第3話 文明の火
自宅に到着し、ドアを開けた瞬間、やけに手ごたえがなかった。鍵をかけ忘れたのだ。
誰も入っては来ないだろうが、物理錠すら使わなかったのは自分のミスだ。
鍵の置き場所は以前住んでいた時と同じだが、どうしても脳が忘れてしまう。
2年半も離れていたのだから仕方がない、諦めて覚え直すとしよう。
内側の鍵を閉め、ローファーを脱ぐ。外からのささやかな光は消え失せ、部屋は辺り真っ暗になる。
暫く目を開けたまま突っ立っていると、何もなかったはずの暗闇が、うっすらと輪郭を持って浮かびあがる。夜目だ。
リビングルームに繋がる扉を開けると、窓から星光が差し込み、闇の中に濃淡を作り出していた。部屋の中央に設置されているテーブルの、その中でも金色に輝いている物を見つけ、手繰り寄せる。
黄銅製の三又燭台だ。重量感のある台座には、ほとんど新品の蝋燭が三本、白光りしていた。
幾ら回り込んでテーブル上を掌で探そうとも、木の感触と本の装丁以外の情報は伝わってこない。
もしかして、という疑念はすぐに現実のものへと変貌する。マッチやら火打石といった点火装置が、このテーブル上に置いていないのだ。
師匠の部屋には存在するのか、と思ってしまうものの、そうではないと否定する感情のほうが大きい。この家には、そういった類のものは置いていないのかもしれない、と思うのが賢明だろう。
となると、点火魔法を唱えるか、バッグから照明器具を取り出すか。この暗闇の中では探すのでさえ億劫になる。
全寮制の魔女学校では、消灯時間以降の活動に対しては無責任で、自前の蝋燭を付けるしかない。もちろん点火魔法など使えないので、初めのうちはルームメイトと当番を決めてマッチをこすっていた。徐々に面倒臭くなったので、規則を破って点火魔法を使うようになった。バレなければ問題がないといった感じで、話を聞く限りでは他の部屋でも行っていたそうだ。
火事騒ぎになりそうなことが起きてからはルームメイトが行ってくれていたが、それでも最後の晩はリーナが点けた。
それくらい印象深い魔法なので、教科書を見ずとも詠唱式は頭に入っている。
リーナは杖を床に置く。非常に初歩的な魔法のため、杖を使わずとも行使できる。少し燭台から離れて、人差し指以外の指を折りたたむ。
「【この世を等しく見つめるものであれ】」
どれほど熟練した魔法であっても、詠唱安定は必要だ。
「【星火よ闇を打ち祓え】」
指先に火が灯るイメージ。
自分の人差し指はさながら一本のマッチで、それ以外の挙動は許されない。
「【詠唱安定:点火魔法】」
指先に0.1㎜ほどの間隔を空け、紅い魔法陣が出現する。熱いという感覚はない。体から魔力を吸収し、そして熱エネルギーとして周囲に還元する。
蠟燭の芯に触れるようにして火を移す。小さな火は膨らんでいき、やがて光源が2つになった。その調子でイメージを崩さないように、全ての蝋燭に火を移していく。
あとは指を離し、指先の火に息を吹きかけて消す。人差し指への強固な思い込みが解かれるための補強に過ぎないのだが、ルームメイトがいつもこれをやっていて密かに憧れていたのだ。指先から立ち昇る僅かな煙を、指を振って掻き消す。
そのとき、リーナは朝から何も食べていないことに気が付いた。この程度の明るさで調理は無理だろうが、果物か野菜でもあれば就寝前の空腹には事足りる。
炊事場とリビングルームの間に仕切りはないので、燭台を持って調理台へと移動し、背面にある食糧庫の扉を開けた。果物や保存の効く食材が多数置いてあった。林檎、馬鈴薯、人参、小麦、ニシンの塩漬け。リーナは林檎を一つ手に取ると、齧りながら戸を閉めた。
収穫祭を目前に控えてるとはいえ、一人で数カ月は持ちこたえられそうな量だった。小麦は製粉所に持っていかないといけないので、明日持っていこう。
芯の周りを巧妙に齧り、可食部がなくなった林檎をゴミ袋に入れる。種を取っておいてもリーナには育てられない。
リーナは燭台を持って部屋を移動する。かつて自分が暮らしていた部屋に入ると、昔と変わらないレイアウトで物が置いてあった。寝台にはきちんと布団が敷かれていた。燭台を部屋の机の上に置き、しわにならないように服を全て脱いでからハンガーにかける。息をかけて火を消してから、布団の中へ潜り込む。9月末ということもあり、やけに中が冷たい。
しばらく寒さに悶えていると、長旅のせいも相まってか、割と楽に意識を手放した。
鶏の鳴く声が空気を切り裂き、丘の上の家まで届く。すっかり陽も出ているようで、自然に眠気が引いていった。
目を覚ましたリーナは、目視した天井が狭苦しい2段ベッドのそれではないことに驚き、次に布団の感触が違うことに驚いた。アンネ、と同室の少女の名を口に出したところで、すでにそれらが過去のものとなってしまったことに気が付いた。今は魔女学校の寮室でも、道中の宿屋でもないのだ。師匠であるアリスもおらず、完全に一人の生活であることを。
感傷的に現実を消化しようが、事態は一向に好転しない。リーナはベッドから出ると、そのままリビングルームに向かう。乱雑においてあるバッグのうち、一番大きいものの口を開け、中から手ぬぐいと下着、そして替えの制服を取り出す。それらを持ち、台所に行って水を出し、手ぬぐいを絞る。
手が真っ赤になるほどきつく絞った手ぬぐいを肌に当てる。朝の冷たい空気と水の冷たさに顔をしかめる。お風呂に入るためには薪を割ったり、くべたりしなければならない。作業の面倒臭さよりも、こうして耐えている方が圧倒的に楽なのだ。流石に今晩はお風呂に入らなくてはならないが。
あらかたの箇所を拭き終わると、リーナは用意していた服に着替える。
食糧庫から林檎を取り出し、水を汲んでテーブルに座る。
食べ終わると、林檎の芯をゴミ袋に入れ、コップを軽くすすぐ。
一気に暇になったリーナは、今度は荷解きをしようと思い立つ。服を鞄から取り出し続ける面倒さが、この作業のかかる手間を上回ったのだ。
教科書の類は棚に、制服や外出用の洋服はハンガーにかけるか箪笥にしまう。
私物と言えばそのようなもので、あとは蓄光石などの日用品とルームメイトが出立時にくれたネックレスくらいか。あとは学校から支給される給料。総支給額の約半分を貯めこんでいる。
私物はもともと持たない性なので、あまり浪費はしなかった。精々が喫茶店に行く程度。それすら月に一度だが。
日用品に関しては、居場所がわかるものは以前置いていた箇所に置き直し、自室で使いそうなものは棚にしまうか机に置く。
そうして、あっという間に荷解きは終わった。学校では授業が一つ終わっただろうか。リーナは少し休憩した後、自室に戻って教科書に向き合った。
教科書で、昨晩行使した【点火魔法】のページを見る。初歩的な魔法なので、あらゆる区分の魔法の中で一番初めに学習する。初めて行使した時は、熱の制御が不慣れだったために指先を火傷してしまった。
元来のテキスト、教師の説明、そして自分なりに書き込んだ記述を見る。
魔法史において、この魔法が一番初めに発明されたといわれる。人類は道具を使わずにマッチの機能を行使した。『未熟な魔法は科学の再現に過ぎないが、いつか科学が魔術を再現するだろう』。点火魔法を構成したキュリア・アークライトの言葉だ。イメージを主体とする現代魔術は、物理法則を主体とする科学技術を凌駕しうる。
リーナはこの記述を初めて見たとき、とんでもない空想をした。魔女見習いであるリーナからすればおかしな、しかし大半の一般人からすれば少しだけ現実味のある妄想。
もしこの世界に魔法が存在しなかったら?
文明は今よりも発達していないのだろう。この小さな火がなければ、人類は今も日没とともに眠っているのかもしれない。
リーナは少し懐かしいことを思いながら、蓄光石に手をかざす。丁度雲が太陽を隠し、家が僅かに暗くなる。蓄光石が、仄かに明るみを帯びた。
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