第117話 絶対的な上下関係

「部内に他にカップルはいるの?」


 食卓を囲っているとき、らんたくみ香奈かなを交互に見ながら尋ねた。


「先輩に二組います。一年生はいたっけ?」

「はい。一組だけ知ってます」

「意外と少ないのね」

「私たちみたいに隠してる可能性もあるけどね」


 香奈がニヒッと笑った。


「僕の親友とその幼馴染はなんだかんだ仲良いですけど。今日も夕飯一緒に食べるって言ってましたし」

「えっ、冬美ふゆみ先輩とかがり先輩?」

「うん。結構あるみたいだよ」

「わーお」


 香奈がニヤリと笑った。


「二人きりだとどんな感じなんでしょう? 意外とラブラブだったり?」

「どうだろう。誠治せいじが好き嫌いして久東くとうさんに怒られているような気もするけど」


 ——巧の予想は当たっていた。


「誠治、しっかりと全部食べなさい」

「おう……でもどうしてもこのトマトのプチプチ感が——」

「何か言ったかしら?」

「……うす」


 冬美にギロリと睨まれ、誠治は蛇に睨まれた蛙のように縮こまった。


「いいのよ誠治君。無理して食べる必要はないわ」

「いや、もらったものは食うっす」


 冬美の母が出した助け舟を断り、誠治はトマトを口に放り込んだ。

 嫌いではあるが、吐き気がするとかそういった類のものではない。


 ちなみに、夕食のメニューにトマトを加えたのは冬美だ。

 今日の彼女は、普段よりもハイテンションだった。


 ただテンションが上がるだけならばいいが、彼女はテンションが上がれば上がるほどスパルタ度合いも増す。

 結果として、誠治は嫌いなトマトも食べざるを得ない状況になっていた。


 しかし、デリカシーはなくても最低限の常識と礼儀は兼ね備えている誠治は、見事に全てを完食した。

 だからと言ってご褒美があるかといえば、そうではないのだが。


 少しだけ休憩した後は、すぐに勉強タイムだ。

 冬美が日本に戻ってきてからは彼女による鬼の指導がほとんど毎日行われていた。


「誠治。またやったわね」

「おう? ……あっ」


 括弧内の数字や文字すべてに四をかけなければならないところを、括弧の最初のX二乗にしかかけていなかった。


「いつも言っているでしょう? 括弧内はチームと同じ。運命共同体だと。一人にだけメダルが授与されることはあり得ないわ。それともあなたは選手権で優勝したときに一人だけメダルをもらうつもりなのかしら?」

「それはちょっとちが——すんませんっ」


 冬美に睨まれ、誠治は慌てて頭を下げた。

 二人の間には絶対的な上下関係が存在していた。幼いころからずっとだ。


「まあ、咲麗ウチは運命共同体なんて格好つけられたものではないのだけれど」


 冬美が何のことを、否、を言っているのかは、誠治にもすぐにわかった。


「……俺がもっと頑張らねえとダメなんだよな。まことさんを実力で言うこと聞かせられるくらいにならねーと」

「それは違うわ」


 冬美がピシャリと言った。


「あなただけの問題ではないわ。もちろん、キャプテンや監督だけの問題でもない。彼のことはチームとして考えていかなければならないのよ。もっとも、その問題の中心にいる張本人が怪我をしてしまったわけだけれど」


 今日の試合で、真は相手に背後からの頭突きを喰らって脳震盪を起こした。

 幸い後遺症などが残るほどのものではなかったが、復帰時期は未定だ。


「彼を失ったという意味では、あなたがもっと頑張らなければならないのは間違いないわね」

「あぁ、わかってる」


 誰も真に強く言えなかった理由。それは、彼がいたほうが強いとわかっていたからだ。

 彼を欠いたことで団結力は増すかもしれないが、単純な火力はどうしても落ちる。チャンスも減るだろう。

 エースストライカーである誠治がチャンスを確実にモノにすることが、より一層大事になってくるのだ。


「けどまあ、たくみの出場機会も増えるだろうから、ワンチャン強くなる可能性だってあるぜ。あいつは真さんとはまったくタイプが違うからどうなるかはまだわかんねーけど、味方との連携が深まれば深まるほどあいつは輝くだろ」

「……そうね」


 誠治は明るく言ったが、冬美の表情は暗いままだ。


「なんだよ。お前は巧の力を信じてねーのか?」

「いえ、彼の実力は疑っていないわ。ただ、懸念はあるのよ。このタイミングでスタメンになったりすれば、彼はどうしても世間から西宮にしみや先輩の代役のように扱われる。実際そうでもあるでしょう?」

「まあ、そうだな」

「そのときに少しでもうまくいかなかったり、彼の個人能力の低さが露呈するようなことがあれば、大衆はこぞって叩き出す。いくら外野の声とは言っても、大勢から非難されたり誹謗中傷を受けたりしたら、メンタルが壊れかねないわ」

「大丈夫だろ」

「……どうしてそう言い切れるのかしら?」


 冬美が眉をひそめた。


「だって巧だぜ? あいつがそんな声に潰されるわけねーだろ。それに、何もわかってねー奴らの言葉なんて俺らがかき消してやればいいだろ」

「っ……!」


 誠治はこともなげに言い切った。

 冬美は目を見開いた。しばし硬直した後、ふっと息を吐いた。


「理屈も何もあったものではないわね。さすがは『ばかがり』だわ」

「おい——」

「でも、あなたの言うことも一理あるわ」


 冬美がふっと口元を緩めた。


「っ……!」


 誠治は息を呑んだ。

 彼女はそれに気づいた様子もなく続けた。


「彼は三軍のベンチでも腐らずに努力を続けてきたのだもの。精神力もサッカーにかける思いも常人のそれではないことは確かだわ」

「だろ? まず俺らが信じねえでどーすんだよ」

「……そうね」


 冬美がポツリとつぶやいた。

 そこで終わればよいものを、余計なひと言を付け足してしまうのが『ば縢』と呼ばれる所以だろう。


「なんだよ、珍しく素直じゃねーか。ちょっと気持ち悪りぃぞ」

「そんなにトマトが食べたいのね。いいわ。今度あんたが大口開けて馬鹿面で寝ているときに丸ごと突っ込んであげる」

「普通に死ぬからやめろ」

「大丈夫よ。誠治だもの」

「お前こそ理屈も何もねえじゃねーかっ」


 冬美が無言で頬を吊り上げた。

 ——ゾクッ。

 冗談抜きに、誠治は背筋が凍った。


 彼の予想通り、いや、それすらも上回るほどのスパルタ教育が幕を開けた。




「おわっ……た……」

「本当、体力だけはあるわね」


 なんとか最後の一問を解き終えたとき、誠治は灰になっていた。

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