第215話 ごめんなさい

 電車に揺られているまさるの心臓は、電車のガタゴトという走行音ほど大きく、それより早く脈打っていた。

 あかりが肩に頭をもたれかけさせてきたから、ではない。彼女は背中を丸め、膝の上に置いた荷物をじっと見つめていた。


 優の家までの道すがら、あかりのテンションは元通りどころかどんどん暗くなっていった。

 時々、何か痛みに耐えるような苦悶の表情すら浮かべていた。


七瀬ななせ、ちょっと体調良くないか? 今日はやめておくか?」

「いえ、大丈夫です」


 あかりは短く答えてうなずいた。すぐに唇をギュッと結んだ。

 とても大丈夫とは思えなかったが、一人にするのも躊躇われた。もし何かあるなら自分がそばに付いていてあげたいとも思った。


 問いかけてから程なくして最寄り駅に到着した。

 幸い、駅から家まではほんの数分の距離だ。予定通り、家まで連れて行った。


 部屋に入れば、積まれているライブのDVDは目についたはずだ。

 それでもあかりの顔色は晴れなかった。いよいよ只事ではない。優は心配になった。


「七瀬。本当に大丈夫か?」

「っ……」


 ——優に顔を覗き込まれ、あかりは唇を噛みしめてますますうつむいた。

 優しくされればされるほど、彼女の心は締めつけられていた。視界がにじんだ。


百瀬ももせ先輩っ……」


 拳を握りしめながら震える声で小さく口にした瞬間、あかりの胸の奥からこみ上げる感情があふれ出しそうになった。

 大きく深呼吸をした。これから口にすることはとても辛いことだ。想像しただけで胸が張り裂けそうになる。


 それでも、このまま優をことのほうが苦しかった。あかりの心はもう限界だった。


 唇を噛みしめる。血の味がしたが、そんなものはどうでもよかた。

 優に体を向け、深々と頭を下げた。


「ごめんなさい、私と別れてください……!」

「……えっ?」


 優はポカンと口を開けて固まった。

 あかりは彼のほうを見ることができなかった。視線を下げたまま、震える声で続けた。


「好きな人のことが、どうしても忘れられないんですっ……!」


 あかりの頬を一筋の涙が伝った。


「……七瀬、好きな人いたのか?」


 優の言葉は責めるというよりは、疑問に思ったことを尋ねただけの純粋なものだった。

 あかりの胸にずきりと鋭い痛みが走った。走ってこの場を逃げ出してしまいたかった。


 だが、それは許されないことだ。

 あかりには優が望む説明をする義務がある。ポツポツと話し始めた。


「百瀬先輩が告白してくれたとき、私には他に好きな人がいたんです……でも、その人とは付き合えないこともわかっていましたっ……」


 あかりは鼻をすすった。


「だからっ、その人のことを忘れるために百瀬先輩とお付き合いをしたっ。私は先輩の好意を利用したんです……!」

「……俺と付き合ってくれたのは、寂しさや苦しさを埋めるためだったのか?」

「っ……ごめんなさい……!」


 あかりは床に地面をこすりつけんばかりに頭を下げた。


「あっ、悪い! 別に責めてるとかそういうんじゃねえんだけどっ……」


 優は慌てて弁明したが、言葉は続かなかった。視線を宙に彷徨さまよわせた。

 伝え方に迷ったわけではない。そもそも言葉が見つからなかったのだ。


 沈黙が続けば、脳は嫌でも状況把握に努める。

 優は自嘲の笑みをこぼした。


(俺は、スペアでしかなかったのか……)


 あかりが最初から自分のことが好きで付き合っていたわけではないことは、告白の返事をもらう際に聞いていた。

 それでも、ここ最近の彼女の態度からある程度は異性として好いてくれていると確信していた。そうでなければキスなどしてくれるはずもないと思っていた。


(でも、それは俺の思い上がりにすぎなかったってわけだ)


 別に好きな人がいてその人のことを忘れるために自分と付き合っていたこと、そして未だにその人のことを忘れられないでいること。どちらの事実にもショックを受けていた。

 怒りは湧いてこなかった。ただただ悲しかった。


 優は拳を握りしめ、眉を伏せた。

 絞り出すように言った。


「最近、俺は七瀬との距離を縮められてると思ってた。けど、お前の中で俺は一番になれてなかったんだな……」

「っ……!」


 ——あかりはビクッと体を震わせた。

 違うと叫びたかった。でも、これ以上優を傷つける資格があるはずもなかった。

 感情としては否定したくても、事実は彼の言う通りだからだ。


 ともに時間を過ごすたびに、あかりの優に対する想いは強くなっていった。比例するように、罪悪感も強まっていった。

 好きになればなるほど、関係が進展すればするほど、苦しさも増していった。


 ハグもキスも本当は拒絶すべきだったし、もそも付き合うべきではなかった。せめて、好きな人が忘れられないのだと自覚した時点で別れていればよかったのだ。

 優のことがファーストキスを捧げても良いと思えるほど好きだったとしても——いや、そうであったからこそ、その場の感情に流されるべきではなかった。


 そうすれば、彼をここまで傷つけることもなかっただろう。

 今の状況は、あかりがポッカリと空いた自分の心の穴を埋めるために彼の想いを安易に受け取ってしまった結果なのだ。


「本当にごめんなさい……!」


 あかりは最後に深く頭を下げ、立ち上がった。優に背を向けて歩き出した。

 これ以上、彼の前にいる資格があるとは思えなかった。


「まっ——」


 優は咄嗟に腕を伸ばしかけた。

 だが、彼女をここに留めるべき言葉も理由も見当たらなかった。優は腕を下ろし、再び自嘲の笑みを浮かべた。


(第一、引き留めてどうすんだって話だよな……)


 自分が誰かの代役だったという事実は、優にボディーブローのようにじわじわと精神的なダメージを与えていた。

 遠ざかっていくあかりの気配にホッとしている自分もいた。


 部屋の扉が閉まってから少し経って、玄関の扉を開閉する音が響いた。

 こんなに大きかったっけ、と優は思った。


 防犯の観点から鍵は閉めにいくべきだが、とてもそんな気分にはならなかった。


「っはぁ……」


 優はベッドに身を投げ出し、腕を額に当てて深くため息を吐いた。

 もう、七瀬との関係も終わりなのか——。

 瞳から膨れ上がった雫が、目元を伝って静かに枕を濡らした。

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