第177話 それぞれの長所
何が起こったのかは見れば察しがついたのだろう。振り返った
誠治は彼女を背に隠し、男を鋭い目つきで睨みつけた。
「あんた、今こいつに触れようとしたな⁉︎」
「はっ? そ、そんなの知らない! お、俺はただ伸びをしただけ——」
「はぁ? っざけんな!」
誠治の怒声に、どもりながら弁明していた男はビクッと体を震わせた。
「んな言い訳通じるか! 明らかに伸びの体勢じゃなかっただろ! 今思いっきり——」
「誠治。落ち着いて」
「巧っ、でも——」
「いいから。誠治は
巧は静かな、しかし力強い口調で訴えた。
「……わーったよ」
巧が絶対に引かないことを悟ったのか、誠治は渋々といった様子で男を解放した。
彼が冬美を連れて奥へ下がるのを見届けて、巧は男を振り返った。
手首をゆっくりとひらひらさせて「ったく、痛えなぁ」と呟いている。
余裕そうに振る舞ってはいるが、額には脂汗が浮かび、瞳は忙しなく左右に動いていた。
彼が痴漢行為を働こうとしたのはもはや明白だろう。
後ろめたい人間ほど強気な姿勢に出ようとする傾向がある。
「おい——」
「先ほどはウチの執事が失礼いたしました」
文句を言われそうな気配を察して、巧は先手を打って頭を下げた。
出鼻をくじかれた形となった男は「うっ」と言葉を詰まらせた。
巧はせっかくつかんだペースを乱されないよう食い気味に、しかしゆっくりと一言一言区切るように続けた。
「お客様にそのような意図はなかったのかもしれません。ですが、今後当店のメイドや執事への接触が
「……ちっ」
男は舌打ちをした。何も言い返してはこなかった。
「……気分が悪い。帰らせてもらう」
男はお金を机に叩きつけるように置き、肩を怒らせて教室を出ていった。
廊下に出た際、そっと安堵の息を吐いたのを巧は見逃さなかった。
追及はしなかった。
彼が冬美に触れようとしていたのはまず間違いないが、それを示す決定的な証拠はない。
そんな意図はなかったと主張されればそれまでであり、下手に問い詰めて逆上されても事だ。
ならば先手で謝ってペースを握った上で、痴漢行為自体ではなくそれを疑われるような行為をするなと言えば、罪の意識のある向こうは引かざるを得ないと巧は考えた。
結果として、それは期待以上の結果をもたらした。
「大変お騒がせいたしました。この後も引き続きごゆっくりお過ごしいただければと思います」
巧は執事らしく優雅さを意識して一礼した。
他のスタッフもそれに倣ったことで、一件落着という空気がかもし出された。
ポツポツと再開された会話はやがて波のように広がっていき、すぐにガヤガヤとした賑やかな空間が息を吹き返した。
巧の声は大きいものではなかったが、一連の言動はシンと静まり返った室内ではよく響いていた。
当然、裏に下がった冬美と誠治の耳にも届いていた。
「さすがの対処能力ね、彼は」
「そうだな……」
誠治はハァ、とため息を吐いた。
「どうしたの?」
「いや……改めて巧はすげえなって思ってさ。俺は怒鳴ることしかできなかったし、もしもあいつが収めてくれなきゃもっと場は荒れてただろ」
誠治は視線を下げ、もう一度ため息を吐いた。
冷静に対処すべきであることはわかっていた。しかし、冬美に下劣なことをしようとして、なおかつそれを誤魔化そうとしていた男に対して、怒りを抑えられなかった。
巧の強い意志のこもった瞳に射抜かれていなければ、冷静になることはできなかっただろう。
(冬美を下がらせることだって忘れてたし……やっぱりこういうところなんだろうな。こいつが俺じゃなくて巧を選んだのは)
「……ハァ」
——三度ため息を吐いた誠治の心中は、冬美も察していた。何せ昨日の今日なのだから。
しかし、嘘を吐いてまで慰める気はなかった。
「そうね。事態を収拾するという意味では、確実な証拠のない状態で糾弾したあなたの判断はいいとは言えなかったわ」
「だよな。やっぱり——」
「でも、それが悪いとも思わないわ」
「えっ?」
誠治は驚いて顔を上げた。
冬美の口元はわずかに緩んでいた。
「冷静に対処できるのも、人のために全力で怒れるのも、どちらも長所よ。少なくとも私は嬉しかったわ。未然に防いでくれたことも、ああして怒ってくれたこともね。ありがとう」
誠治は視線を逸らして「おう」とだけ呟いた。
その耳はうっすら赤色に染まっていた。
冬美は揶揄おうとは思わなかった。
自分の立場的にそうすべきではないと思ったし、そうでなくとも彼女自身も人のことをどうこう言える状態ではなかったからだ。
「冬美ー、あったかいコーヒーでも……あっ、やっぱりアイスにしとく?」
綾は冬美と誠治を交互に見てニヤニヤと頬を緩めた。
冬美は彼女をギロっと睨みつけた。
「……ホットでお願いするわ」
「そう? まあそっちのほうがホッとするもんね!」
「……」
「睨みとかだけでもいいから何か反応してよ!」
綾が憤慨した。冬美は思わずクスっと笑みを漏らした。
「反応してほしいのなら、相応のレベルのギャグにすることね」
「もう、冬美は相変わらず手厳しいなぁ……はい、どーぞ」
両手でカップを受け取った冬美は、視線を逸らしながら「ありがとう」とつぶやいた。
「はいはーい」
コーヒーに対するだけのお礼でないことは、綾にも正しく伝わっていた。
彼女は「ついでにね」と誠治にもコーヒーを渡した後、
「天才メイド綾様がいるんだから、二人は思う存分休憩しちゃってて良いぞ!」
ウインクをしながらビシッと指を突きつけてから、表に戻っていった。
幸い、その後はシフトが終了するまで何事も起きなかった。
誠治は着替えるや否や、巧を連れ出した。
「巧、ちょっと相談があんだけど」
「何? とうとう告白するの?」
「……もうしたんだよ、昨日」
「……えっ、本当に?」
巧が声をひそめて聞いてくる。
誠治は頬に熱が集まるのを自覚しつつ、首肯した。
「まだ返事は保留されてるけどな」
「えー、そっかぁ」
巧は感慨深げに何度もうなずいた。
「冗談のつもりだったんだけど……勇気出したね。でもどうしたの急に? 文化祭一緒に回りたくなった?」
「……動機はちげえけど、相談内容はそういうことだよ」
「どう誘えばいいかってこと?」
「おう」
冬美が巧のことを好きだったの考えると少し複雑だが、彼が一番気の置けない親友であることに変わりはない。
それに、彼は
「うーん……久東さんの性格的に、回りくどいことするよりも直球で放り込んだほうがいい返事もらえそうな気がするな。元々誠治も策を弄すのは得意じゃないだろうし、下手に空回りして変に気まずくなるのが一番嫌じゃない?」
「まあ、そうだよなぁ」
かれこれ四年ほど片想いしているのだ。
冬美に対して最も有効な手が直球勝負であることは、誠治もわかっていた。
「それとも何か手伝おうか? 最初複数で行動して、どっかのタイミングで誠治と久東さんが二人きりになるようにするみたいな」
「……いや、いい。自分でやる」
誠治は少し考えて首を振った。
やはり巧も言ったように直球で勝負するべきだと思ったし、男のプライドとして、アドバイスはまだしも彼に直接力を借りたくはなかった。
「そっか。頑張って」
巧は気を悪くした様子もなく、またねと手を振って去っていった。香奈と合流するのだ。
また砂糖がばら撒かれて周囲が胃もたれしてしまう未来が容易に想像できたが、今の誠治にそんなことを気にしている余裕はなかった。
早くしなければ冬美は友達と回り始めてしまうだろう。
俺ならできると言い聞かせ、荷物の整理をしている彼女に話しかけた。
「な、なぁ冬美。ちょっといいか?」
「何かしら?」
「こっち来てくれ」
誠治は彼女を屋上へと繋がる扉まで連れていった。
一般客も入っているとはいえ、さすがに誰もいなかった。
冬美は何も言わない。
誠治は深呼吸をしてから向き直り、意を決して口を開いた。
「あー、なんだ。その……この後、どっか一緒に回らねえか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます