第217話 あかりの好きな人
周囲の人間に好奇の目で見られるのも気にせず、あかりは手を引かれるまま歩いていた。
おそらくこれから犯されるというのに、不思議と恐怖は湧いてこなかった。
「——
最初にその声が聞こえたとき、幻聴だと思った。
そして、そんな夢のような展開を望んでしまう己の浅ましさに嫌気が差した。
「七瀬、待てって!」
二回目はもっとはっきりと聞こえた。
あかりの手首を掴んでいた男性が振り返り、ビクッと体を揺らした。
釣られるようにして視線を背後に向け、
「えっ……」
あかりは呆然として固まった。
「
大汗を垂らして走ってきたのは、二度と話しかけられることはないだろうと思っていた
「間に合ったかっ……その人は?」
「し、知らない人です」
「知らない人、な」
——
状況から察しはついていたが、どうやら優の読みは当たっていたようだ。
「失礼ですが、彼女とどこへ?」
「て、手を怪我していたから治療をと……」
「どこで会った?」
優はあかりに問いかけた。
「えっと、駅の広場です」
「ならここに来るまでに最低二つの薬局の前を通ったはずです。お気づきになりませんでしたか?」
「し、知らん!」
「そうですか。では、ここからは僕が連れて行きますから。いいですね?」
「あ、あぁ」
優が携帯を取り出しつつ睨みつければ、男は額に脂汗を浮かべつつ逃げ去っていった。
「ふぅ、あぶねー……」
優は膝に手をつき、深呼吸を繰り返した。
怒りのおかげで撃退できたが、今更になって見知らぬ男性と対峙していた恐怖がやってきていた。ただでさえ全力疾走をして酷使していた心臓が悲鳴を上げている。
「どうして……⁉︎」
あかりは呆然とした表情を浮かべていた。
優は息を整えつつ答えた。
「駅まで来たところでさ……泣き腫らしていた高校生らしき女の子が、中年のおっさんに連れられていったって話が聞こえてきたんだ。なんか直感というか……とにかく七瀬だって思ったんだ。間に合ってよかったぜ」
「駅に来たのは偶然……ですか?」
「いや、七瀬を追っかけてきたんだ」
「ど、どうして?」
「ちょっと確かめたいことがあってな」
優は照れ笑いを浮かべた。真剣な表情であかりを見据えた。
動揺で瞳を揺らす彼女に落ち着く暇を与えず、直球で問いかけた。
「間違ってたら悪いんだけどさ。七瀬が好きなのってもしかして——」
その人の名前を口にした瞬間、あかりは大きく瞳を見開いた。
彼女は何も言わなかった。
——何よりもその驚きに染まった表情が、優の推測を肯定していた。
「やっぱりそうだったのか」
「ど、どうして……!」
あかりは
(やっぱり
優は友人に感服した。
何せ、あかりの好きな人を見破ったのは巧だったのだから。
年甲斐もなく泣いた後、優は巧と
それから二、三十分ほどしたころだろうか。巧から電話がかかってきた。
『期待をさせて違ったら申し訳ないんだけど、七瀬さんが優を振った原因がわかったかも』
開口一番、巧はそう言った。何やら切羽詰まっている口調だった。
失意の中、優は半ば条件反射で聞き返していた。
「何?」
『信じられないかもだけど、七瀬さんは多分香奈のことが好きなんだと思う』
「っ……」
優は息を呑んだ。
あり得ない、とは思わなかった。
無意識のうちに探してしまっているのか、好きな人のことはよく視界に入ってくるが、あかりは大抵の場合は香奈と一緒にいた。
他の女友達といることはあれど、特定の男子と話しているのはほとんど見たことがなかった。
たとえ友達だったとしても、抱いちゃいけない感情を抱くことくらいあるんじゃないですか——。
あかりの言葉が脳裏に
あかりが香奈に辛く当たったと聞いて、ますます確信は強くなった。
これまであちこちに点在していた違和感の数々が、脳内でくっきりと一つの
好きな人が忘れられないのに他の男とキスまでするというのはあかりのイメージと合わなかった。
だが、想いを寄せていた相手が同性で、しかも彼氏持ちの親友なら話は別だ。
『本当に七瀬さんのことが好きなら、なりふり構っていられる状況じゃないと思う。ちゃんと彼女のことを考えた上で、優がすべきだと思うことをしなきゃいけないときだよ。好きな人が弱っているときに格好つけも何もないんだから』
巧の言葉には、確かにそうだと思わせる説得力があった。借り物ではなく彼自身の経験から出た言葉なのだろう。
友人に背中を押されるまま、優は取る物もとりあえず家を出た。
あかりは、香奈との電話時にはまだ優の最寄り駅にいたようだった。
一心不乱に駅に向かい、主婦らしき者たちの会話を聞いて彼女のことだと直感し、ここまで駆けてきたのだ。
自暴自棄になっていたあかりを止められたことに安堵すると同時に、優は己がすべきことも見えていた。
「七瀬。
「えっ? で、でも、私はもう香奈に会う資格なんて——」
「友達に会うのに資格なんているかっつーの。第一このまま絶交なんてなったら、お互い前に進めねえだろ。七瀬のためだけじゃなくて、白雪のためにも二人には絶対話し合いが必要だ」
強引であることもただの自己満足であることも自覚していた。
それでも、あかりは一刻でも早く香奈に会わなければならないと直感していた。
おそらく香奈との関係を修復できずに終わったら、彼女の精神は持たない。
好きな人からは友達だと思われていて、なおかつその好きな人の自分ではない恋人とのイチャイチャを悪意なく見せつけられていたのだ。
優は同性愛者ではないため完全に共感することはできないが、あかりの精神的な負担がどれほどのものだったのかは想像に難くないだろう。
「でもっ、香奈はもう私になんて会いたくないはずです……!」
あかりの瞳に再び涙が浮かんだ。
「そうなったときはそうなったときだろ。どのみちこのままじゃ元には戻れねえんだ。だったら全部白雪にぶつけるしかねえんじゃねえか? 好きだっていう想いも含めて」
「えっ……」
あかりがポカンと口を開けて固まった。
優はふっと表情を和らげて続けた。
「だって、好きっていう気持ちを伝えねえとこれまでの七瀬の行動に説明がつかねえだろ」
「そ、それはそうですけどっ。でも、気持ち悪がられたら——」
「そんなことにはならねえんじゃねえか? 白雪ってあんまりそういう偏見ないと思うし。
あかりは何も言わなかった。
しかし、それこそが彼女も優の意見を肯定している証だろう。
「俺は七瀬の気持ちを完全には理解できねえけど、そういう人が一定数存在するのは事実だし、少数派ってだけで変でも悪でもねえだろ。同性っていう壁を乗り越えられるほど好きだったってだけの話じゃん。それだけ人のことを好きになれるってすげえ良いことだと思うし、絶対白雪からしても嬉しいことだと思う。それに、もし七瀬が傷つくようなことがあったら俺が全力で慰めるからさ。頼りねえかも知んねえけど、それじゃダメか?」
優が照れたように笑うと、あかりの瞳に再び透明な雫が盛り上がった。
「なんで……!」
あかりが絞り出すように叫んだ。
「なんでまだ、優しくしてくれるんですか……⁉︎」
「なんでってそりゃ……」
優は首筋をポリポリと掻いた。
——好きな人が弱っているときに格好つけも何もないんだから。
巧の声が脳内に響いた。
「七瀬のことがす、好きだからに決まってんだろ」
「っ……!」
あかりが再び瞳を真ん丸にして固まった。
今日はよくこの表情を見るな、と優は思った。
「そりゃあショックは受けたけど、男ってバカだからさ。好きな女の子が困ってたら力を貸してヒーロー気取りたくなるもんなんだよ」
優が困ったように笑うと、あかりの頬を一筋の雫が伝った。ほんの少しだけ迷ってから、優は包み込むように震える華奢な体を抱きしめた。
あかりはビクッと大きく体を震わせたが、逃れようとはしなかった。
(小さいし細い……こんな頼りねえ体でずっと耐えてきたんだな)
「大丈夫だ、七瀬」
優は呪文のように大丈夫、大丈夫と繰り返しながらあかりの頭を撫でた。
彼女は彼の胸に顔を埋め、
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