第220話 名前呼び

 百瀬ももせ先輩が許してくれるのなら——。

 そんなふうに逃げるわけにはいかないことは、あかりも理解していた。今この瞬間だけはいかなる理由であろうとも嘘を吐いてはいけないことも。


 それでも、あかりは喉に何かがつっかえているかのように言葉を発することができなかった。


(私は、でもっ……)


 ——彼女の心の声はもちろんまさるには届いていない。

 だが、葛藤かっとうしているのはわかった。


「俺のことは気遣わないで、本音で答えてくれていいぞ」

「っ——」


 ハッと顔を上げたあかりに、優は安心させるように笑いかけた。


「つーか、そうしてくれると嬉しい。俺は七瀬ななせの本心が聞きたいし、多分ここで変にお互いを気遣ってもどのみちうまくいかなくなると思うんだ」

「……はい」


 ——あかりは噛みしめるようにうなずいた。たくみにも言われたことだった。

 理屈としてはそれが正論だとわかっていたが、どうしても一歩踏み出せなかった。


 それを彼の立場で言える優のことをすごいと思ったし、その真摯しんしさが彼女の心に残っていた最後の壁を壊した。


「私も、百瀬先輩とは別れたくないですっ……!」


 あかりはしぼり出すように言った。

 優が目を見張った。


(最低だよね、私……)


 常識的に見れば別れるべきだろうし、香奈のことを割り切れていないのに優とも別れたくないなど、なんて浅ましい女なのだろうと自分でも思った。

 いくら二人の性別が別々だったとしても、だ。


 それでも、それこそが嘘偽りのない本心だった。これからも優と一緒に過ごしたかった。

 ——何より、離れたくなかった。


「……そっか。良かった」


 優が表情を緩めた。嬉しさがにじみ出ている、はにかんだような笑みだった。


「っ……!」


(受け入れて、くれたんだっ……)


 あかりの目元がじんわりと熱くなった。さまざまな感情がない交ぜになったそれは、今度は引っ込んでくれなかった。

 泣き顔を見せたくなくて、下を向いて鼻をすすった。


 衣服のこすれる音がして、視界が薄暗くなった。

 優の匂いだ——。

 そう思ったときには抱きしめられていた。


「百瀬、先輩っ……!」


 あかりは遠慮がちに彼の胸に顔を埋めてしゃくり上げた。

 優しく頭を撫でられ、ますます涙が溢れてしまった。




 泣き止んでから少し経ったころ、あかりは優の腕から抜け出した。

 離れたかったのではなく、正面から顔色を窺うためだった。


「……本当にいいんですか? また、百瀬先輩を傷つけることになるかもしれないのに」

「あぁ」


 あかりの念押しに対して、優は迷いなくうなずいた。


「そうと知ってるだけでだいぶ心持も違うしな。難しいかもだけど、逆に七瀬こそ罪悪感とか覚えすぎんなよ。俺は自分が二番目だってことを承知の上で、それでも付き合っていたいと思ったんだから」

「はい……」

「それにさ、実は結構燃えてるんだよ」

「燃えてる?」

「おう。俺が必ず白雪しらゆきのこと忘れさせてやるって」

「えっ——」


 あかりは口をポカンと開けて固まった。軽い口調のわりには、あまりにも情熱的な言葉だった。

 遅れて優も自分が何を口走ってしまったのか気づいたらしい。


「「っ……!」」


 揃って頬を染めることになり、何とも言えないむず痒い空気が流れた。


「……言っとくけど本心だからな」

「だ、だから困るんです……!」


 あかりはたまらず顔を覆った。


 ——狙ったわけではなくただ本音がこぼれ落ちてしまっただけだが、優は初々しいあかりの反応を見て今が攻め時だと判断した。


「あ、あとさ七瀬」

「……なんですか?」


 あかりが指の隙間から視線を向けてくる。


(か、可愛すぎる……!)


 叫び出したい衝動を抑えながら優は続けた。


「もし嫌じゃなかったらさ、その……あ、あかりって呼んでもいいか?」

「っ……!」


 あかりが瞳を丸くさせた。本来の白みを取り戻しかけていた肌が再びじわじわと桜色に染まっていく。

 それでも優から目線を逸らすことなく、コクンとうなずいた。


「えっ、ま、マジでっ?」


 信じられない思いで尋ね返すと、彼女は消え入りそうな声で「はい……」と言った。


「マジかっ……!」


 優は拳を握りしめた。

 喜びを噛みしめるのと同時に、自分のことも名前で呼んでほしいと思った。


(でも、今はまだちょっと抵抗ありそうだな……)


 諦めかけたその時、


「……あの、私も名前で呼んだほうがいいですか?」

「えっ、呼んでくれんのか⁉︎」

「も、百瀬先輩が望むなら」

「じゃあ頼むっ!」


 優は勢いよく頼み込んだ。彼女から申し出てくれたなら躊躇ためらう理由などなかった。


「うーん……」


 あかりは少し考えるそぶりを見せてから、ポツリと言った。


「——優君」

「っ……!」


 優はギシッと固まった。


「嫌、でしたか?」

「へっ……?」


 あかりの不安そうな表情を見て、優は慌てて首を振った。


「あぁ、違う違うっ! ……まさか、君付けで読んでくれるとは思わなくて」

「個人的にですけど、先輩呼びよりもしっくり来たので。もし優先輩のほうがよければ——」

「いや、君付けにしてくれっ!」

「は、はい。わかりました」


 うなずくあかりは若干頬を引きつらせていたが、引かれていることも気づかないほど優は舞い上がっていた。

 先輩呼びも捨てがたいが、君付けのほうがより親密感が高いような気がした。


 何よりあかりが自発的に王道ではないものを選んでくれたのが嬉しかった。

 彼女もしっかりと考えてくれた証拠だからだ。


「サンキュー……あかり」

「はいっ……優君」


 二度目のほうが恥ずかしげだった。

 優はたまらず迫った。


「い、いいよな?」


 両肩に手を置くと、あかりの頬がポッと染まった。

 彼女は瞳を潤ませて小さく首肯し、瞼を閉じてついっと顎を上げた。


(キス顔、やべえ……!)


 優は隕石のように突っ込んで行きそうになるのを必死に抑えつつ、柔らかくて熱を持った頬に手を寄せて唇を奪った。

 一度で満足できるはずもなく、二度、三度と唇を合わせる。


 顔を離すと、あかりは目を閉じたまま羞恥に頬を染めてぷるぷる震えていた。

 普段は冷静な彼女の小動物のような所作が可愛くて、優はその華奢な体を腕の中に抱きしめた。


「っ——」


 あかりがビクッと体を震わせて腰を引いた。

 優は勢いよく抱きしめたあまりに自分の元気になっていたソレを押し当てる形になってしまっていたことに気づき、青ざめながら飛び退いた。


「わ、悪い! これはその、違くてっ、いや、違くねえけど……!」


 優が必死に弁明をしていると、あかりが小刻みに体を震わせた。

 ——笑っていた。


「……えっ?」

「ごめんなさいっ、あまりにも必死だから……!」


 あかりはくつくつと笑いながら涙を拭った。


「……気持ち悪いとか思わねえのか?」

「はい、男の人がそうなってしまうのは知っていますから。こちらこそすみません、大袈裟に反応してしまって。驚いてしまっただけなので気にしないでください」

「そうか……」


 優はホッと息を吐いた。よかった。引かれたわけではないようだ。


「ならさ……もう一回、抱きしめてもいいか?」

「ど、どうぞ」


 あかりがそろそろと両手を広げた。

 優は若干引き腰になりつつ腕を背中に回した。


「……今の俺じゃ説得力皆無かもしれねえけど、無理やりとかそういうのは絶対しねえから」

「それはわかってますよ。そういう人だから好きになったんです」

「……えっ?」


 優は思わず腕の中を見下ろした。

 あかりは耳まで赤かったが、視線を逸らすことなくにっこりと笑った。まるで、これが私の本心ですと念を押すように。


(尊すぎる……!)


 優は気がついたときには再び力強く抱きしめていた。

 下半身の窮屈さにまた押し付けてしまっていることに気づいたが、それ以上に今は離したくなかった。

 ——あかりも、離れようとはしなかった。

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