第216話 親友の拒絶

 あかりはまさるの家から最寄り駅に向かって歩いていた。足取りは力なく、うつむきがちだ。


「あっ、すみません……」


 すぐ近くに靴が見えて、あかりは慌てて横によけた。

 自らも歩きスマホをしていた大学生らしきじゃらじゃらとネックレスをつけた男は、舌打ちをしながら去っていった。


「……はぁ」


 あかりはため息を吐いた。


百瀬ももせ先輩……)


 彼女の頭を支配しているのは優だ。

 今し方通りすぎた男の記憶など跡形もなく消え去っていた。


 浮かんでくるのは後悔だった。あのときこうしていればよかった、ああしなければよかった——。

 考えるべきではないとわかっていても、それらは妖怪のように取り憑いて脳内をぐるぐる回った。


 もう二度と、あかりが優と笑い合える日は来ないだろう。

 好きな人がいると告げたとき、彼は悲しげな表情を浮かべていた。怒らなかったことが、どれだけ彼の心が傷ついたのかを物語っていた。


(本当に馬鹿だな、私……)


 優を傷つけ、彼との未来まで潰した。

 もしも選択を間違えていなければあり得たかもしれない、彼との幸せな日々はもうやってこない。


「っ……」


 視界がにじみ、あかりは袖でゴシゴシ目元を拭った。


 初めて好きになった男子だった。

 たくみ誠治せいじ、同級生でいえば晴弘はるひろのような特別な何かは持ち合わせていないかもしれないが、一緒にいてあれほど自然体で楽しめる人はこれまでいなかった。


 恋人なんだからそれくらいは当たり前——。

 スキンシップを受け入れるときのあかりの決まり文句だが、あんなものはただの照れ隠しだった。

 しっかりと恋愛対象として好きになっていなければ、たとえ恋人であってもキスは愚か、ハグすらも許さなかった。


 そんな奇跡とも呼べる縁を切ったのは、他でもないあかり自身だ。

 そして、彼をも上回るほどあかりの心を奪った好きな人と結ばれる未来もあり得ない。


(お先真っ暗だな……)


 あかりは自嘲の笑みを浮かべた。笑いながら泣いた。

 駅が近づくにつれ、いよいよ涙が止まらなくなった。


 とても電車に乗れる状況ではない。

 駅前の広場の木々に覆われて周囲からは見えづらいベンチで、あかりは声を殺して泣き続けた。




 数十分か、数分か、果たして数十秒だったのかはわからない。

 いつの間にか涙は止まっていた。体内の水分を全て吐き出してしまったのだろうか。

 少しだけ気分が楽になっていた。感情も一緒にあふれてくれたのかもしれない。


 あかりは決めた。明日、退部届を出そうと。

 この時期に一軍のマネージャーが辞めるなど迷惑千万だろう。

 それでも、これ以上まともに活動できるとは思えなかった。きっと所属しているほうが迷惑をかけてしまう。


「……よしっ」


 未練を断ち切るように勢いよく立ち上がったその瞬間、携帯が着信を告げた。香奈かなからだった。

 出たくない——。

 そう思ったときには、なぜか通話ボタンを押していた。


「……もしもし」

『もしもしあかりっ? 巧先輩から聞いたけど、百瀬先輩と別れたって本当⁉︎』

「うん。別れたよ」

『っどうして? だって、あんなに仲良さそうにしてたのに——』

「別に普通だったよ。まあ、仲良くないことはなかったけど、告白を受けたときも別にそんな好きじゃなかったし、付き合ってても別に男性として好きにはならなかったから別れただけ」

『嘘だっ!』


 香奈が大声を出した。


『あかりは絶対百瀬先輩のこと好きになってたよ! ねぇ、もしも何かあったのなら——』

「香奈に何がわかるの⁉︎」


 気がついたときには叫んでいた。

 電話口の向こうで香奈が絶句する気配がした。


「私が誰を好きだったとか、なんで香奈が断言できるのっ? 私、そんなこと一回でもはっきりと言った⁉︎」

『っ……あ、あかりっ。本当にどうしたの?』


 戸惑いの気配が伝わってきた。


『何かあったのなら聞くから——』

「いい! 香奈に聞いてもらうことなんかない! どうせ香奈には私の気持ちなんてわからないからっ!」


 あかりは返事も待たずに電話を切った。

 画面が一瞬暗くなった後、香奈のメッセージツールのアイコンであるサッカーボールが中央に表示された。


 サッとあかりの血の気が引いた。


「私、なんで……!」


 ガタガタと震えた。携帯が手から滑り落ちるが、そんなことは全く気にならなかった。

 香奈は何も悪くない。ただ親身になって心配してくれただけだ。


(それなのにあんな酷いこと言って……最低だ……!)


 香奈は基本的に元気で明るい女の子だが、繊細さも持ち合わせている。きっと深く傷ついたことだろう。

 他の誰でもない、あかりが言葉のナイフで刺したのだ。


「なんでっ、なんで……!」


 あかりはボロボロと涙をこぼし、固く握りしめた拳でベンチを叩いた。

 痛かったが、手を止められなかった。もっと痛みを感じていたいとさえ思った。


「き、君っ。何をしているんだい?」


 そんな焦った声とともに、振り上げた手首を掴まれた。

 四十代か五十代くらいの、太った中年の男性だった。冬が近づいているというのに額に脂汗を浮かべている。


「……放っておいてください」

「そんなわけにはいかないよ。あぁ、もう血が出てしまっているじゃないか。こんなことをしていては警察沙汰になってしまうかもしれないし、悪い人に捕まるかもしれない。とりあえず、手の治療のために休めるところに行こう」


 優しい口調とは裏腹に、男性は強引にあかりを立ち上がらせた。


「ほら、携帯だよ」

「……ありがとうございます」


 携帯をポケットにしまうと、男性はあかりの手首を引っ張って歩き出した。

 引きずられるように歩き出した彼女を見て、男性はニヤリと笑った。


 偽善であることは目に見えていた。そして、休めるところがどこなのかもあかりはわかっていた。

 きっとこれは罰なんだ。自分を愛してくれた人、心配してくれた人を傷つけた罰として、神様がこの男性を寄越したのだ。


(だったら抵抗しちゃいけないよね……)


 あかりは笑みをこぼし、自らの足で男性の後をついていった。

 ——もう、何もかもがどうでもよかった。

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