第156話 疑念

 月経前症候群、PMSの症状が現れてから二日後、生理が始まった。

 名称からわかる通り、PMSは生理の前に現れるもので、生理が来るとその症状は徐々に収まっていく。


 生理が始まるまでと始まった直後を含めた二、三日の間、香奈かなたくみに対してキツく当たってしまうことがあった。

 らんの勧めで薬を飲んだおかげか、初日の月曜日ほどひどくはならなかったが、体もだるかった。性的な接触も一切行わなかった。


 巧は「大丈夫だよ、気にしないで」と言ってくれていたが、香奈はだんだんと不安になっていた。

 というのも月曜日以降、彼は頻繁ひんぱんに誰かと連絡を取り合うようになったのだ。


 十日後に迫った文化祭準備のせいでともに過ごせる時間は減少した。その中でも携帯を見ていることが多くなった。

 難しい表情をしていたかと思えば、愛おしそうに笑ったりもしていた。


 香奈が甘えれば携帯を放り出して構ってくれるが、どこか隠したがっているようにも感じられた。

 香奈から画面が見えないところで携帯をいじる頻度も増えたような気がしていた。


 気になるのなら聞けばいい、と思う人はいるだろう。

 香奈もそう思った。

 しかし、基本的にお互いのプライバシーを尊重しているため聞きづらかったし、面倒な女だと思われてしまうのではないかと不安になった。


 頭の中ではそれくらいは問題ないほどの関係性を築けていると理解していた。

 しかし、どうしても聞けなかった。

 生理のせいで精神が不安定になっているのだとはわかっていたが、理解しているからと言って不安が払拭できるわけではないのだ。


 校内のみで行われる文化祭一日目の前日、巧が眠そうな表情で携帯をいじっていた。

 香奈は気配を消してその背後に向かった。


 いけないことだとはわかっていた。

 それでも足を止められなかった。


 巧の背後を通り過ぎる際に、コンビニで成人向けの雑誌の表紙を見るように横目で画面に視線を向けた。


「っ……!」


 愕然がくぜんとした。

 巧がちょうど「もちろん大好きだよ」と打ち込んでいたからだ。


 ——画面の上部のトーク相手の名前欄には、七瀬ななせあかりと表示されていた。


(えっ、う、嘘でしょ……⁉︎)


 動悸どうきが一気に早まる。

 香奈は胸を押さえつつ足早にその場を離れ、冷蔵庫から水を取り出してごくごくと飲んだ。


 喉を通る冷たい感触が、わずかに動揺を鎮めてくれた。


(……いや、まだ何があるって決まったわけじゃない。落ち着こう)


 しかし、もうさすがに確かめないわけにはいかない。

 香奈は再び背後から忍び寄り、巧に抱きついた。


「たーくみ先輩っ」

「わっ」


 巧が驚いた声をあげて振り返った。


「どうしたの?」

「ふふ、何となくしたくなったんです」

「そっか」


 巧はふっと笑った。

 その表情は柔らかかったが、それよりも彼がさりげなく携帯を下向きに置いたことが気になった。


「ねぇ、巧先輩」

「ん?」

「あかりと何を話していたんですか?」

「……見てたの?」


 巧の表情が強張った。

 香奈は彼から離れて、慌てて顔の前で手を振った。


「あっ、い、いえ、抱きついたときに七瀬ななせあかりって文字が見えたので」

「そっか」


 巧がホッと息を吐いた——ように、香奈には見えた。


「最近頻繁に連絡を取っているのって、あかりだったんですか?」

「うん」


 巧は素直に認めた。

 香奈は落ち着け、と騒ぎ出す心臓に言い聞かせた。


「……珍しいですね、先輩とあかりと連絡取るのって。何話してるんですか?」

「ごめん。それは言えない」

「えっ?」


 動揺が態度に出てしまったのだろう。

 巧が慌てたように付け加えた。


「あっ、でも、香奈が心配するようなことは断じて何もないよ。ちょっと相談受けてるだけだから」

「あっ、そうなんですね。もう、心配しましたよ〜。なんかコソコソやってたし」

「ごめんね」


 巧が眉尻を下げた。


「いくら香奈でもこれは見せちゃいけないんだ。多分、いつかは知ることになると思うけど、一応信頼問題としてね」

「ふむふむ、なるほど」

「不安にさせてごめんね」


 巧が香奈を抱き寄せ、頭を撫でた。

 本当に申し訳なく思っているようにも、これ以上の追求をさせないようにしているようにも見えた。

 どちらにせよ、香奈には引き下がるしかなかった。


 それから、巧は思う存分甘やかしてくれた。

 しかし、自宅に戻っても嫌な予感がどうしても離れなかった。


 彼とあかりが浮気をするなど一番あり得ないと理解はしていた。

 しかし、心当たりがあるのも事実だった。


 ここ最近、香奈は巧に迷惑をかけっぱなしだ。


(ラブホに誘ったのは私なくせにずっとウジウジしていたし、生理のことを理解してくれているとはいえ八つ当たりもしちゃってたし……)


 巧だって理不尽にキレられて、内心では腹を立てていただろう。

 仕方がないからと我慢してくれていただけで。



(あかりに送っていた「大好きだよ」も、二人の共通の話題を考えたら私についてなんだろうけど……)


 普通に考えたらそうだ。

 しかし、前後の文脈までは読めなかった以上、どんな可能性だって考えられる。


 あかりについても疑念はあった。

 突然電話してきて巧との関係について尋ねてきたかと思えば、いつもより早く電話を切った。

 あのとき、確か香奈は巧について惚気ていた。


(もしあかりと巧先輩がそういう関係になっていたら、私の惚気なんて聞きたくなかったはず……って、ダメだ。こんなこと考えちゃっ……!)


 二人の浮気の可能性以上に、自分が少しでも彼らを疑ってしまっているという事実が嫌だった。

 あかりとは出会った瞬間から意気投合をした一番の親友だし、巧だってこれまでずっと惜しみない愛情と優しさを注いでくれていた。


(それなのに二人を疑うとか最低だ、私っ……)


 香奈は激しい自己嫌悪に見舞われた。

 それでも、確かめずにはいられなかった。


 あかりに電話して探り入れようと試みた。いつも暇電をしているときと同じような文面を送った。

 しかし「文化祭もあってまとまった時間取れないから、文化祭終わってからでいい?」と断られた。


 忙しさを理由に断られたのは初めてではない。言い訳ではないと他人から見ていてもわかるほど、彼女は忙しい。

 しかし、タイミング的にどうしても巧と結びつけて考えてしまった。


 香奈は疑り深い要素を見つけては自己嫌悪に陥る、ということを繰り返していた。

 ただでさえホルモンバランスの乱れている状態で眠れない夜を過ごしてしまえば、体調が悪化するのは必至だった。


 翌朝、とても学校に行ける体調ではなかった。

 ベッドの中でもさまざまな考えが頭の中を巡ったが、薬の影響かやがて眠りに落ちた。


 眠ったおかげで、夕方にはある程度回復した。

 二十時ごろ、巧が制服のままお見舞いにやってきた。学校帰りに直接寄ってくれたのだ。


 本当に優しく接してくれて嬉しかった一方、自分がいない間に何かがあったんじゃないかという不安は拭えなかった。


 翌朝にはだいぶ回復していたため、土曜日のプレミアリーグ第十九節には帯同した。

 その後は元から予定のあったクラスの女子との遊びに出かけた。


 しかし、悪いことは重なるものだ。

 その子たちとはそこまで仲良くなかったものの、女子だけの遊びだと聞いていたから承諾したし、巧にもそのように伝えていたにも関わらず、メンバーの中には男子も含まれていた。


「ごめーん。ノリであいつらも来ることになっちゃって。でも、彼氏もいないしいいよね?」


 まったく罪悪感を抱いてもいない様子のクラスメートを見て、香奈は自分が利用されたことを悟った。

 しかし、巧との交際を隠している以上、場の空気的にも帰るわけにはいかなかった。


 利用されたという直感は当たっていた。

 男子たちが香奈にモーションをかけてくるのをさえぎるように、女子たちは彼らにアタックしていた。

 ルックスの整った男子を誘い出すために香奈の名前を使い、その後は猛アピールで何とかしようとしたのだろう。

 中学校でも似たようなことはよくあった。


 巧にはこっそり連絡しておこうか迷った。


(でも、今の状況で巧先輩に男子と遊んでるのを知られたくないな……)


 伝えておいたほうがいいとわかっていても、どうしても指が動かなかった。

 女子のほうが多いからいいか、と自分に言い聞かせ、携帯をしまった。


 しかし、知られなければいいという安直な考えを神様は許してくれなかったのだろうか。

 男子も交えて帰っているとき、ちょうど巧に遭遇してしまった。


 香奈は家に帰るなり謝り倒した。


「ごめんなさいっ、女子だけって聞いてて男子が来るの知らなくて……指一本触れさせてはないんですけどっ……」

「大丈夫、信じるよ」


 巧は笑って香奈の頭を撫で、抱きしめてくれた。

 香奈は感情がぐちゃぐちゃになってわんわん泣いてしまった。

 どうして自分は最初の段階で連絡をしなかったのかと後悔した。


 年甲斐もなく泣いたのが功を奏したのか、泣き止むころには少しだけ楽になっていた。


「明日はどうしますか? 私の家で過ごします?」

「あー、ごめん。明日は僕もクラスの友達と遊ぶかもしれない」

「あっ、そうなんですか?」

「うん。急でごめん。いつかカラオケ行こうって計画はしてたんだけど、明日全員集まれるみたいで」


 彼が前日の夜に遊びの予定を入れるのは珍しかった。

 胸がざわついたが、自分の立場を考えるとダメだと言えるはずもなかった。


「わかりました」

「ごめんね」

「いえいえ、楽しんできてくださいっ」


 翌朝、巧が家を出るまでの間、彼の家にお邪魔していた。

 髪型も服装も特段オシャレをしているようには見えなかったので、安心していた。


 しかし、気分転換にショッピングに出かけた夕方、香奈は見てしまった。

 ——巧とあかりが並んで歩いている姿を。


(嘘っ……巧先輩と、あかり……⁉︎)


 衝撃のあまり固まってしまった。

 二対の瞳が自分を捉えた瞬間、金縛りが解けたように駆け出した。


「「香奈⁉︎」」


(やっぱりそうだったんだ……!)


 追いかけてくる二人を振り返ることもなく、香奈は涙を流しながら脇目も振らずに走った。

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