」


 リリーは耳を離し、勢い良く立ち上がりマティスの方を向いた。


「マティス! この中の魚や水精霊達は生きている!」


 先ほどまでの無表情はどこへいったのか。まるで子供のように嬉々としてこちらに振り返ったリリーに、マティスは目を瞠った。


「ということは、この気候は故意に引き起こされている。魔導術には詳しくないけど、氷のような、なにか……閉じこめてしまうような、魔導術……」


「詳しいねリリー」


「友達に魔導師がいるの。よく、気候や事象と魔導術の関連性について勝手に語るから嫌でも覚えた。でもこれは凄いことよマティス。この天候をどうにかできれば兵を集めやすい」


 輝いていた表情が、ゆっくりと憎悪に染まる。凍った水面を掴むようにして指を突きたてた。


「姉さんを殺した悪魔を討つことだって出来る……!」


「リリー……」


 呼び戻すように、肩に触れる。ゆっくりと元の表情を取り戻したリリーは、軽く頭を振った。


「そろそろ、次へ行きましょう」


 細い体が、ゆっくりと立ち上がる。頼りなく見えるその背中に、今は何を背負っているのか、まるで象られているかのように感じ取る事が出来る。

 マティスは己の手のひらを見つめ、ひそかな心配を持ちながらも、彼女の後を歩き始めた。



   * * *



「あまり深く入り込むのはやめましょうか」


 妙に暗くなり始めた空を心配し、アミーが言った。

 傍らで地図を記していたバルドも、顎先をペンでいじりながら頷く。


「まあなあ~こんな状況じゃこっちの体力が持たねえし。もうちょっと細かく分かれば、先々で役に立つと思うんだが」


「偵察はこれ一回で終わるわけじゃないし、それにリリーちゃんたちのことも心配だわ。ついているのはあのおぼっちゃんだしねぇ」


「マティスさんもああ見えて真面目なおぼっちゃんだよ。軍部じゃ言いたい放題言われてるけどな……」


「軍部、か。聖騎士には関係の無い話ね」


 どこか自虐的に言うアミーに、バルドが驚いたように返す。


「あ、何言ってんだ。聖騎士と軍部が連携して作戦を実行するらしいぞ」


「……そんなこと聞いてないわよ?」


「まあお前ら聖騎士に向けての正式な通知はまだみたいだけど、前線部隊のほとんどを聖騎士で固めるって話だぞ」


「それって――」


 瞬間、アミーは背後に寒気を感じた。こちらを絡み取るような視線と、低く胃の底に響く獣の声。今まで、何度も経験したことがある「あの」気配だった。

 剣を抜くと同時に、バルドを押し退けて振り返る。体をひねる直前、黒い吐息が首元をくすぐられた。


「アミー!」


 鋼の弾ける音が、大平原に響き渡った。



   * * *



 慟哭を遠くに聞き、リリーたちの間に緊張が走った。聞こえる筈のない距離、だが確かに耳には響いた。


「今の……」


 マティスが、平原の彼方を見る。いつの間にか雷雲を孕んだ空の向こうから、雨が迫っている。


「遭遇したようね。撤退しましょう」


「撤退って……助けにいかないと!」


 リリーの正面に回りこみ、道を阻む。


「何を言っているの。これは国の今後を決める戦いに備えた偵察任務。全員がここで死ねば、悪魔どもに私たちの計画を悟られる。幸い、私たちはアルヘナに近い位置にいる。このまますぐに山を抜けてリュシアナに――」


「リリー! アミーは君と同じ聖騎士で、バルドは俺と同じリュシアナに仕える者だ!」


「……それがどうしたの」


「それがって……」


「私は姉さんを探す為に聖騎士になった。でももう姉さんはいない! 私が今やりたいことは、悪魔を殺すことだけだ!!」


「そんな自分勝手な!」


「姉さんを一人で往かせたお前たちに言われたくない!!」


 それは、彼女の心から、叫ぶように放たれた悲しい意志だった。

 もう何も無いのだ。残っていないのだと、リリーは己の内に渦巻く絶望に苛まれていた。

 マティスはそこで初めて、彼女と自分の間にある、埋めようの無い溝に気付くこととなった。誰に期待されることのない、名前に押しつぶされそうな日々を送っている、同じ人間だと思っていた。

 だが、彼女が抱えている孤独は、彼の想像を遥かに超えていた。明日をも知れない日々がどんなものか、貴族である彼には分からない。肉親が突然いなくなる喪失感が、彼には分からない。

 そんな、暗闇すらまだ温いと感じるような辛い日々の中で、一体彼女はどれだけの悪魔と戦ってきたのだろうか。


 あの美しい翡翠は、何度涙に濡れたのだろうか。


 魅了されていることに気付かず、マティスはリリーに激昂した。腕を掴み、拙い強い言葉を吐く。


「そんなんじゃ駄目だリリー! アストレイア様のことはそう思うのは当然だけど、でも、そんな風に生きていくのはよくない! リュシアナだって、陛下だってちゃんと動いてくれる!」


「知ったかぶりをするな!」


「なんでそう考えるんだよ! そんなんじゃ……」


「──待って」


 リリーがマティスの口を遮る。すらりと線をなぞるように瞳を動かす。

 背後に、気配が立ち昇った。


「うっせえなあ、おい。何喚いてんだよ人の土地で」


 低く、けだるげな声が聞こえた。言い合っていた二人はすぐさま口を閉じ、声のする方に振り返る。

 だがそこには何もなく、静かな平原が広がるばかりだった。

 すると、先ほどまでそこにいた筈のマティスの姿が消えた。一瞬前までは、正面にいた筈のマティスが、少し目を離した瞬間にいなくなってしまった。


「マティス!」


 それを最後に、リリーは声が出なくなった。何者かがリリーの背後に立ち、その首に冷たい指を這わせてきたのだ。


「お前ら、聖騎士だな」


 背後の存在はにやっと笑い、肩越しに顔を突き出して、リリーを見つめた。

 その男は、明るい金の髪を顎下まで延ばし、耳には幾つもピアスをつけていた。顔は人間よりも美しく整い、鋭い灰色の瞳は鈍く光っている。薄青の衣服の前ははだけており、鍛えられた胸板がのぞいていた。


「聞きたいことがある。答えろよ」


 気付けば、傍らでマティスが別の男に羽交い絞めになっていた。剣を地面に落とした上で、そつなく口を塞いでいる男が、にやにやしながらこちらを見ている。もがくマティスを見ながら、リリーはすぐに悟った。


 今自分達がいる場所は、『ヴァイス』。

 自分達以外にここにいるのは、悪魔しかいない。


「人型の、悪魔……!」


 リリーが今まで見た悪魔のほとんどは、まるで人間が突然変異したような異形の姿をしたものばかりだった。どれも知恵があり、力が強く厄介なものばかり。

 だが、憎い悪魔が自分と似たような姿を持っているというだけで、リリーの感情は一気に燃え上がった。

 腰に携えていた剣を、背後の男に向かって振り向きざまに抜いた。しかし、それは彼を斬ることはなかった。


「しょうもねえ」


 彼は剣を素手で掴んでいる。剣を振り切ろうとするがまったく動かない。

 落ち着け。冷静さを事欠くな。

 リリーは必死に自分に言い聞かせる。なんとか剣を男の手から離そうとするが、押しても引いても動く気配はなかった。

 それどころか、彼は剣を持ったままリリーに近づいてきた。


「人間が何をしにきたんだ?」


 男は、リリーの白い頬を指で撫でる。


「おいおい、俺もそっちがいいんだが」


 マティスを抑えている男が、目を細めながら言う。


「先にこいつらに気付いたのは俺だろ。文句言うなよ」


 リリーの二の腕を掴み上げ、金髪の男は嘲笑した。


「やっぱ『聖騎士』か。成る程な、俺らを討伐しにきたわけか」


 金髪の男は、リリーの顎をくいと持ち上げまじまじとリリーを観察した。

 そして何か満足げに鼻を鳴らすと、マティスを抑えている男に向かって手をひらひらと振った。


「おい、てめーはその野郎を連れてけ」


「はあ? 独り占めかよ!」


「いや空気読めよ。いいから行け」


 二人の意志を無視した会話は進み、マティスを抑えていた男は仕方なさそうにマティスもろとも空間に泡のように溶けて消えた。


「マティス!!」


「他人の心配する余裕あんのかお前」


 そう言って男はリリーの剣をいとも簡単に取り上げ、両手首を片手で拘束した。


「泣かねえな。女は大概このあたりで命乞いしてくるんだけどな」


 リリーは押し黙ったまま答えなかった。

 だが、深緑の瞳は彼を捉え、その内の激しい怒りと憎しみをぶつける。

 男はそれを見て眉を潜めた。


「次から次へと沸いてきやがって」


 気に入らなねぇ目付きだと付け足し、リリーの両頬を押しつぶすように掴む。リリー以上に、憎悪と怒りに染まった瞳がそこにあった。

 リリーは悪魔が持っている自分の剣を見ながら、なんとかこの腕が自由にならないかと策を練っていた。

 だが、手首を掴む手はびくともしない。力を入れても、それ以上の力で握られる。悪魔だからとか、そういうことではなく。純粋に腕力の差で敵わないのだ。


 悔しい――。

 意気揚揚とヴァイスに来たがこのざまか。

 これでは自分を疎む議員達を喜ばせているだけだ。


 リリーの様子を見た男は、嫌がるリリーをわざと抱き寄せた。

 顔を近づけ、唇を重なりそうなほど近くにリリーをさらに引き寄せる。


「なんもできねえんだな人間ってのは」


「殺してやる……」


「あ?」


「殺してやる……絶対に殺してやる……姉さんを殺したお前らを、絶対に殺してやる!!」


「……姉さん?」


 その時だった。男の手が緩んだ一瞬の隙をつくように、リリーは体当たりをした。

 だが、自身が重心を崩してそのまま地面に倒れこんでしまった。

 益々不利な状況になってしまったリリーだが、悪魔に対する強い憎悪を弱らせることはなかった。上体を起こし、男に食ってかかる。

 だが、すぐに男が足をリリーの肩にかけ、あっさりと蹴り飛ばしてしまう。踏み潰すようにリリーの腹に足をかけた男は、瞳を歪ませた。


「誰それの仇だ、誰それの恨みだ、お前ら人間は本当に飽きねえよな」


「くっ……」


「守れなかったのは誰だよ。人のせいにしてんじゃねえよ」


 硬いブーツの底が、リリーの腹を嬲る。両手で払いのけようと足を掴むが、全く動く気配がない。

 そうしていると、男はリリーに対して更に強い力をかけた。空気と胃液が喉に戻るような感覚に襲われ、リリーはひどく咳き込む。

 苦しむリリーを目にした男は、楽しそうに笑ってみせた。


「そんなんで俺たちを殺すつもりだったのかよ。お前本当に聖騎士か?」


「っ……私は……」


 男の容赦ない力に、リリーは屈することしか出来なかった。悔しさで目の前が滲み、歯が砕けそうなほどに音を立てる。

 足を払いのけようと必死に縋り付く手のひらから、段々と力が奪われていくのが分かった。


「逆らってみろよ。聖騎士なんだろうが。お綺麗な神様とやらの使いなんだろ。俺たちを殺して当然っていうんなら、やってみろよ!!」


「――何をしているライザー」


 その時だった。凍てつく景色の中、やけに耳に響く声が聞こえた。低く、だがよく通るその声は、一瞬で男の動きを止めた。

 ライザーと呼ばれた男は、声がした方に振り返る。足の力は弱めていないが、どこか臆したような顔をしていた。

 そこに現われたのは、深くローブを被った長身の男だった。ライザーよりも遥かに背は高く、リリーの体全部を影で隠せてしまうほどだった。


「お前は……!」


 顔は見えずとも、その雰囲気と姿から、リリーは瞬時に彼を認識した。

 するとその人物は口端を上げ微笑んだ。


「来たんだな」


 ローブの影の中で吊り上る唇から、優しげな声がリリーにかけられた。


「なんだよ、こいつ知ってんのか」


 リリーを捕まえていた男は、ライザーというらしい。ライザーは急に現われたその人物に嫌悪感を示すと、続けて言った。


「この女、聖騎士だ」


 ライザーはリリーの二の腕をぐいと引っ張りその人物に見せた。

 この二人は、どうやら知り合いのようだ。それを悟ったリリーは、先ほどまで頭にかかっていた嫌な雲を掃うように瞼をぎゅっと閉じた。


「……幻覚ではなかったのね」


「当たり前だ。しかし、まさか本当にヴァイスに来るとはな」


 リリーは昨夜出会った人物が幻ではなかったことを認識したが、まさか悪魔だとは思ってもみなかった。

 悪魔が人間の村にいて、しかも酒を飲むなどありえないからだ。そんな温厚な種族ではない筈だ。


「お前ら知り合いか」


 ライザーは双方の顔を交互に見ながら問い掛けた。


「知り合いというわけではないがな。まあ……少し、昨夜な」


「ふざけるな! お前とは何もない!」


「ああその通りだ。何もない」


 その人物は、くすくすと笑いながら深くかぶっていたローブをゆっくりと脱いだ。

 現われたのは、深い緋色の瞳と、燃えるような紅い髪の青年。くっきりとした二重に、高い鼻。頬には、何か紋章のようなものが刻まれている。黒い軍服の下の体は逞しく、屈強な線が浮き出ている。

 近くに立つと、その背は大きく。首を思いきり上げてやっと顔の全てが見れるほど。

 彼は、まさに"男"そのものだった。


「俺はヒルシュフェルト。ヒルでいい」


「は……」


 リリーは、消え行くように言葉を失った。その血色にも似た瞳の色が、こちらを、リリーの心を瞬時に捉えて離さなかった。

 そんなリリーを見て、男もまた、静かに言葉を失ったようだった。血色の瞳に悲しみを讃え、じっとリリーを見る。

 リリーの中で、何かが踊り跳ねた。その挙動にリリー自身は気付かず、妙な気恥ずかしさと戸惑いに襲われたまま、動けなくなってしまった。

 ふと、ヒルはライザーに言った。


「なあライザー。その娘、俺に譲ってくれないか?」


「ああ!? いきなり来て何言ってんだ!!」


 噛みつくように言うライザーに、ヒルは微笑んで言った。


「まあそういきり立つな。俺が言いたいのは、いくら聖騎士とはいえ女を“やつあたり”でそんな風に扱うのはどうかと思ってな」


 ヒルはその瞳を鋭くし、ライザーに向ける。

 臆したように、ライザーはぐっと言葉を飲んだ。


「分かったか?」


「……お前ほんとそういうとこ……」


 折れたのはライザーだった。ヒルに向かってリリーの背中を乱暴に押す。

 リリーはよろけて、そのままヒルの胸にぶつかった。


「案外軽いな」


 ヒルはリリーを抱き留めると、自身よりも遥かに小さい彼女に向かって言った。ライザーは悔しそうに顔を歪めると、地面を軽く足で蹴った。


「ライザー、早く散れよ」


 ヒルは先程のライザーの口振りを真似すると、意地悪く、楽しそうに笑みを浮かべた。


「うっせえな! 言われなくても消えてやるよクソが!」


 ライザーは何かぶつぶつと呟く。すると、彼の目の前に小さな扉が出現した。それはまるで虹がかかるように自然に、そして薄ぼんやりとして現われた。

 彼が更に何か言うと、不思議な力がその扉を開き、彼を招き入れた。いつの間にか、ちゃっかりリリーの剣を奪っていたライザーは、去り際にしたり顔で笑うと、その狭間の暗闇に姿を溶かした。

 あまりに自然にそんなことをするものだから、リリーは口をあんぐりと開けたまま暫く動けずにいた。

 この世界には魔導師という者がいて、確かに未知の力を使うものだが、ここまで自然な動きで「魔法」を使うところを見たのは初めてだった。


「最近めっきり聖騎士が来ないと思ったら、あいつの所為か。仕方のないやつだ」


 ヒルはその様子を見ながらふん、とあきれ気味に鼻息をもらす。そしてリリーを見ると、その腹にそっと触れた。


「可哀相に、痛かったか?」


「……どういうつもりだ」


 リリーはその手を払い除け、問い掛ける。


「手当てを」


「ふざけるな!」


 リリーはカッとなってヒルの体から離れた。これ以上無いというくらいの憎しみを持ってヒルを見る。

 姉を殺した悪魔。本来ならば言葉を交わすのも汚らわしい。


「悪魔が何を企んでいる! 惑わして取り込むつもりなら、……っ私は屈しない!」


 腹をかばうように前かがみになりながら距離を取るリリーに、ヒルは呆れ顔をする。


「自由のきかない体でよくもまあ……。とりつくしまもないな」


「黙れ!!」


「なぜそんなに俺を憎む。俺がお前に何かしたか?」


「お前たちは姉を殺した!!」


 ヒルはぴくりと反応した。それは、先程ライザーが見せた挙動と同じだった。

 頭に血が上ったままのリリーはそれを気にせず、ありったけの感情をヒルにぶつけた。


「アストレイアは皆の希望だった!! そんな姉さんを殺したお前たちを私は許さない!!」


 大平原にリリーの声が響き渡った。轟々と鳴る風が、二人の間をすり抜けていく。

 少しの静寂のあと、ヒルが口を開いた。緋色の瞳は、目の前の人物に対して、なんともいえない悲しみを称えて。


「希望、か」


 ヒルは躊躇うように、リリーから視線を外す。


「お前は、知らなければいけない」


「……は?」


 リリーは顔を歪めた。ヒルは構わず言葉を続ける。


「ついてこい」


「ついてこいだと? ふざけるな!! 何を言いだ…………」


 怒号空しく、リリーはその場に膝をつく。腰が抜けたように、その場にへたりこむ。

 かっと頬を赤くしたリリーは、震えながら下を向いた。

 あれほど意気込んでいたのに、目の前の悪魔を殴ることすら出来ない。

 頭の奥が疼くほどに恥を感じ、リリーは地面を睨みつけた。

 凍りついた大地、視界の端に、僅かに男の軍靴が見える。年月を重ねた革の表面に、白い雪が重なった。

 雷雲が消え、灰色の空から雪が降る。冬の粒が首元に落ちるのを感じながら、リリーは震えていた。

 ふと、背中に温もりが合わさった。大きな影がリリーを包み込む。男の、宵闇のローブが彼女にかけられたのだ。

 ヒルは、こちらを見て微笑んでいた。


「な……」


「お前は何も知らなすぎる。お前がこれから先、……お前自身が居る世界を、少しでも変えたいと思うのなら話を聞いてくれないか」


 ヒルは真っ直ぐ、揺るぎない決意を秘めた瞳でリリーを見つめた。

 リリーはそれ以上、彼に対してぶつける言葉を無くした。いや、その感情自体消え去ったのか。

 二人は視線を合わせたまま、しばらく静止していた。ヴァイスの冷たい風がリリーの髪を軽く揺らす。


「……世界を?」


 一言小さく呟く。すると何故か脳裏に浮かぶ姉の顔。

 男の向こうに、姉の姿が見える。だが、目の前に居るのは「悪魔」だ。

 魅入られてはならない、聞いてはならないと何かが止める。

 だが、リリーの翡翠の瞳の奥に、今育ちつつある熱があった。それは彼女自身が求めた答えへの布石なのか、それとも、終わりの為への誕生なのか。

 どちらにせよ、リリーに否定の言葉を紡ぐことは出来なかった。


 差し出された男の手に、彼女の未来があった。


 ヒルに守られるように、そのローブに包まれると、周囲の世界が変わるのをリリーは感じた。

 暖かい懐の中、大事なものを扱うように背中に回された手が、いつか見た姉の夢を思い出させた。

 十四年、誰に頼ることもなく生きてきたその体はひどく傷つき、心は痩せていた。

 だが、どうしてだろうか。

 この悪魔の言葉が、心の奥を救うように、木霊するのは。


「――どういうこと……」


 傷ついた体を引きずりながら、女は唇を震わせた。驚嘆の瞳が見たものは、見知らぬ男に寄りそう「あの」少女の姿。

 既に意識を失いかけている仲間の体を支えていた女は、力なくその膝を折った。


「なんで、あの子が悪魔に……」



 * * *  



 暗闇の中、激しい剣撃の音が鳴り響く。一人の男が圧倒的剣技を以て、対峙する相手をねじ伏せていた。

 白い剣先が、倒れた男の喉を狙う。そしてそのまま静止し、伺うように煌いた。


「きっ、貴様…………」


 倒された男は、唸りながら相手を見上げた。

 足を震わせ、床に這う。


「弱いな。こんなものか?」


 剣を持つ男は、相手の顎を剣先でくいと持ち上げた。


「……っおまえは……一体」


「その傷でまだ喋るのか?」


 鮮血を腹より流す相手に向かって、男は無感情に言い放った。


「邪魔をしないでくれ」


 男は口角をあげ微笑むと、相手に向かって、剣を振り下ろした。

 生々しい音と共に、膝まづいていた相手はついに全身を地に打ち付けるように倒れこんだ。

 鉄の異臭が辺りに拡がる。意識を手放した相手はもう喋る事はなかった。

 剣についた血を払い、男は何かに向かって話し始めた。

 ひどく短い受け答えのみの会話を終えると、男はどこかへと歩きだした。



 * * *



 何故、私はこいつといるんだ?


 部屋の温もりがリリーを包んだ。

 オレンジ色のランプの光が、部屋の中でゆらゆらと揺れる。茶色い壁の殺風景な部屋の中、それだけが唯一温かみのある物だった。

 ヒルは、リリーを自身の家らしき所に招いていた。このヴァイスの大平原のどこにあるかは分からないが、木々のふもとにある、そう大きくない家だった。彼一人が生活するくらいなら問題はないだろうが、それでも少し手狭に思う。

 体の大きな彼が、この小さな空間でうろうろしているのを見ると、リリーは何故か可笑しくなってしまった。

 ふと、赤い髪が揺れる。大きな男が、こちらに振り返ったのだ。


「何か飲むか? 口に合えばいいが」


 リリーは警戒を解かないまま、部屋の入り口で立ち尽くしていた。


「どうした、そんなとこにいつまでもいるな。異様だぞ」


 ヒルはリリーを促すが、リリーはそのまま動かない。


 ――どうかしている。悪魔の言葉にのこのこついてきている自分。ありえない。


 冷静なリリーのとる行動には思えないものだったが、何かが彼女の背を押した。「識りたければ進め」と。

 連れ去られたマティスの事を考えてみたが、無事でいる可能性は低いだろう。

 実践経験の乏しい彼が、悪魔に勝てるわけが無い。だがリリーは小さくため息をつくと、悲しむこともしなかった。「仕方ない」と心で呟くだけで。


「おい、口が無いのかお前は」


 考え込むリリーの顔の前に、急にヒルの顔が間近に現れた。


「っ!!」


「すごい眉間のしわだな。心配するな、俺は何もしない」


 ヒルはリリーから離れると軽く笑ってみせた。そのまま部屋の中の椅子にゆっくり腰掛けると、向かい合った椅子に座るようリリーに促した。


「いいから座れ。別に立ったままでも構わんが」


「そうさせてもらう」


 ヒルを睨むと、リリーはそのまま腕を組んで壁にもたれかかった。


「やれやれ」


 ヒルはわざとらしく首をふると、先程自分の為にいれた水を一口飲んだ。


「さて、何から話そうか」


 ヒルは目を細め懐かしむようにリリーを見る。

 居心地が悪い視線に、リリーは横を向いた。

 ヒルはリリーの態度に怒りはしなかった。むしろそれを当たり前かのように暖かく扱う。

 カップを置いたヒルは、頬杖をつきながら語りだした。


「あいつの事はよく知っている。まあ、誰でも知っているんだがな。……俺は、それだけじゃない」


 一呼吸於いて、ヒルは低く語る。


「最高位聖騎士にして、人間たちの希望アストレイア」


 次にリリーを見据え、こう言った。


「そして、人間達の可哀相な操り人形、アストレイア」


 リリーはまた感情を高ぶらせた。が、ヒルがすぐさま言葉を次いだ。


「おい、人の話は最後まで聞け」


「……わかった」


 リリーは素直に応じた。謎めいたヒルの喋り方が気に入らないが、今は我慢を決める。


「今から話すことはお前にとってとても大事なことだ」


 リリーは黙って耳を傾けた。


「ただ、この先も識るかどうか決めるのはお前だ。俺は無理に聞かせる気はない」


 ヒルは再度警告をした。だが、自身の中で対立する二つの感情。

 知ってはいけないという何か。

 識りなさいと背を押す何か。

 だが、リリーの答えは決まっていた。


「識りたい」


 翡翠の瞳が、ヒルを見据えた。


「わかった」


 少しの沈黙のあと、ヒルはセイレについて語りだした。


「アストレイアと俺が出会ったのは十四年前。あいつが聖騎士として、俺たちを討伐に来た時だ」


 ゆっくり、言葉の欠片を組み合わせるようにしてヒルは話す。


「俺たちは驚愕した。それまではこの地に侵入するくらいなら何人もいたが、まさか本拠地の城まで辿り着くなんて…………ありえなかったからな」


「十四年前…………」


 リリーは自分が見たセイレの最後の姿を思い出していた。

 流れる金髪。優しい顔。姉はいつだって美しかった。


「あいつは強かった。誰がやっても刃が立たなかった。すると、俺たちの「王」が重い腰をあげた」


 王というと、悪魔たちの王のことだろうか。

 リリーも話には聞いていたが、その存在が本当にあるものだとは思っていなかった。だが、このヒルという男の出で立ちを見るに、悪魔にも「王制」というものがあるのだろうと予想した。


「俺たちの王の名前は、ジオリオ・アシュトレト・ヴァイス。穏やかで、争いを好まない方だった」


 それを聞いたリリーが唇を噛み締めた。


「セイレを殺したのはその王…………」


「…………だから、最後まで聞け」


 穏やかな顔が、ほんの少し強張る。リリーは、ぐっと言葉を飲み込んだ。


「ところで、話は長くなるぞ。いい加減素直に座ったらどうだ」


 ヒルが呆れたように椅子を指差すと、リリーはようやく意地をはるのをやめ、椅子に腰掛けた。


「ああ、それで話しやすい。続けるぞ」


 リリーが言葉無く頷いたのを確認すると、ヒルはまた話し始めた。


「王には「力」があった。お前たちが魔法……魔導術と呼んでいるあれと、まあ似たようなものだ。対して、アストレイアには剣ひとつしかなかったが、二人の戦いは凄まじいものだった。たった一騎で王に戦いを挑んだ彼女は、その身の一部が動けなくなるほどに傷を負っても、諦めなかった」


 アストレイアの強さはよく知っていたリリーだが、改めて聞かされると違いすぎる自分に情けなさを感じた。


「そして、ついに二人は動けなくなった」


 ヒルの脳裏にその時の光景が鮮明に甦る。大平原に互いに剣を構えたまま睨み合う二人。

 息も絶え絶えに、アストレイアが言葉をはなつ。


『王よ、そろそろ闇に還ったならどうだ。お前さえ諦めれば、人々の不安は消える』


 王は答えた。


『貴様達は永きにわたり我らを妨げる。何故だ?』


『悪魔は土地を汚し、我らを食らう。それが理由だ』


 アストレイアは燃え立つような闘志の中答えた。

 だが、王は瞳を伏せ、こう言った。


『愚かな、我らは何もしていない。可哀相だ、貴様らは可哀相な人形だな』


 王が剣を落とし、倒れる。アストレイアが剣を離し、重なるように倒れたその時、空から綿雪が降り始めた。

 狂うように雪は落ち、風は鳴き、戦いが終わった。


「待って。それじゃあ……もう悪魔の王はいないのか!? 姉さんはお前たちに殺されたんだぞ! お前たちが勝ったんじゃなかったのか!」


「……はっきり真実を言ってやる」


 ヒルは鋭くリリーを見ると、険しい顔でこう続けた。


「お前たちは、あいつの手の平で踊らせれている駒だ」


「なんだと…………?」


 きしり、きしりと歯車が歪み始める。

 何かが壊れて、また何かが組み上がっていく。

 それは、リリーをこれから待ち受ける、過酷な運命のほんの始まりにすぎなかった。

 部屋の明かりに照らされたヒルの髪は少し妖しさを帯び、リリーの焦燥感を掻きたてる。


「お前の言っていることは意味がわからない……」


 不安を振り払おうときつく言い放った言葉は、盾にすらならなかった。


「だろうな、お前は何も識らないんだから」


 ヒルは伏せ目がちに答えると、これから話すであろう内容を憂いてひとつため息を吐いた。


「何から聞きたい?」


 ヒルがそういうと、リリーは怪訝な表情を向けながらも口を開いた。


「踊らされているとはどういうことだ?」


 率直な質問に、ヒルはたじろぎもせずただ微笑んだ。


「そこから答えたほうがいいかもしれない」


 少し間をおくと、ヒルはソファに深くもたれかかりこう言った。


「聖騎士とは、なんだ?」


 リリーはその言葉に何故か少しぎくりとした。


「…………聖騎士は悪魔を討つために組織された精鋭たち。貴様が一番よく知っているだろう。悪魔なんだから」


 するとヒルはその目を少し細め、リリーを見据えた。


「はは、聖騎士らしい、お利口な答えだな。じゃあもうひとつ聞こう」


 ヒルは人差し指を軽く立てるとこう言った。


「悪魔とは、何だ?」


 リリーは一瞬黙り込んだが、すぐに怒りとともに言葉を返した。


「ふざけるな! こんな話をするために私を連れてきたの!?」


「……お前たちは、なんだかんだ言っても一応は姉妹だな。あいつもそんな風に怒った」


 深く眉間にしわを刻み怒るリリーに対して、ヒルは笑みを浮かべたままだった。


「昨晩も言ったが、お前は怖がりすぎだ」


「なんだと?」


「真実を知ることに……悪魔を知ることに恐れを抱いてる」


 それを聞くとリリーは立ち上がりヒルを睨み付けた。


「私は何も恐れてなどいない!」


 揺るぎない信念を秘めた深緑の瞳がヒルを映す。拳を握り締め、リリーは今にもヒルを殴りそうな勢いだった。

 その様子を見て、ヒルはリリーの傍まで歩み寄り、身を屈めその青灰色の髪を少し撫でた。

 リリーは髪を撫でるヒルの手を振り払いはせず、未だヒルを睨み続けたままだった。

 そして、ヒルはゆっくりと語りだした。


「あの日。あの忌まわしき日。一進一退だった王とアストレイアの永き戦いが幕を引いた」


 記憶の糸を手繰りながら、ヒルの口から今歴史の真実が語られようとしていた。


 ――それは、約十四年前。『ヴァイス大平原』。

 風ばかりが吹き荒ぶその草原に、死の足音だけが木霊する。

 何も無く、荒れた氷の大地。戦いの傷跡のみが横たわり、それらを更なる生へと転換させるものすら、現れず。

 美しい乙女は横たわり、剣を見る。これで諦めてなるものかと、強く目を光らせた。

 立ち上がり、大剣を担ぎ上げる。倒れた漆黒の王の体に、それを突き付けた。


「ざまぁ……ないな悪魔王。私の……勝ちだ」


 悪魔王と呼ばれた男は、長い夜の髪の隙間から乙女を見た。

 その瞳は、乙女と同じ翡翠の瞳であったが、今にも消え入りそうなほど弱々しかった。


「……聖騎士アストレイアとやらよ……今一度問う。何故人間は我等を狩る」


 擦れた声で話す悪魔王に、もはや王の威厳はなく、ただの脱け殻のようだった。

 アストレイア自身も、剣を構えるのに必死だった。だが、なんとか余裕を見せ付けるべく、皮肉な笑みを見せた。


「先程も言ったな。我々が、『可哀相な人形』と」


「お前たちは何も知らずにあいつの意のままに動いている」


 王は、すでに生気のない瞳をアストレイアに向けると、続けてこう言った。


「この地がこのように凍り付いたのも、陽が届かぬ暗闇の大地となったのも…………あやつのせい」


「……何?」


 アストレイアの瞳が大きく揺れた。その整えられた美しい顔を悪魔王に向けた。王は手を伸ばし、その顔に触れてみた。


「美しきアストレイアよ。騙されるな。我等は敵ではない!!」


「何を言いだすんだ」


「敵ではない。我らは…………敵ではない」


「悪魔だろう……?」


「そう呼ぶことで、お前たちは…………人間は……」


「……お前」


 その、絞るような声を。アストレイアはどう聞いたであろうか。

 その次の瞬間、アストレイアは剣を振り下ろしていた。恐ろしい光景が、影となって大地に焼きつく。

 しかし、剣は悪魔を斬る事はなかった。傍らの、氷の大地にその身を埋めていた。



 * * *



 そこまで話して、ヒルは一度息を吐きリリーの顔色を伺った。

 リリーはただ目を丸くしたまま、口を少し開き、ヒルを見つめていた。


「これが、傍で二人の戦いを見ていた俺しか知らない戦いの真実だ」


 ヒルは少し疲れたのか、リリーから離れ、壺から水を汲み上げ飲み始めた。

 リリーは、ただ立ち尽くしていた。

 ──何かが、音をたて壊れていくような気がした。認めたくない事実が今、リリーの中を戦慄となって駈け巡っていく。

 一息ついたヒルは、また真実を語り始めた。


「王も、アストレイアを虫の息だった。俺たちは急いで二人を介抱した。怪我の完治まで時間はかかったが……セイレは治るや否やヴァイスを発った。そして」


「待て! お前の話、お前の話では…………姉さんを殺したのは」


 ヒルの話を遮るように、リリーが言葉を挟む。

 すがるような瞳を向けるリリーに、ヒルは小さく頷いた。


「真実を知ったアストレイアは、制止も聞かず飛び出した。勿論、自分の足で、自分の意志でな」


「じゃあ姉さんは殺されたのではなく……」


「ああ。アストレイアは、無傷の体でここを発った」


 何かが、落ちて、割れた。


「リリー」


 リリーの顔色が変わったのを気にしたヒルは、彼女の肩に手をかけようとした。しかしリリーはそれをきつく振り払い、震える唇で、嗚咽を漏らすように言った。


「私の名前を呼ぶな! お前が……! 悪魔が私を呼ぶな!」


「悪魔じゃない」


「悪魔だ! 私を惑わすお前は、悪魔だ!!」


「リリー!」


 ヒルはリリーの両手首を掴み、自分の方に向かせるとその瞳を捉えた。

 当然、抵抗するリリーであったが、ヒルはそれを上回る力で制し、何とか言葉を届けようとする。


「悪魔ではない。俺が悪魔だというのなら、お前との間にある違いは何だ?」


 ヒルは自分の顔をリリーに近付けた。その作りを見せるかのように、確かめさせるように。


「やめ……やめて! 近よらないで!!」


「識るんだ、リリー。お前が生きるべき道を。切り開かなければならない、明日を」


「私は何も識りたくない! 私は聖騎士だ! お前を……お前を殺すために来たんだ!!」


 そうでなければいけないかのように、リリーが叫んだ。

 線の細い体が、震えながら意地を貫く。

 必死に手首を捻らせ、ヒルから逃れようともがいている。それはまりに痛々しく、無知な様であった。

 だが、ヒルは彼女を包んだ。暖かな、その腕で。


「っ……」


 突然の事に、リリーは体を硬直させた。

 だが、ヒルは決して無理強いはせず、リリーの体を抱きしめていた。

 そっと背中に触れた手は大きく、優しく。リリーの涙ごと、抱きしめた。


「すまない。出来るなら、時を取り戻したい」


「な……」


「本当は、こんな紋章も傷も必要ない。守るべきだった。何の不安の無い場所で、ずっと」


「離して……」


「お前を、迎えに行くべきだった……」


 ヒルの声が、リリーの耳元で響く。

 リリーはいつの間にか緊張を解き、その声に体を委ねていた。

 視界が、全て彼に埋め尽くされている。大きなその体に、私など存在しないかのように。隠れてしまっている。

 リリーの手が、無意識にそっと上げられた。縋るように、求めるように。

 そうして、ヒルの背中を掴もうとした、その時だった。


「ヒル!」


 けたたましく家の扉が外から開き、一人の男が入ってきた。

 その男は血塗れで、何かから逃げるように必死だった。

 よく見ると、先程ヒルがライザーと呼んでいた男だ。


「ライザー?」


 その様子に驚いたヒルが、ライザーに駆け寄ろうとした瞬間だった。

 ライザーの背後から、鋭い刄が空を切り裂き彼を襲った。


「チッ!」


 ライザーはそれに気付きすんでのところで太刀を避けはしたが、腕を僅かにかすめまた鮮血が流れ出でた。

 開いた扉の向こうは闇だった。すると、闇から抜けるようにライザーを傷つけた者は静かに家の中に入ってきた。

 灯りに照らされると、ついにその正体が明らかになった。

 突然のことに動きが止まっていたリリーだったが、その者を見て安心と混乱が入り交じった声を出した。


「マティス!?」


「無事か!?」


 白いマントに、紅い血がついている。だがそれは彼のものではなく、彼の手によって斬られた者の返り血だった。


「貴方が斬ったの?」


 リリーの問いに、マティスは平然と答えてみせた。


「なんで? 悪魔は俺たちの敵だろう。君を助けにきたんだよ。武器も取り返した」


 マティスは腰にくくりつけていた剣をリリーに投げ渡した。リリーはそれをしっかり受け取ったが、素直に次の行動には出れなかった。


「……“何者”だ?」


 ヒルは傷ついたライザーを庇うように前に立つと、マティスを睨んだ。

 リリーが何も答えられずにいると、代わりに答えるようにマティスが言った。


「これなら悪魔も大したことはない。さあ、脱出しよう」


 マティスは嘲笑すると、リリーに手を差し出した。血に染まった、右手を。


「駄目だ」


 ヒルは、行くなと言わんばかりに厳しい目線をリリーに投げ掛けた。


「早く。今なら逃げれる」


 尚もマティスは手を差し出した。


「わ、私は…………」


 リリーは剣を握り締めたまま、二人を交互に見る。

 そこに、いつもの冷静な彼女はいなかった。リリーは今、迷いと、恐れと、混乱の中にあった。


 なぜ、マティスは騎士でもないのに、こんな実力を持っているのか。

 何故、アストレイアを殺したのは、悪魔じゃないのか。

 待て、もしかしたらヒルの言うことは全て嘘で、今取るべき手はマティスの手かもしれない。

 まて、真実を識るならば、今取るべきはヒルの手じゃないのか?


 ぐるぐると、終わりなき考察がリリーを苦しめる。

 自分は一体、今、何をしているのか。何をするためにここにいるのか。


 何を、成す為に。


「リリー」


 声がした。

 振り向くと、緋色の瞳がリリーを射ぬく。彼は静かに微笑んでいた。


「お前がここへ来る前に何を見てきたかは、知らない。だが、俺はお前を識っている。俺はお前の敵ではない」


 心臓がいつもよりやけに大きく脈打っている。

 識れと、もう一人の自分が囁いた。


「俺は、お前を守る者だ」


「守る者……?」


 戸惑うリリーに対し、微笑むヒル。その眼差しに、リリーの鼓動が早くなった。


「リリーって……こいつ、リリーなのか!? あの!?」


 リリーの思考を遮るように、ライザーが声を出し、彼女を凝視した。


「マジかよ……ほんとに生きてたのか」


 ライザーの声音が、先ほどとは明らかに違う。

 生きてた? どういうことだ。

 混乱の海を泳いでいるリリーだったが、自分の内に灯りがともったような感覚に襲われていた。

 その様子を黙って見守っていたマティスだったが、ついにリリーの腕を掴み、ぐいと引き寄せ、自身の後ろに立たせた。


「悪魔の戯言になんか耳を貸さないで。貴女らしくない」


 マティスは目だけでリリーを見てそう言うと、再びヒル達に向き直り自分の剣を向けた。

 普段、と言っても付き合いは短いので分からないが、雰囲気の違うマティスにリリーは少し違和感を感じた。


「我らが聖騎士殿をたぶらかすのはやめてもらおうか、悪魔」


「てめえ……」


 動くこともままならない体で食いかかるライザーをヒルは諫める。そして、マティスの肩越しに見えるリリーを静かに見つめた。


「……リリー。お前がどういう道をとるかは自由だ。だがな、お前は識ってしまった。もう戻れない」


 そう言い終わるや否や、ヒルは腰にさしてあった剣をすらりと抜くと、マティスにぴたりと向けた。


「それと、マティスとやら。お前が誰だか知らないが、仲間を傷つけられて笑っていられるほど俺は紳士じゃない」


 剣は鈍く銀に光る。その刀身から、いやヒルからは数多の戦場を潜り抜けてきたような威圧感が発せられている。


「……悪魔が」


 マティスは苦い顔をして呟いた。

 しかし二つの剣は交わることはなかった。

 ふいにマティスがヒルに向かって近くにあった壺を投げ付けた。それは地に落ちる前にヒルの剣によって原型を失う。

 マティスはその隙を狙って後ろの扉を素早く開け、リリーを突き飛ばすように外へ押し出した。

 リリーは体勢を崩し外へとよろけ出る。マティスもそれを確認するとヒルたちに注意しながら後へと続くと、よろけたリリーの手を引きたくりその場から走り去った。


「待ちやがれコラァ!!」


 ライザーが叫んで後を追い掛けようとしたが、ヒルがそれをまた止めた。


「やめておけ」


「ヒル!!」


「お前が行っても、またやられるだけだ。それより、何があった」


 あまり聞かれたくないのか、ライザーは話すのをしぶったが、二人の走り去る姿を見ると喋り始めた。


「あの野郎、アンヘルが連れてった人間だよ。リリーと一緒にいたやつだ」


 ヒルは昨夜リリーと別れ際に駆け寄ってきた人物を思い出した。弱々しい挙動をしていたが、意志の強い青の瞳を持った青年だ。


「ああ……そういえば居たな。で、アンヘルは?」


「殺られた。お前と別れた後、アンヘルのとこに行った。そしたら……くそ」


「なるほどな」


 淡々とヒルが言うと、ライザーはぐっと眉根を寄せる。


「お前、あの女がリリーって知ってたのか?」


「少し変わっていたから、自信は無かったけどな」


「先に言えよ! てめぇが女欲しがるなんておかしいと思ったんだよ」


 ヒルは無言で微笑むと剣を鞘にしまう。チン、と金属音がすると、殺気は消え穏やかな雰囲気に変わる。


「まず、お前の手当てだな。あの二人のことは任せとけ」



 * * *



 リリーとマティスは、ヴァイスの道無き道を走っていた。

 手を引かれながら、リリーは後ろを振り返った。あの緋色の瞳の男、先程まで居た家は、もう見えなくなっていた。


「まったくどうしたんだリリー! あんなことをして……殺されてしまうよ!」


 息を切らしながらマティスが言う。リリーはキッとマティスの顔を睨み付けると、精一杯足を踏張った。


「待ってマティス!」


 珍しく声を張り上げたリリーに、マティスはついにその足を止め、掴んでいた手を離した。


「わ、悪い。痛かったかい?」


「そんなことはどうでもいい。聞きたいことがたくさんある」


 リリーは身なりを整えると周りを確かめた。自分達以外に人の気配はない。


「アミーやバルドは……?」


「俺は合流していない」


「そう……」


 少し心に引っかかるものを感じながら、リリーは溜息を吐いた。


「ところで、本題だけど」


「えっ、なんだい」


「貴方、実力を隠していたわね?」


 責めるような目線に射ぬかれると、マティスは所在なさげに目を泳がせた。


「……隠していたわけじゃないさ」


 おくびなく答えるマティスだが、リリーと目が合うとふいと視線を外した。


「リリー、君こそどうしたんだ。悪魔に何もされなかったなんて運がいい」


 心配そうに声をかけるマティスだが、リリーはもう素直にそれには応えない。


「話していただけよ」


 つんと返事をすると、手に持っていた剣を腰のベルトに固定した。


「いいけど。その剣、取り返すのに苦労したよ」


「貴方を連れ去った悪魔はどうしたの?」


「ああ、隙をついて逃げてきたから」


 そう言うも、リリーの疑いの眼差しは変わらなかった。この返り血で、隙をついたなどと。

 マティスは誤魔化すかのように頭を掻いた後、リリーの剣を見た。


「取り戻せてよかったね」


「簡単に剣を奪われて、馬鹿にしているのでしょう。我ながら情けない」


「そんなこと思ってないよ!」


「別に、私の過失だから」


 沈黙する二人。ヴァイスの地に流れる冷たい空気が、彼らを追い出すかのように掠めていった。


「さて、これからどうしようか?」


 身震いしたマティスが、辺りを見回しながら言う。


「このまま突っ立っていてもらちがあかないわ。追っ手がくるかもしれないし、第一もう『偵察任務』じゃなくなってる」


「そうだね。この寒さと、あと君の傷も心配だ」


「やはり、聖王国に戻るしかないわね。徒歩じゃあ、何日かかるか分からないけど」


 確かに、ヴァイスから聖王国までを全て徒歩となるとかなりの日数がかかる。


「ふもとの村で馬が調達できればいいけど」


 何もない、凍てついた大地ヴァイス。

 生きた生物など、悪魔以外にいるはずがない。


 “悪魔じゃない”


 あの、緋色の瞳をした男の声が頭に響いたが、リリーは押さえ込むようにしてそれを無視した。


「──アルヘナのふもとの村まで歩きましょうか」


「今からアルヘナ山脈越えをするのかい!?リリー、いくらなんでもそれは……。夜中になるよ?」


「もう弱いフリしないで。あれだけの実力を持っている貴方と、聖騎士の私なら平気よ」


 冷たくぴしゃりと言い放つと、リリーは遠目に浮かぶ山脈に目を細め、方位磁石を取出し位置を確認した。


「ははは……手厳しい」


 マティスはぽりぽりと頭をかくと、書きかけの地図を取り出し、今いる位置を書き出した。

 二人は位置を把握すると、アルヘナに向けて歩み始めた。

 ヴァイスの平原には何もなかったので、万が一悪魔が現れても早く気付くことが出来そうだ。――だが、奴らは空間を移動していた。まるで魔導師のように。いや、魔導師よりも容易く。

 リリーはマティスが連れ去られた時のことを思い出すと、気を引き締めねばと眉をしかめた。

 その時、そんなリリーの張り詰めた気を打ち砕くかのようなお気楽な声がした。


「お困りですかあ~?」


 それは、若い女の声だった。

 リリーは冷め切った瞳でマティスを見る。


「……マティス、気持ち悪いからやめて」


「お、俺じゃないよ!」


 慌てて否定するも、辺りには二人以外誰もいない。


「じゃあ一体誰が…………」


 リリーがそう言いかけると、またどこからか声がした。


「こっちこっち!」


 二人はやっと声の出所に気付き、頭上を見上げた。

 すると、二人の真上に一人の少女がいた。いや、正確には何もない空間に『浮いている』。

 腰まである柔らかそうな桃色の髪は風に揺れ、真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下には、丸い大きな瞳と、くるりと巻いた長い睫毛。

 身に纏うのは、ほとんど真白い魔法使いのローブ。金の渕どりは高価そうな紋様を彩っている。

 引きずるようなローブの下は、この地に似合わないような短いスカート。華奢な足がすらりと伸びているが、太腿の裏には魔導術の文様が描かれている。


「あは、やっと気付いた~」


 少女を見てマティスは驚き、リリーは頭を抱えうなだれた。

 少女はふわりとリリーの前に着地すると、その大きな瞳をぱちぱちさせながらにっこり微笑んだ。


「リリー! 久しぶりぃ~!!」


「何で貴女がここにいるの?」


 少女は再会の喜びをめいっぱい表現するかのように、リリーに抱きついた。

 リリーがうざったそうに手でつっぱねると、少女は少し残念そうに眉を下げた。


「相変わらずそっけないね~リリーってばさあ」


「貴女は相変わらず落ち着きが無い」


「そんなこと言って、助けにきてあげたのに」


 言い合いながらも親しい様子の二人を見て、マティスは少しの疎外感を感じ、話に割って入った。


「リリー、知り合いなのかい?」


 その問いに、リリーは応えず、少女が元気良く答えた。


「どうも~! あたしベリー。ベリー・ハウエルだよ」


「あ、よろしくベリー。俺はマティス…………」


 言い終わる前にベリーは続けて言葉で遮った。


「マテくんだね? よろしく初めましてー」


「マテ……」


 妙なあだ名にマティスはとまどったが、リリーが冷静に助言をする。


「マティス、深く考えなくていい」


「何それ。真面目に挨拶しただけじゃん」


 ベリーは、しかめっ面をリリーに向けた。


「それより貴女、助けにきたって言ってたけど」


「そそ! リリーが心配で見にきたの。迷子になってないかなぁ~って」


「なるわけないでしょ」


「なりかけてたじゃん」


「なってない」


「ああ! あのちょっと!」


 またまた疎外感を感じたマティスは、二人の会話に割って入る。


「ベリーさんも聖騎士なのかい?」


 マティスが聞くと、ベリーはけたけた笑いながらこう答えた。


「あははっ、んなわけないじゃない。あたしは、管理する側」


「え?」


 いまいち理解できなかったのでマティスが聞き返すと、ベリーはうーんと人差し指を顎にそえ、こう続けた。


「聖騎士管理組合ってわかるよね? あたしはそこの所属の魔導師だよ~」


「君が!?」


 マティスはぎょっとしてベリーをまじまじと見つめた。


「えへ、意外だった?」


「あ、うん。聖騎士管理組合の人間は顔を表に出さないから…………」


 聖騎士になる為には聖騎士管理組合の許可がいる。昇格も然り。彼らに属すことで、騎士たちは武器の配給を受けることも出来る。それ故に彼らは全ての聖騎士の状況、情報を把握しており、各王国からの信頼が厚い。

 機密情報を握っている機関のため、所属するには相当な実力と繋がりが必要になる。


「組合も寛大になったわね。そんなに簡単に組合の人間だって言ってもいいの?」


「だってマテくんは聖王国の人でしょ? 平気だよ」


 あっけらかんとしたベリーは満面の笑みをリリーに見せた。

 ベリーの顔を見ると僅かに気が抜けたような表情をのぞかせるリリー。けだるそうに腕を組むと、話を進めた。


「あ、そ。で、自己紹介も終了したたようだし……助けにきたってことは帰る手助けをしてくれるの?」


「うん! ちなみに、もう一人の聖騎士と兵隊さん、ちゃんとリュシアナに送ったよ」


 ベリーは、満面の笑みを浮かべ頷いた。


「そう……」


 人知れず安堵の息をもらすリリーに、ベリーはにっこりと微笑んだ。


「リリーもすぐに助けてあげるからね! ちょいちょいってやれば、すぐリュシアナに着くからさ」


 得意げに胸を張るベリーに、リリーは淡々と言う。


「それって組合の仕事なの?」


「あたしの仕事は『監査官』だもん。ついで~みたいな」


「監査官のくせに、私たちにはりついてはなかったのね」


「や、途中までは尾けてたんだけどさあ…………アルヘナあたりで見失っちゃって。んでやたら寒いし! やる気なくす! なんで二人ともそんな薄着なの~!?」


 リリーは頭を抱え、面倒臭そうにいきさつを話し始めた。

 ヒルのことや、この大地の情報。小声で、マティスの不可解な行動も。


「わかった?」


「へーえ」


 いきさつを聞いたベリーは、マティスを見ると少し顔を歪めた。


「な、なんだい?」


 マティスがそれに気付きそう言うと、ベリーは視線を彼から外しながらリリーに話し掛けた。


「別にぃ。んじゃ、ちゃちゃっと帰りますか!」


「助かるわ」


「貸しひとつだからね、リリー」


「仕事なんでしょう?」


「その返しだる~」


 仲の良さそうな二人を見て、マティスは意外な気もしていた。他人に対して希薄な接し方しかしない彼女が、このベリーという少女にはやけに親しみを以って接している。

 こうしていれば、本当に普通の娘なのだがと、マティスは眉を下げた。


「“ビレファルファ、エーリファルファ、サスリーベ”」


 ベリーは、何かを包むような形で両手を胸の前に添えた。

 するとそこから、ぽつり、ぽつりと淡い光の雫が溢れだした。

 さらに彼女が光に合わせるように何かを呟くと、雫はやがて長い杖の形をかたどり始め、両手に納まらなくなった。

 杖はベリーの背丈よりも遥かに長く伸び、先端には金剛石のように多面にカットされた宝石がついている。宝石の周りには更に小さい宝石が幾つもちりばめられ、ベリーが振るうたびに心地いい音を立てた。


「三人かあ……」


 指差し人数を数えるベリーを黙って見つめていたリリーは、その意味を理解してか、いささか不安な顔つきを見せた。

 ベリーは、杖を大地に突き立て、瞳を閉じてまた何か唱え始めた。

 が、いったん集中を切るとリリーに向かってこう言った。


「えと、行き先は聖王国だよね? 首都アルフォンス?」


「それ以外のどこへ飛ばす気なのよ」


「ごーめんごめん」


 おどけたように自身の頭をぺしっとたたくと、ベリーは再び大地に突き刺した杖に目を向け、手をかざした。次にベリーが瞳を閉じ、何かを唱え始めると、杖がぼやけたように白く光りはじめた。

 ベリーの前にはみるみるうちに光が拡がっていく。

 光はやがて、蛍のように無数に飛びかいはじめ、巨大な扉を作り上げていった。


「“此処より果て。高き処に望みしは、其を恐れぬ歩みである。──開き給え”」


 最後にベリーがそう唱えると、光の扉は完全に物質化し、杖の前に姿を現した。

 白く艶やかな石造りの扉には天使や花の彫刻が施され、それを開けば天に繋がっているような気さえした。


「リリー、彼女ってもしかしてすごい魔導師?」


 その様を目を丸くして見ていたマティスが、リリーに話し掛けると、リリーは小さく頷いた。


「すごいかどうかは知らないけど魔導師」


 マティスが驚くのも無理はなかった。

 アーリアにおいて、『魔導術』とは修練に非常に年月がかかる術だ。

 知識、素質、そして師に恵まれなければ習得は難しい。

 手をかざせばぱっと火がつくなどという簡単なものではなく、手順を踏み媒介を用い、初めて成立する術だ。

 そうしてそれを扱うものを総称して『魔導師』と呼び、強い魔導師には二つ名が与えられることもある。


「よし、開いたよ~。お待たせマテくん!」


「空間転移術……。上級魔導師じゃないか」


 空間を行き来する術などともなれば、行使するための媒介を用意するだけでも相当な費用がかかる。

 それをこともなげにやってみせたベリーは、二人に向けて得意げな笑顔を見せた。


「んじゃ、扉を開けると一瞬だけ別空間につながるから、後ろや下は見ないで、前だけ見て進んでね」


「わかった」


 リリーは扉の前まで静かに歩み寄ると、その白い扉の取っ手に手を掛けた。


「あっ、リリー」


「何?」


「お疲れ様……。気を付けてね」


「…………有難う」


 ベリーに軽く笑みを返すと、リリーは扉を押し開けた。

 マティスも後ろをついていく。


「リリー、ベリーは行かないのかい?」


「あの子は空を飛ぶほうが好きなのよ」


「もしかして、箒で?」


「貴方は物語の読みすぎよ」


 こちらに手を振り見送るベリーを後ろ目に、二人は扉の中に入っていった。

 二人が入った後、扉が完全に閉まるとベリーはぐっと伸びをした。


「…………マティス・センシディア。おぼっちゃまが何やってんだか」


 意味深に呟くと、杖を大地から抜きさる。それと同時に扉もまた姿を消した。

 ベリーは扉が消えたその場所をしばらく見つめていたが、すぐに背を向けるとまた何か唱え、光とともに空へと飛び去った。



 * * *



 ベリーが開いた扉を抜けると、そこは城の中庭だった。

 扉の中の空間は、まるで色とりどりの泥をこねあったような異空間だったが、ベリーの忠告通り、二人は振り向かず前だけを見て歩んだ。

 すぐに白い光が前方に見えてきて、それを抜けると二人はなんなく聖王国に辿り着いた。


「便利だな魔法って。俺も使えたらなあ」


 二人がいる中庭は、あの『祈りの塔』がある場所だ。

 創世神が降り立ったといわれるその場所には、やはり参拝をする人々の姿が目立つ。

 夕暮れどきで人も少なかったのだが、それでも突如現われた二人に人々は驚きの声をあげた。


「わざわざこんな場所に送らなくても……」


 リリーが文句を言っていると、二人に気付いた警備兵が剣を片手にこちらに走ってきた。


「動くな! 何者だ!」


 兵たちは二人を囲むと、次々に剣を構えた。


「ちょ、待て、お前たち!」


 慌てるマティスに反して、リリーは面倒くさそうに溜息を漏らす。

 兵士はいきりたって声を上げた。


「どこから入り込んだか知らんが、この祈りの庭を荒らすつもりならばただではすまさん!」


「マティス、貴方近衛兵なんだから堂々としてれば」


「警備兵に顔を覚えられてないことがショックだよ……」


 二人がこそこそ話す様子が益々気に入らなかった兵は、さらに声をあげる。


「かまわん! 二人とも捕らえろ!」


 一人の兵士が指示を出すと、二人のぎりぎりの位置まで剣先が迫る。

 その時だった。


「──待ちなさい」


 兵士達の後ろ、中庭に入る扉の一つから、一人の男が現われた。

 その男が現れると、祈りの庭の雰囲気は一変した。

 男が歩むごとに、参拝に来ていた人々は進んで頭を下げ膝まづいていく。

 長く美しい暁色の髪は後ろよりも横が長く、影だけを見ると、獅子のようにも見える。白い羽根の飾りで縁取られた深紅のローブが夕方の風で翻った。


「『祈りの庭』は神聖な場所。何人たりともそこを汚すことは許されない」


 男はリリー達のところまで歩むとその足を止め、伏せ目がちだった瞳を完全に開いた。

 彼の額には、金に輝く冠が光っていた。


「そうだね? リリー」


「アルフレッド……、陛下」


「国王陛下!?」


 柔らかく微笑む男に向かって、兵士達は剣を鞘におさめ次々と跪いていった。兵達の鎧が擦れ合う音が完全に静まると、中庭は緊張に包まれた。

 リリーとマティスも例外なく跪いた。


「久しぶりだねリリー」


「陛下におかれましては…………」


「堅苦しく言わなくて構わない。私と君は、そんな遠い仲ではなかった筈だよ」


 礼儀を尽くそうとしたリリーに、アルフレッドは優しく言葉を遮った。

 そして、傍らにいるマティスに視線を向けた。


「横にいるのはセンシディア伯爵の嫡男、マティスか?」


「はい、マティス・L・センシディアです」


 頷くアルフレッドに対し、マティスは、頭をまた深く下げた。


「伯爵……嫡男?」


 リリーが俯いたまま睨むようにマティスを見ると、彼は目は合わせず苦笑いをしてみせた。


「跡継ぎ……なるほどね」


「ま、まあ。いいじゃないか家の話は」


「どうりで」


 不機嫌にリリーが呟くと、マティスは汗をかきうなだれた。彼自身、家柄の事はあまり言われたくないようだ。


「少し離れていなさい」


 そう言って、アルフレッド王が手を小さく横に振ると、警備兵達や彼に付いていた侍女達は後ろ歩きにその場を下がっていった。

 参拝に来ていた人々も、すごすごと祈りの庭を後にした。

 庭の祈りの塔の前には、アルフレッド、そしてリリーとマティスだけが残された。


「さて。リリーがここにいるということは、あそこから無事帰還したんだね」


「はい」


「そうか、ご苦労だったね」


 アルフレッドはリリーの前に立つと、そのすらりと伸びた背を少し屈めた。


「怪我が無くて良かったね、リリー」


「勿体ないお言葉です陛下」


 リリーは、目を伏せたまま答えた。アルフレッド王はそんなリリーの言葉に少し寂しげな顔を見せたが、それ以上は何も声をかけなかった。


「陛下!」


 すると、彼らの輪に、バタバタと数人の男たちが走ってきた。

 高貴な衣裳に身を包んだ男たちは、走り慣れてないせいか息をきらす。

 そして近くまで来ると、跪いて頭を下げた。

 よく見ると、あの会議の時にリリーを追い出したがっていた大臣たちだ。それに気付いたリリーは、あからさまに顔を歪めた。


「陛下、急に玉座を立たれたかと思えばこんなところに」


「はは、すまない」


「まったく、年寄りを労って頂きたい! ……ん?」


 老体の大臣の一人が、リリーに気付いた。みるみるうちにその顔が青ざめ、わなわなと唇を震わせた。


「き、貴様リリー!」


「無事、ヴァイスから帰還しました。残念そうですね、大臣殿」


 リリーは嫌味に言い放つと大臣は苦虫を噛み潰したような表情を見せた。

 だが、一番年老いた男だけは、微笑みながら二人に声をかけた。


「おおリリーにマティス。無事で何より」


「こ、国議院議長様。はい……おかげさまで」


 戸惑いがちにマティスが答える。現れたのは、この国の行政を担う国議院の最高権力者、バロン・ロストハウンドだった。

 白で統一された衣服に、特徴的な片眼鏡。目付きがやや鋭いが、愛想よく笑みを浮かべている。

 彼は、皺の深い口元に更に皺を寄せ、噛み締めるように頷いた。

 リリーを嫌っている大臣達は何やら互いに耳打ちをした後、再び頭を下げこう言った。


「陛下、では我々はこれにて。彼らから任務の報告を聞かねばなりませんので」


「ああ、そうだな。下がっていい。」


「御意。ではマティス、報告を会議室で」


 大臣達は、マティスだけを連れその場から立ち去ろうとする。しかし、リリーがそれを止めた。


「私はもう用無し?」


「貴様に聞かずともセンシディア殿から全て聞こうぞ。さっさと行け」


 リリーは黙って大臣を睨み据え、小さな荷物袋に入れていた地図を取出し手渡した。

 ぱし、と奪うようにそれを受け取った大臣は、リリーを気にするマティスを労りながらその場を立ち去っていった。


「……何なの」


 分かってはいたが、あからさまなその扱いにリリーは腹は立った。

 側にいたアルフレッド王は笑いながらそれを見送るとこう言った。


「相変わらず仲が悪いな、リリーと大臣たちは。さあ、もう誰もいない。畏まらなくても構わないよリリー」


 アルフレッド王が続けてそう言うと、リリーは膝小僧についた芝生を払いながら立ち上がった。


「誰もいなくとも、見られているかもしれません陛下」


「ならば、場所を変えよう」


 夕日が中庭を紅く染める。二人は早足に中庭を出た。

 中庭を出たアルフレッド王とリリーは、夜空の月がよく見える城の、一番高い塔の屋上に来ていた。

 辺りは静寂に包まれており、時折聞こえるのは、空を通り抜ける風の声のみ。

 どこまでも広がっているかのような王都の灯りが、一面に揺らめく。それらを遠くに見つめながら、アルフレッドは口を開いた。


「すまないね。任務から帰ったばかりで」


「平気」


 アルフレッド王は塔の壁に手をかけ、町を見渡しながら夜風に髪を遊ばせていた。

 それを憂いたリリーが、声をかける。


「風邪を引く。貴方、昔からそんなに身体は強くなかったでしょう」


「こんな分厚い毛皮を着せられているんだ、そうそう身体は冷えないさ」


「けど、顔が強張っている」


 リリーの言葉に、灰色の瞳が揺らいだ。


「……セイレが、死んだそうだね」


 アルフレッドはリリーの進言を聞かずに、話し始めた。


「私は、この国の王だ。この国の民を守るためならば死力を尽くそう。だが今日もまた、聖騎士が死んだ。私はそれを玉座で聞いたんだ」


「アルフレッド、それは…………」


「リリー、私は恐ろしい。セイレが死んだと聞いたときも、私は玉座にいた。亡骸を見ることもなかった」


 アルフレッドはリリーに向き直り、懇願するように問い掛けた。


「私を冷たいと思うか?」


 リリーは王の問いに静かに首を横に振った。


「貴方は成すべき事を成している。小さい頃から、貴方が怠慢を見せたことはない。……バカみたいに、完璧にやろうとしているじゃない」


 リリーの瞳はまっすぐにアルフレッドを見つめた。少し冷たい夜風が、二人の体をすりぬけていく。


「私は知っている。貴方は、優しい人。幼い頃、一緒に遊んだ貴方は、いつだって私を気遣ってくれていた。王様になっても、変わっていない」


 俯きがちに、リリーは言った。

 アルフレッドは目を細めると、小さく笑ってみせた。


「お互い、だいぶ大人になってしまったね」


「ええ」


「あの頃のように自由に走り回れはしないけど、君が生きていてくれて本当に良かった。もう、私を深く知るものは少ないからね」


「孤独を背負っているような言い方はよくない、アルフレッド。貴方はこの国の王なの。……民の事を、想ってみて。そこに孤独は無いわ」


 アルフレッドは、僅かに目を見開いた。

 驚いたように言葉を詰まらせた後、柔らかに微笑んだ。


「君たちは顔の似ない姉妹だが、言葉は同じだな。とても、心地良い」


 リリーは、こういう時に何と声をかけていいのか分からなかった。

 ただ黙り、相手を見つめることしか出来なかった。


「気高く強い、アストレイア。まだ王子だった私にもよくしてくれた。よく抜け出して、君たちの家に行った」


 話を聞きながら、リリーはあのことを話すべきか否か、迷っていた。

 ヒルから聞いた、アストレイアは生きているという事実。

 しかし、何の証拠もないのに軽はずみなことは言えなかった。しかも、悪魔が言った事だ。

 明日からでも、悪魔との全面戦争が始まるかもしれない。そんな切迫した状況下の中、混乱を招く発言は避けたい。

 考えていると、アルフレッド王はリリーの困惑する様を感じ取り、苦笑いを浮かべた。


「……リリー。ありがとう」


「私は何も出来ていない。幼馴染の貴方にも……姉さんにも」


 リリーが申し訳なさそうに言うと、アルフレッド王はリリーの前まで歩み、ふいに彼女を抱き締めた。


 リリーは無表情で、驚きもしなかった。

 目の前の若き国王の肩が少し震えていたのに気付いたから。


 戦争が始まる。しかし、そんな生と死のうめき声が響く中、彼は直接手を下すことなく玉座にて守られている。

 そんな立場にいる彼は、その持ち前の優しさ故に、「他人の死」に怯えていた。

 彼の優しさを以前より知るリリーは、身を柔らかくした。


「すまない。私は臆病だ」


「恐れを知らない者はいない。貴方は王、それでいい」


 リリーは抱き締められたまま、アルフレッドの背中を優しく叩いた。


「ありがとう」


「ううん」


 リリーと王の間には、長い時を付き合ってきたものだけが用える、気兼ねの無い、暖かな空気が流れていた。

 だが、頭に響くのはあの男の声。嘘が真実を覆し、真実が嘘を飲み込む悪魔の声。重なる体の温もりは、あの男のものとは違う。

 思い出してしまう、あの大きな胸の中を。


「リリー、君は、……君のまま、いてくれ」


 銀月は白く夜空にたたずみ、二人を優しく見つめていた。



 * * *



 夜も更け、空はすっかり黒いビロードの布に覆われた。

 月だけがその中で白く輝き、それを引き立てるかのように星達が小さく光を放つ。

 王と別れた後、リリーはガウディにある自宅には帰らず、王都のとある宿屋に部屋をとっていた。

 アルフレッド王は彼女に城に泊まるように勧めたのだが、リリーはその誘いを丁重に断った。

 聖王国の登録騎士でもないのに城に泊まったりなどすれば、また大臣達に何を言われるか。

 さすがにヴァイスへの旅は体に応えたのか、リリーは宿に借りた部屋のベッドの上にうつ伏せに枕を抱え込み寝転がっていた。

 ヴァイスとは違い、温暖な気候の聖王国。リリーは窓を開け放している。夜風が吹くたびに白いカーテンがふわふわとなびいていた。


「悪魔と……戦争、か」


 リリーは枕に顔を埋めたままつぶやいてみた。

 悪魔との、全面戦争に向けての準備が始まる。

 リリー達の功労により手に入れたヴァイスの新しい地図。それを元に作戦をたてる。

 そうしているうちにやがて各地から高位騎士が王国に集まり、聖騎士のみの大軍勢が編成される。

 悪魔達も馬鹿ではない。こちらの不穏な動きに気付いているだろう。

 人類の未来を左右する、歴史に残る大戦争が始まる。

 戦争が始まれば、リリーも当然駆り出される。剣を持ち、悪魔たちを根絶やしにするために。


「姉さんを殺したのは悪魔」


 瞳を閉じれば、浮かんで消える姉、セイレの顔。


「けどあいつは殺していないと言う」


 重なるように、ヒルの顔が浮かんだ。


「あいつは……私を守る者」


 もやもやとした感情が、胸の内に沸き上がる。

 千切れるような、切ない彼の声。まだ、耳の傍で囁かれてるように、熱い。


「訳が分からない」


 もし、もし姉が生きているのならばそれはそれで良い。

 だが、それならばあの死体は?

 大臣達が私に見せたあの姉の死体は?


「馬鹿な。相手はセイレを死ぬほど大事に抱えていた聖王国だ。そんなこと万が一にもありえない。」


 リリーは体を仰向けにすると、自身に言い聞かせるように独り言を言った。


「悪魔が、あいつが私を惑わすために言った詭弁。そう考えれば納得がいくじゃないか」


 天井の木目を見ながらまた呟く。

 ギシ、と音を立てベッドから体を起こし窓際に立つ。手摺りに両手をつき、人通りの無くなった外の道をぼんやり眺める。

 セイレの行方を探すため取得した聖騎士という位。けど彼女が死んだ今、考えることはひとつ。


 彼女の、仇をうつこと。


 それが正しい道。

 そう、私はこのままこの道を歩めばいい。

 リリーは己が中に小さく残る疑問を、薄く頼りない布で隠し、深く深く沈めた。

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