第122話 彼女の父親との初顔合わせ
彼女たちと入れ替わりのような形でカフェに入店したのは、
「香奈は最近どうだい?」
慎一郎は尋ねた。
「大丈夫になったみたいよ。むしろ、前より元気なくらいだわ」
「それはよかった」
「あれは絶対に彼との関係が進んだわね」
「それは女の勘かい?」
「プラス母親の勘よ」
「それは間違いなさそうだね」
慎一郎はコーヒーをすすった。
一見すると何の変化もなかったが、蘭は夫のわずかな心の動きも見逃さなかった。
「大丈夫よ。まだ最後まではしていなさそうだし、彼なら心配ないわ。ちゃんと香奈の将来のことを考えてそういう対策は万全にしてくれるわよ」
「本当に信頼しているんだね」
「えぇ。あなたも会えば絶対に気に入るわ」
蘭は断言した。
ぜひ一度お話ししてみたいものだね、と慎一郎は頬を緩めた。
一時間ほど滞在した後、二人は近所のスーパーに向かった。
二階建てだ。一階と二階はエレベーターやエスカレーター、階段で行き来できるようになっている。
二階で買い物を済ませ、階段に差しかかったときだった。
「おい、ババア!」
ガラの悪い怒鳴り声が聞こえた。
タンクトップにサングラスの少年だった。ちょっと悪ぶってしまっている——もっとストレートにいえばイキっている——男子高校生といった出立ちだ。
エスカレーターを駆け降りようとしたところで、高齢の女性が脇に置いていた荷物に足止めを喰らって騒いでいるようだった。
「ごめんねぇ」
女性は謝罪をしながら荷物を退けようとしているが、前後の間隔が詰まっており、自身も腰を悪くしているのか、なかなか荷物を退けられていなかった。
周囲の人間も少年の剣幕を恐れているのか面倒事に関わりたくないのか、どちらにせよ誰も動こうとしない。
「あれは良くないね」
そう言って慎一郎が動き出そうとしたそのとき、
「大体ババアがエスカレーターなんか——」
「すみませんっ」
なおも女性に唾を飛ばしている少年を、同世代かもっと若いくらい少年の声が
(待って、この声は——?)
蘭にとっては聞き覚えのある声だった。
発言者は予想通り、紫髪の少年——
(彼は……)
香奈から写真を見せられていた慎一郎も気づいた。
女性より三段下にいた巧は、荷物のところまで登って手をかけた。
「おばあさん、一旦僕が荷物をお預かりしていてもいいですか?」
「えっ? えぇ」
女性が戸惑いつつもうなずく。
巧は荷物を抱えて自分の場所に戻ってから、若い男に、
「どうぞお通りください」
「……調子乗ってんじゃねえぞクソガキが」
悪態を吐いてから、少年は両ポケットに手を突っ込んで肩を揺らしながら駆け降りていった。
最後二段のところで踏み外しそうになった。クスクスという笑いがあちこちから漏れた。
「……チッ!」
少年は大きく舌打ちをして、背丈に合わない大股な歩きでその場を去っていった。
「ありがとうねぇ」
「いえいえ、災難でしたね」
慎一郎と蘭が階段を下っていると、女性と巧の声が聞こえた。
「ごめんねぇ、迷惑をかけちゃって。ちょっと足腰にガタが来ててねぇ」
「全然大丈夫ですよ。僕も歩いちゃったりしますけど、基本的にエスカレーターを歩くのは推奨されていないので、何もお気になさる必要はないと思います。ただ、さっきのように絡まれると危ないので、なるべくエレベーターを使ったほうが安全かもしれないですね」
「そうねぇ。そうするわ。お気遣いありがとう」
「いえ、偉そうに言っちゃってすみません。お気をつけて」
「ありがとう」
女性は目を細めてペコリと頭を下げ、店を出ていった。
「巧君」
蘭が声をかけると、巧は驚いたように振り返った。
元々丸い瞳をさらに丸くさせた後、照れ臭そうに笑った。
「こんにちは」
「こんにちは、蘭さん。それと慎一郎さん……でいいですか?」
「おや、私のことを知っているのかい?」
「はい。香奈さんから家族写真を見せてもらったことがあって」
「なるほど。じゃあ改めて——初めまして、巧君。香奈の父親の慎一郎です。いつも娘がお世話になっているようで、すまないね」
「とんでもないです。こちらこそ色々と助けてもらってますから」
巧がはにかんだ。
「巧君はこれから帰り?」
「はい」
「じゃあ、乗っていきなよ。私たち車だから。あっ、ついでにウチに寄ってく?」
「えっ……迷惑じゃないですか?」
巧は二人の顔を見比べた。
「全く問題ないよ。巧君は時間的には大丈夫なのかい?」
「はい。ちょっと買い物に来ただけなので」
巧は手に下げていた服を持ち上げてみせた。
「それじゃあ、すまないが少しだけ付き合ってくれるかい? 君とは一度話してみたかったんだ。あぁ、そんな固いものではないから安心してくれ」
「はい。お願いします」
巧は面接を受ける学生のような気持ちでうなずいた。
◇ ◇ ◇
固いものではないと言われていても、彼女の父親との初の顔合わせだ。
やはり巧は緊張してしまっていた。
慎一郎にも伝わっていたらしい。
「大丈夫だよ。お前に娘はやらん、なんて古臭いことを言うつもりはないからね」
「はい」
慎一郎が穏やかな表情を浮かべているのをみて、巧も少し肩の力を抜いた。
「巧君には感謝しているんだ。香奈と一緒に過ごして、あの子を楽しませてくれてありがとう。君と過ごす時間が増えてから、あの子は毎日本当に楽しそうでね。口を開けば二言目には巧君の名前が出てくるよ」
「そうなんですか? ちょっと恥ずかしいですね」
巧は頭を掻いた。照れ臭さかった。
同時に嬉しくもあったし、無邪気にその日の出来事を両親に語っている香奈の姿が容易に想像できて微笑ましくも思った。
自然と穏やかな表情になる。
「……本当に、あの子のことを大切に想ってくれてるんだね」
「はい。最愛の彼女ですから」
巧が言い切ると、夫妻が顔を見合わせた。
蘭の表情は「ほらね」とでも言いたげな、どこか得意げなものだった。
「……うん。妻と娘が君を気に入るのもわかる。巧君になら安心して娘を任せられそうだ」
「ありがとうございます! まだまだ至らないところもありますが、娘さんが毎日笑って過ごせるように頑張ります」
「うん、よろしく頼むよ。基本的に恋愛は本人たち次第だから、二人のペースで好きにやってくれていい。ただ、何かイレギュラーなことでもない限り、香奈には大学まではしっかりと出てもらいたいと思ってる。それまでは避妊だけは徹底しておいてくれるかな」
「はい、もちろんです」
巧はしっかりと慎一郎の目を見て顎を引いた。
彼女の父親と彼女との性交渉に関する話をしていることに気まずさはあったが、一番大事な話でもある。
香奈の心の準備ができるまで待つつもりではあるが、ゴムはすでに用意していた。
ありがとう、と慎一郎が笑った。
巧は本当の意味で認めてもらえた気がした。
しばらく雑談を交わしてから、巧は自分の家に帰っていった。
「どう?」
「素晴らしい少年だね、彼は」
蘭の問いかけに対し、慎一郎は満足げに言った。
「常に人の目を見て話すし、自分の考えもしっかり持っている。それに何より、知り合いが見ていないときに面倒ごとになるかもしれない人助けができる子はなかなかいないんじゃないかな」
「あぁ、スーパーの一件?」
「そう。対応もすごくスマートだった。相手を言い負かすのではなく、エスカレーターを駆け降りたいという彼の希望を叶えてあげることでそれ以上絡みにくくした上で、女性にも責任を感じなくてすむような言い方でさりげなくエレベーターの使用を勧めた。大人でもなかなかできることじゃないよ」
妻と娘から話を聞いているだけのときは、慎一郎はまだ巧のことを疑っていた。
二人が少し盲目になっている可能性や、巧が香奈に好意を寄せているからこそ、彼女やその母にだけ優しい一面を見せている可能性も考慮していた。
しかしスーパーでの一件を見れば、彼がいかに頭が良くて誠実な人間であるかはわかった。
誰にも褒められないかもしれない善行こそ価値のある行動であるからだ。
「ぜひとも上手くいってほしいものだね」
「大丈夫よ。あの子たちなら私たちくらいのラブラブ夫婦になれるわ」
蘭が慎一郎の肩に頭を乗せた。
慎一郎は「そうだね」と頬を緩めて、妻の頭に手を添えた。
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