第157話 優しさの意味

(大好きだよって、やっぱりあかりに向けた言葉だったんだ……!)


 夕方六時を回り、紫色に染まり出した街をどこに向かっているのかもわからないまま走り続けた。

 やがて足に限界が来て、香奈かなはその場で膝に手をついた。


 きっと、涙と鼻水と汗で目もあてられない状態になっているのだろう。

 一人でいるときは必ずと言っていいほどナンパされてきたが、今は一人として声をかけてくる者はいない。


 立ち止まっていると、呼吸は整ってくる。

 精神はそうではなかった。むしろ、がむしゃらに走っていたときよりも脳に酸素が送られるため、嫌な想像が次々と脳内を駆け巡った。


たくみ先輩、あかりっ……!)


 再び視界が滲む。


(私が迷惑ばっかりかけてたから、愛想を尽かされちゃったのかな……)


「ふぐっ……!」


 その場にしゃがみ込み、嗚咽おえつを漏らす。


(そうだよねっ……後先考えられないくせに八つ当たりはする恋人なんてほしいはずがないもん……あかりのほうがずっと冷静で頭もいいんだから、そっち行っても仕方ないよね。あかりだってあんな魅力的な人には惹かれて当然だし……)


 漠然ばくぜんと思い描いていたたくみとの将来が、あかりとのこれまでの思い出が音を立てて崩れ落ちた。


 代わりとばかりに脳裏に次々と浮かんでくるのは、まだ見ぬ仲睦なかむつまじげな巧とあかりの映像だった。

 視線を合わせ、にこりと笑う。どちらからともなく指を絡めて——、


(イヤ……!)


 香奈は必死に首を振った。


「——白雪しらゆき?」


 名前を呼ばれ、のろのろと顔を上げた。


「……姫野ひめの、君?」

「うえっ? ちょ、お前どうした⁉︎」


 きっと香奈がひどい顔になっていたからだろう。蒼太そうたが慌てた様子を見せた。


「ううん、だ、大丈夫だから」

「いや、明らかに大丈夫じゃねえだろっ。と、とりあえずどっか入ろうぜ!」


 蒼太は強引に香奈の腕を引き、たまたま近くにあったカフェに入った。


「コーヒーでいいか?」


 香奈がこくんとうなずいた。


「ホットコーヒーを二つ、ミルクとシロップも二つずつお願いします」

「かしこまりました」


 注文を取りに来た男性の定員は、興味深そうな視線を香奈に送ってから去っていった。


 コーヒーを持ってきたのも同じ男性だった。蒼太は鋭い視線を送った。

 それに気づいたのか、香奈に視線を向けていた男性定員はそそくさと立ち去った。


「ミルクとシロップいるか?」


 蒼太が尋ねると、彼女はまたうなずいた。


「ほら、とりあえず飲め」

「うん……ありがとう」


 香奈はカップに口をつけて一口すすった後、ハンカチで顔を拭いてから、


「ごめんね、迷惑かけちゃって」

「気にすんな。俺が強引に連れてきたんだから」

「うん……」


 香奈はぼんやりとカップを見つめていた。

 その瞳に、再び雫が溜まっていく。


「ご、ごめんっ……!」

「いいよ、我慢すんな。俺は見てねえから」


 蒼太は窓の外に目を向けた。

 すぐに、すすり泣く声が左耳から入ってきた。


 五分ほどして、彼女は泣き止んだ。

 少し経ってから視線を戻した。目元が赤く腫れ上がっていたが、それでも美人だった。

 元々薄化粧なためか、ほとんどメイク崩れも起こしていない。


「大丈夫か?」

「うん……ごめん」


 香奈が申し訳なさそうに眉を下げた。

 蒼太はどう声をかけるべきか迷ってから、


「その……何があったのかとかって、聞いてもいいか?」


 香奈はふるふると首を振った。


「ごめん……せっかく助けてくれたのに」


 彼女の顔に浮かんでいる罪悪感の濃度が増した。

 蒼太は慌てて手を振った。


「いや、全然いいよ。人に話したくないことなんていくらでもあるだろうし。でもまあ、なんだ。とりあえず元気出せよ。話したくなったらいくらでも聞くしさ」

「うん……」


 香奈は頬を緩めた。

 蒼太が本当に自分のことを心配してくれているのが伝わってきた。


(しつこくて面倒なやつだと思ってたけど、生理の影響でウザく感じちゃってただけなのかも……)


 香奈の中で、蒼太の印象がガラリと変わった。


「優しいんだね、姫野君」


 香奈が笑いかけると、蒼太は頬を紅潮させ、


「も、もし俺が今優しくできているんだとしたら、それは相手が白雪だからだよ」

「……えっ?」


 香奈は目をしばたかせた。言葉の意味を理解できなかった。

 蒼太は首まで真っ赤になりつつも、彼女から視線を逸らさずに言った。


「実は俺、白雪のことが好きなんだ」

「っ……⁉︎」


 香奈の紅玉を思わせる赤い瞳が、真ん丸に見開かれた。

 蒼太は身を乗り出して、


「何があったのかはわからねえけど、俺なら白雪を泣かせることはしないし、全力で笑わせるって約束する。だから、俺と付き合ってくれ」


 香奈の涙の原因が男であることを、そしてその男が巧であることを、彼は見抜いていた。

 ——否、と言うべきだろうか。


 香奈は驚きを引っ込めた後、まだ半分以上残っているコーヒーのカップを両手で挟んでじっと見つめた。

 しばらくの間、時が止まったように彼女は動かなかった。

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