第154話 幸せ者です

 ——月曜日。

 前日に一軍に昇格した晴弘はるひろ蒼太そうたは、選手ではお互いが唯一の同級生であることも相まって、自然と二軍にいたときよりも話す機会が増えた。

 しかし、その内容は昨日からもっぱら変わらなかった。


「噂よりそこまでじゃね? なんかぎこちないし、今なら全然狙えそうなんだけど」


 蒼太の視線の先には、二、三言交わしてすぐに別々の行動を取ったたくみ香奈かながいた。

 昨日から蒼太がやたら彼らに視線を向けていたのは、仲良しコンビとして有名な二人に付け入る隙があるのかどうかを観察していたのだ。

 無論、隙あらば香奈を自分のモノにするために。


 彼らがぎこちないのは距離が遠くなったわけではなく、ただ外向きの距離感が掴めていないだけなのだが、それを蒼太が知らないのは仕方のないことだろう。


「やめとけ。絶対無理だから」

「いや、いけるでしょ」


 晴弘は冷めた瞳で呆れたように返し、それに対して蒼太が自信をのぞかせる。

 これも前日から繰り返されているものだ。


 しかし、今回はその先が違った。


「決めた。俺、白雪しらゆきにアタックするわ」

「えっ、マジで?」


 晴弘が正気かこいつ、という視線を向けた。

 しかし、蒼太は自信満々な表情で「あぁ」とうなずいた。


「……まあ、普通にアタックする分には止めはしねえけど」

「あとから悔しがんなよ」


 そう言い残して、蒼太は香奈に近づいていった。

 晴弘は去っていく友人の背中に向かって、小さくつぶやいた。


「……それはこっちのセリフなんだけどな」




 気になる異性に話しかけるのだ。口元がニヤけてしまうのは自然だろう。

 しかし、ニヤニヤしながら自分に近づいてくる蒼太を見て、香奈は恐怖を覚えた。


(えっ、なんか笑ってるんだけど。まさか、ラブホの一件を知ってて……⁉︎)


 心配は杞憂に終わった。


「白雪。昨日のシティの試合見たか?」

「えっ? あぁ、うん。見たよ」


 日常会話だと悟った香奈は、思わず安心したような笑みを浮かべた。


(おいおい、俺に話しかけられてめっちゃ笑顔じゃん)


 これはワンチャンどころか全然あるぞ——。

 蒼太は自信を深めた。


 よくよく観察していれば、香奈が何やら安堵しているだけなのは明白だった。

 事実として晴弘はそのことに気づいたが、恋愛フィルターとはえてしてその人に都合の良いように解釈させてしまうものだ。


 蒼太は、それからも事あるごとに香奈に話しかけるようになった。


(何? なんで毎回毎回話しかけてくんの?)


 香奈は表面上は普通に会話をしつつも、心のうちでは腹を立てていた。

 彼氏もいる場面でたいして仲良くもない男子に頻繁に話しかけられ、内容も別にさほど面白くもないというのはそれだけでストレスだったが、いかんせん今回はタイミングが悪かった。

 昨日あたりから、月経前症候群——PMSを発していたのだ。


 香奈の場合は生理の直前に現れ、イライラしたり不安になったりと精神面に影響が出ることが多い。

 今回は少し症状が重いようで、時間が進むにつれて体調にも異変が出始めた。


 ——香奈が具合悪そうにしているのを見て、蒼太は絶好のチャンスがやってきたと思った。


(ここで他のやつらとの差をつけてやる)


「大丈夫?」

「保健室行くか?」


 彼はしきりに香奈の体調を心配した。


 ——蒼太に決して悪意があるわけではないことは、香奈にもわかっていた。

 しかし、小さな親切大きなお世話であることは事実だったし、何よりPMSのときのイライラは自分でコントロールできるものではない。


「何なら俺が——」


 いい加減しつこくて声を荒げようとしたとき、


「香奈のことは私が見ておくから、姫野ひめの君は練習に戻りなさい」

「……うす」


 冬美ふゆみが助け舟を出してくれた。

 蒼太は不満そうな表情で去っていった。


「……ふうー」


 香奈は自分を落ち着かせるように息を吐き出した。


「アレかしら?」


 冬美の耳打ちに、香奈はこくんと首を縦に振った。


「保健室にはいかなくても大丈夫?」

「はい、今のところは」

「なら、ビブスとか軽いものをやってもらえるかしら。ドリンクとかは私たちがやるから。無理そうなら早めに保健室に行きなさい」

「すみません、ありがとうございます」


 優しさが沁みて、香奈は涙ぐんでしまった。

 巧が近づいてくる。


「大丈夫?」

「はい」

「そっか。無理しないでね」


 香奈があまり触れてほしがっていないことに気づいたのだろう。

 いたわるように一声かけた後、チームメイトの元に戻っていった。


(やっぱり優しいなぁ……それに、私のことをわかってくれてる)


 さりげない気遣いが嬉しくて、再び目尻が熱くなった。


「すみません、少し抜けます」

「はーい」


 香奈は近くにいたマネージャー長の愛美まなみに断りを入れ、水道に向かった。


 涙が完全に収まってから、練習に戻った。




 冬美や巧たちの息遣いは本当に嬉しかったし、心も軽くなった。

 しかし、それだけで収まるほどPMSは甘くない。


 症状がだんだんと重くなっていることに加えて、ラブホの一件に対する不安や蒼太へのストレスも積もっていたからだろうか。

 香奈は、普段ならほとんど気にもならないような些細なことでイラついてしまっていた。


「巧先輩、なんで本を積んだままにしておくんですか? 足元は危ないし埃は溜まるしでいいことないって前に言いましたよね?」

「あっ、ごめん」


 慌てて片付け始めた巧の背中を見て、香奈は大きくため息を吐いた。

 違う。こんなキツく言っちゃダメだ。


(巧先輩は、私が嫌だって言ったことはいつも直すように努力してくれているのにっ……)


 話を聞いてくれないのならともかく、巧はちゃんと聞いて改善しようとしてくれているのだ。

 ただ一言軽く注意すればいいのに、些細なことに苛立って口調が厳しくなってしまう。


 そのことに対して自己嫌悪に陥り、さらにイラついてしまうという負の連鎖にハマっていた。


「はあ……」


(理不尽に八つ当たりして……最悪だ、私……)


「——香奈」


 ソファーで膝を抱えていた香奈の前に、白いマグカップが置かれた。


「……これは?」

「カモミール。前に好きだって言ってたでしょ? スーパーにあったから買ってきたんだ。ちょっと採点してみてよ。通からしても美味しいのか」

「別に通っていうわけじゃありませんけど……」


 一口含んだ。ホッと息が漏れた。

 胸からお腹にかけてが温かくなるのと同時に、ささくれ立っていた気持ちも潮が引くように鎮まっていく。


「どう?」

「美味しい……です」

「よかった。じゃあ僕も」


 巧は香奈の隣に座ってマグカップを口につけた。美味しいね、と笑った。

 香奈の目の奥が熱くなる。堪えなきゃと思ったが、無理だった。


「ふぐっ……す、すみません……!」


 突然涙をこぼし始めた香奈に、巧は何も言葉をかけなかった。ただ黙って、頭を撫でていた。

 彼なりの気遣いが伝わってきて、余計に涙が溢れてしまった。


「……大丈夫? 落ち着いた?」


 香奈が泣き止んで少し経ってから、巧は尋ねてきた。


「はい……すみません。色々キツイこと言っちゃって」

「ううん、原因を作ったのは僕だから。それに、香奈が怒りたくて怒ってるわけじゃないのはわかってるよ」

「っ……」


 香奈は息を呑んだ。

 巧は理解しているのだろう。香奈が不安定なのは、生理のせいで起こるホルモンバランスの乱れが原因であることを。


「……私って幸せ者ですね。こんなに理解があって優しい彼氏がいて」

「一応勉強はしたんだ」


 巧がはにかんだ。


「けど、間違ってたりもするかもしれないから、こうしてほしいとかこれはやめてとか、要望があれば都度教えてくれると嬉しいな」

「ありがとうございます……じゃあ、一つだけわがまま言ってもいいですか?」

「もちろん。何?」

「頭、撫でてほしいです」

「香奈のわがままって可愛いよね」


 相合を崩し、巧が優しく頭を撫でてくる。

 大切に想ってくれているのが伝わってきて、香奈は再び涙ぐんでしまった。

 巧は大騒ぎすることなく、穏やかな表情のまま頭を撫で続けてくれていた。


 香奈はモゾモゾと動き、彼にぴたりと寄り添った。


「巧先輩に頭撫でてもらうの、好きです。胸がポカポカしてくるっていうか……これぞハピネスって感じで」

「走り出しちゃいそう?」


 嵐の名曲「Happiness」のサビになぞらえたものだろう。


「いえ、そしたら撫でてもらえなくなるのでここにいます」

「そっか」

「はい」


 顔を見合わせ、笑い合う。

 香奈は立ち上がり、正面から巧の膝の上にまたがった。首に腕を回して抱きついた。


 お尻のあたりに硬い感触がある。

 いつもなら多少なりとも欲が頭をもたげるのだが、今日はそういう気分にならなかった。ホルモンバランスが乱れているからだろう。


「巧先輩。すみません、今日はあんまりそういうのはなしでもいいですか?」

「もちろん。無理してやってもらっても、僕も罪悪感で楽しめないしね。香奈の体調が万全になったらまたお願いするよ」

「はい、ありがとうございます」


 巧は軽口を織り交ぜ、香奈が気を遣わなくて済むような言い方で了承してくれた。


(好きだなぁ……)


 幸せで胸がいっぱいになった。

 香奈は溢れ出る想いをぶつけるように、巧にぎゅっと体を密着させた。

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