第139話 ヤキモチ

 京極きょうごくと退学組のやり取りは校長室や職員室が立ち並ぶ教師ゾーンの一室で行われていたため、他の生徒たちには知る由もなかった。


 当事者のたくみも例外ではない。

 彼は延長戦が繰り広げられていることなどつゆ知らず、誠治せいじ冬美ふゆみ志保しほたちからの接触について伝えていた。


「親衛隊の他のやつらから嫌がらせされる可能性はほとんどなくなったってことか」

「そう解釈していいと思う。誠治も久東くとうさんもいろいろありがとね。あと、迷惑かけてごめん」

「迷惑なんて思ってねーよ。これからはほんのちょっとしたことでも何かあれば言えよな」

「そうね。抱えられたほうがこちらも面倒だもの」


 誠治はニカっと笑い、冬美は腕を組みながらさらりと言った。


「うん、ごめん。ありがとう」


 それぞれの性格が存分に反映された返答に、巧は頬を緩めた。


 彼ら幼馴染コンビだけではない。

 まさる大介だいすけといった一年生のころからの友人のみならず、飛鳥あすか二瓶にへい三葉みわのキャプテントリオ、そして監督の京極や一軍マネージャー長の愛美まなみからも、感謝への返事として「何かあればすぐに相談するように」と言われた。

 涙を流しはしなかったが、胸が熱くなった。




 何の憂いもなく部活に取り組めたのは少し久々だった。

 精神状態がプレーにもたらす影響は大きい。


「誠治っ」

「ナイスパス!」


 巧のパスから誠治のゴールが決まった。一試合十分のミニゲームの中でだが、二人の連携からすでに四点が生み出されている。

 巧はここ最近の低調なものとは異なり、一軍昇格以来では最高とも言えるパフォーマンスを発揮していた。


「おいおい、完全にホットライン開通したなぁ」

「巧、ちょっと調子悪いと思ってたらいきなり絶好調じゃねーか!」

「さては女できたな?」

「そんなんじゃないですって」


 巧は笑いながら手をひらひらさせた。

 女は「できた」ではなく「できている」なので、嘘は言っていない。


 最近と異なっていることはもう一つあった。

 いや、最近というよりこれまでと、と言ったほうがいいだろう。

 巧がボールを持っただけで歓声が上がるのだ。


「キャーーーー!」

如月きさらぎ君っ」


 まことや誠治を応援している者たちに比べれば母数は数えるほどだが、明確に巧を推している集団が出現していた。

 昨日志保しほとともに謝りに来ていた者も幾人か混じっていた。


「志保、いいの?」

「うん」


 巧を推している者たち——正確に言えばその中の元真親衛隊の者たち——を見ながら尋ねてくる友人に、志保は顎を引いてみせた。


「本当に好きな人だけが残るほうが真君も嬉しいし、私たちも快適じゃん」

「確かになんか雰囲気は良くなった気がする」

「あの三馬鹿がいなくなったからねー」


 志保は口の端を歪めた。


「わざわざ証拠を手元に残したまま脅すとか、リスク管理できてなさすぎでしょ。脅しに屈するようなやつは捕まったらすぐゲロっちゃうなんて考えなくてもわかるじゃん」

「志保、前からあの三人好きじゃなかったよね」

「みんなそうでしょ。声と態度がでかいからリーダーみたいになってたけど、普通にヤバ人だったじゃん」

「まあ、さすがに白雪しらゆきと如月いじめてたのはやばいよね、人として」


 自分だって巧については外野からヤジを飛ばしていただろうと志保は思ったが、口には出さなかった。


「ま、これからは純粋に真君を応援しようよ。そっちのほうが真君も喜ぶから」

「だね」


 志保と話していた友人だけでなく、二人の話を聞いていた周囲の親衛隊の者たちもこぞってうなずいた。

 もっとも、応援する対象の真が怪我で練習に参加できないため、彼女たちにできることは無に等しかったのだが。




「如月君——」


 練習後、声をかけられて振り返った。

 巧はわずかに目を見開いた。志保だった。


「これまであんまり見れてなかったけど、如月君ってすごいんだね」

「はぁ、ありがとうございます」


 巧は頭を下げつつも困惑していた。

 それは志保にも伝わったらしい。彼女は眉尻を下げて、


「ごめんね。今さら何様だって感じだけど、如月君のことも応援しているっていうのは伝えておきたくて」

「いいんですか? 西宮にしみや先輩を応援しているのに」

「そりゃ一番の推しは真君だけど、他の人を応援しちゃいけないわけじゃないからね。如月君に推し変した人もいるくらいだし。あいつらとかがまさにそうだよ」


 志保が練習中から巧がボールを持つたびに沸いていた集団を示した。

 志保とともに謝罪に訪れていた者は、他のメンバーに比べて一歩引いた立ち位置だ。巧への罪悪感が残っているのだろう。


「そうなんですね。推されるって感覚がよくわからないんですけど」

「ま、応援されてるってことだから、素直に受け取ってあげてよ」

「はい」


 応援も志保の言葉も素直に受け取ることにする。

 諸悪の根源が退学になった三人であることは見て取れたので、巧は真親衛隊の他のメンバーにはそこまで悪感情は持ち合わせていなかった。


 これからも頑張ってね、と言い残し、志保は手を振ってから去っていった。


 巧はなんとなく、応援してくれていた集団に一礼した。わっと沸いた。

 悪い気持ちはしなかった。




「……ねえ」

「なんですか?」

「痛いんだけど」


 白雪しらゆき家で自分たちの夕食を作っている最中、巧は香奈かなから定期的に襲撃を受けていた。

 襲撃と言ってもただ脇腹をつねられるだけであり、さすがに刃物や火を扱っているときにはやってこないが、これがなかなか痛いのだ。


「巧先輩はただやられていればいいんです」


 明らかに拗ねている口調だった。


(僕何かしたっけ?)


 思考を巡らせ、すぐに一つの可能性に思い当たった。


「……もしかして、ヤキモチ妬いて——いててっ」


 香奈の力が強まった。どうやら正解だったようだ。


「なんですか、キャーキャー言われてだらしなく頬緩めちゃって。そんなんだといずれブルドックみたいな顔になっちゃいますよ」

「そりゃまあ、応援してくれるのは嬉しいからね。けど、別に彼女たちには感謝しかしてないよ。僕が好きなのは香奈だけだから」

「……それは知ってますけど」


 香奈がプイッと顔を背けた。

 どうやら、理屈どうこうの話ではないようだ。そのまま彼女は続けた。


「……すみません。面倒くさくて」

「全然いいよ」


 巧は笑って香奈の頭に手を乗せた。


「嬉しいし、何よりヤキモチ妬いてる香奈も可愛いから」

「なっ……⁉︎」


 香奈の頬が瞬時に薔薇色ばらいろに染まった。


「ほら、そういうところも可愛い——ちょ、痛い痛い」


 赤面しながら膨れっ面をしてつねってくる香奈もそれはそれで大層可愛らしかったが、さすがに本格的に拗ねてしまうのでそれは言わない。

 彼女の攻撃は長くは続かなかった。視線を下げて、


「……わかってるんですよ、巧先輩があの人たちのことを特にそういう目で見てないっていうのは。でも、先輩がキャーキャー言われてるとなんかモヤモヤしちゃうんです」

「わかるよ。僕も他の男子が鼻の下を伸ばしながら香奈に話しかけてるの見るだけで、ハバネロ鼻にぶち込みたくなるもん」

「えっ、巧先輩も妬いてくれてるんですか?」

「焦げちゃうくらいにはね」

「そうなんだ……」


 香奈の表情がみるみる緩んでいく。


「巧先輩っていつも冷静だから、あんまり嫉妬とかそういうのとは縁がないと思ってました」

「そう見せてるだけだよ」


 巧は後頭部をポリポリと掻いた。

 好きな女の子の前で実は自分もヤキモチ妬きなんです、なんて言うのは恥ずかしさもあったが、それで香奈が笑顔になれたのなら儲けものだろう。


「そっかそっか。いいこと聞いちゃったな〜」


 香奈が楽しそうに調味料を入れている。スプーンで一口すくって、巧に差し出してきた。


「巧先輩、味見してみてください」

「うん——えっ?」


 唇が触れる直前でスプーンは方向転換し、香奈の口に吸い込まれた。

 しょうもないことするなと思った次の瞬間、巧の口はスプーンよりもはるかに柔らかいものに塞がれていた。


「ん……っ」


 舌と汁が侵入してくる。香奈に口移しをされたのだと理解するころには、彼女は離れていた。

 仕掛けた本人は赤面しつつもしてやったりと言った顔で、


「どうですか? お味は」

「……酒とみりん間違えたんじゃない?」


 エビチリのはずなのに、とても甘かった。


「ハバネロぶちこみます?」

「うん。ハバネロないし、豆板醤でいっか」


 巧が真顔で追加しようとすると、


「待って待って、これ以上辛くしないでっ」


 香奈が慌てた表情で止めに来た。

 彼女はどちらかといえば辛いものは苦手なのだ。


「でも甘かったんだもん」

「気のせいですよ」

「いや、絶対に甘かった。香奈も味見してみる?」


 巧がニヤリと笑って聞くと、香奈は頬を染めつつコクンとうなずいた。

 スープを口に含み、ゆっくりと近づいた。唇同士が触れるか触れないかのところで停止し、少しだけ距離を取る。


「た——」


 不満の声をあげようと開かれた口を、巧は蛇のような素早い動きでふさいだ。


「ふっ……ん……!」


 たっぷり五秒間舌を絡ませてから離れる。

 香奈の顔はエビチリのスープよりも真っ赤だった。


「どう? 甘くない?」


 香奈は問いかけには答えず、黙って皿に盛り付けし始めた。


「……ぷっ」


 巧は堪えきれずに吹き出してしまった。


「……ばか」


 思い切り脇腹をつねられた。

 普通に痛かった。

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