第149話 彼女の異変

 翌日、プレミアリーグの第十八節が行われた。

 誰からも何を言われることも、いつもと違う態度を取られることもなかった。


 やってしまったものは仕方がないと割り切っていたたくみはいつも通りのプレーができたが、香奈はそうではなかった。

 元々おっちょこちょいな一面はあったが、今日は特にミスが多かった。

 怒られるよりも心配されたのは、普段からいかに彼女が真面目に取り組んでいるかということの証明だろう。


 しかし、そんな証明は香奈の精神を安定させてはくれなかった。

 試合後、巧の家に滞在しているときも、常に不安を感じていた。


 まだ言ってきていないだけで、誰か他にも見ていた人がいるかもしれない。

 その人がすでに学校に連絡していて、今は調査中なだけなのかもしれない。


(もしそうだとしたら、私だけじゃなくて巧先輩もっ……)


 ブルっと体が震えた。洗っていたお皿がするりと彼女の手から抜け落ちた。

 ヤバいと思ったときには遅かった。


 ——ガシャーン……!


 お皿はなす術なく地面に激突した。派手な音を立てて割れた。


「あっ……!」

「香奈、大丈夫⁉︎」


 リビングにいた巧が慌てた表情ですっ飛んできた。


「——あっ」


 盛大に砕け散った皿を見て、彼は動揺を見せた。


 香奈の顔からサーッと血の気が引いた。

 割れた皿は、巧が一人暮らし記念として父親からもらったと嬉しそうに語っていた高級なものだった。


「ご、ごめんなさいっ……!」

「待って」


 泣きながら破片を拾おうとする香奈の腕を、巧は慌てて掴んだ。


「危ないから素手で触らないほうがいいよ。怪我はない?」

「はいっ……」

「なら良かった」


 巧はしゃくり上げる香奈の頭を撫でて、


「そのまま待ってて。動かないでね」


 念押しをしてから、掃除機と手袋を取りに戻った。

 帰ってくるまでの十数秒の間に、香奈は号泣していた。


「ごめんなさい……!」

「大丈夫だよ、気にしないで。まずは一緒に破片拾っちゃおう? ね?」


 香奈は腕で涙を拭い、小さくうなずいた。


「怪我しないように注意してね」


(本当は危ないから香奈にやらせたくないけど……でも、自分でやったほうが多少は心も落ち着くよね)


 というより、自分でやらなかったら彼女はもっと心にダメージを負ってしまうだろう。

 巧は香奈が怪我をしないように常に注意を払いつつ、破片を一つ一つ回収した。


 最後に掃除機をかけ、香奈を連れてソファーに座らせる。

 彼女はまだ涙を流していた。俯く彼女の太ももに乗せられた拳は、硬く握りしめられていた。


「本当にごめんなさいっ、お父さんからもらった大事なものだったのに……!」

「全然いいよ。大事なのはお父さんが僕に記念として物をくれたっていうその気持ちだから」


 巧は香奈の拳を包み込んで、諭すような口調で続けた。


「物自体はあくまでついでだし、そんな気にすることじゃないよ。それより香奈は大丈夫?」

「わ、私は大丈夫ですっ。け、怪我もなかったし——」

「ううん、今だけの話じゃなくってさ。部活でもらしくない失敗してたじゃん」


 香奈がビクッと体を震わせた。

 巧はその肩を抱いた。


「やっぱり不安? 昨日のことが」

「それはっ……だって、だってもしバレたらどんな処分喰らうかわかんないし……巧先輩は不安じゃないんですか……?」

「もちろん不安だよ」

「じゃあなんで、そんな平然としていられるんですか……⁉︎」

「うーん、そうだね……」


 巧は頭を掻いた。


「まあ、やらかしちゃったものは仕方ないからさ。しっかり反省するのは前提として、何か起こったらそれはそのとき考えるしかないしね」

「……強いですね、先輩は」


 香奈が視線を下げ、ポツリとつぶやいた。


「私と違ってウジウジもしないし、ちゃんと前を向けてる……」

「僕が強いわけでも、香奈が弱いわけでもないと思うよ。ただ物事の捉え方が違うってだけだし、それって恋人同士で大事だと思うんだ。色々な視点が持てるってことだから。それに、一日経っても何の変化もないってことはさすがに大丈夫だよ」

「……はい」


 ややあって、香奈はうなずいた。

 今回ばかりは巧に慰められても不安は完全には消えなかった。


 ただ、ウジウジしている自分を肯定してもらって少しだけ気分は晴れた。

 香奈は立ち上がり、巧の膝の上に横向きで座った。頭を胸にもたれかけさせる。

 巧はすかさず抱きしめてくれた。


(巧先輩の匂いと温もり……)


 幸福感が胸の内を満たす。欲情もしたが、それ以上に安心感を覚えた。

 巧の手が、まるで眠りに誘うように優しく香奈の頭を撫でる。


「ふわ……あ」


 あくびが漏れた。

 昨日、心配と不安でほとんど眠れなかったのだ。


「眠い?」

「はい……」

「そっか。寝ちゃっていいよ」

「うん……」


 まぶたが徐々に下がっていく。眠りの世界に旅立つまで、さして時間はかからなかった。

 香奈の口からすぅすぅと寝息が漏れ出す。


(か、可愛すぎる……!)


 巧は叫び出したい衝動を必死に抑えていた。

 腕の中でスヤスヤと眠る香奈には、犬や猫に通じる愛らしさがあった。

 庇護欲がくすぐられるどころの話ではない。だらだら流れ出してしまうほどだ。


 しかし、いつまで経っても浮かれたままではいられなかった。

 香奈の睡眠不足の原因がラブホテルに行ったことに対する不安であることは間違いない。


(……僕がもっとしっかりしないと)


 香奈には二人の責任であると言い聞かせたが、巧は内心では自分の責任だと感じていた。

 巧は男で先輩なのだ。男尊女卑をうたうつもりは毛頭ないが、年上の彼氏ならリードして然るべきだし、香奈は元々お調子者の一面がある。


(僕が雰囲気や欲に流されちゃダメだ。ちゃんとリスク管理をしないと。多少香奈が不満に思っても、それはリスクのないときに埋め合わせればいいんだから)


 巧は決意を新たにした。


 考えが整理されると、彼にも眠気が襲ってきた。

 香奈のルビー色のサラサラとした髪の毛に頬を寄せ、目を閉じた。

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