第108話 大人の事情

「うふふ、ごめんなさいね。ちょっとテンションあがっちゃったわ」


 らんが笑いながら、たくみ香奈かなを揶揄ったことについて謝罪した。


「いえ、こちらこそお邪魔している立場なのに眠ってしまってすみません」

「いいのよ。自分の家のようにくつろいでちょうだい。そっちのほうが私たちも気楽だから」

「はい、ありがとうございます」


 巧は現在、白雪しらゆき母娘とともに自分と香奈の夕食を作っていた。

 蘭が手伝いを申し出てくれたときは当然「申し訳ないです」と遠慮したが、「おしゃべりでもしながらぱぱっと作っちゃいましょ?」と言われれば断れなかった。


 ちなみに以前に交わしていた味噌汁の作り方を教えてもらうという約束については、出汁からしっかり取る必要があるため、また時間のある土日などにしようになっている。


「明日の体育祭、私も応援に行くから頑張ってね」

「はい、ありがとうございます」

「お弁当なんだけど、香奈の分は作るし、ついでに巧君のも作っちゃおうか? 一人分も二人分もそんなに変わんないし」

「お気持ちは本当に嬉しいのですが、一応交際を隠している身ではあるので、同じ弁当はちょっと良くないかなって感じで……すみません」


 巧は深く頭を下げた。


「あっ、それもそっか。いいのよ全然。香奈が迷惑かけるわね」

「いえ、これは僕自身の問題ですから。堂々と彼氏を名乗れるように、それで面倒なことが起こらないくらいになれるように頑張ります。隠したままというのはデメリットも相応にありますし、香奈さんも不安に感じてしまうこともあるでしょうから」

「……香奈、いい人捕まえたわね」

「でしょ?」


 蘭の噛みしめるような言葉に、香奈がドヤ顔でうなずいた。


「こんなしっかりした子、いつの時代にもなかなかいないわよ。がっちりキープしておきなさい」

「わかってるよーん」


(は、恥ずかしいっ……)


 遠回しに、いや、かなり直接的に褒められ、巧は赤面した。


「巧先輩、赤くなっちゃって可愛い〜! ——あいたぁ⁉︎」


 頬を突いてきた香奈の脳天に、巧は遠慮なく手刀を喰らわせた。


「ふふ、巧君も意外と容赦ないのね」

「あっ、すみません」


 巧は慌てて頭を下げた。母親の目の前で、思い切りその娘にチョップしてしまった。

 蘭は笑ってひらひらと手を振った。


「いいのよ。この子は甘やかすと調子に乗るから」

「もう、相変わらず教育ママなんだから〜」


 香奈がぷくっと頬を膨らませた。


「でも、だからこそここまでいい子に育ったとも言えますよね」


 巧はチラッと香奈に視線を向けた。

 彼女はベクトルこそ違うとはいえ、スペックはまことに似ている。

 環境が違えば、彼と同じようなわがままな箱入り娘ができあがっていた可能性もあるのだ。


「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。うちの息子にならない?」

「喜んで」

「ふふ、歓迎するわ」


 巧と蘭は笑い合った。


「むぅ〜……」


 香奈がちょっぴり不満そうな表情を浮かべている。

 まさか実母を恋のライバルとみなすわけがないから、これは単純に置いてけぼりにされて拗ねているのだろう。


 巧は安心させるように頭にポンポンと手を乗せた。

 途端に香奈がへにゃりと相合を崩す。抱きしめてキスしたい衝動に駆られたが、蘭の手前ということもあり自重した。




 白雪家で羞恥あり笑いありイチャイチャありの穏やかで甘く明るい空気が流れているのと時を同じくして、とある居酒屋では甘さとは無縁の中年の男三人がつまみの枝豆をロボットのように決まった動作でつまみつつ、酒を煽っていた。


 咲麗しょうれい高校サッカー部の監督たちである。

 一軍の京極きょうごく、二軍の間宮まみや、三軍の川畑かわばただ。


「一軍は少しは落ち着いてきたか?」

「まあ、一応はな」


 間宮の問いに、京極はジョッキを傾けながら答えた。


「真はどうだ?」


 反対側から川畑が聞いてくる。


「話はしたんだろう?」

「あぁ。あれ以降はおとなしいが……正直、あいつの心に響かせるような話はできなかったと思う。今後同じような行為をすれば、スタメンを外すかそれ以上の罰を与えるとは言ってあるがな」

「実際、そうなったらどうするんだ? あれほどの実力だ。素行は悪くてもいたほうが強いし、何よりあいつをチームから外せば上が黙っていないだろう」


 咲麗高校はさまざまな運動部に力を入れているが、その中でもサッカー部には一番お金をかけてる。

 学校としてもそろそろ優勝してもらわないと困ると、京極は上層部から圧をかけられていた。


 部内での揉め事に関して積極的に介入できないのも、上層部の存在が主な理由だった。

 部活動停止などの措置が取られなくとも、大人が関わって処分を下せば加害者の経歴に傷がつき、受験にも影響する。

 そうして巡り巡って咲麗高校サッカー部の名に傷がつくことをお偉いさんは恐れているのだ。


 その意味では、特に部内どころか咲麗高校の顔であるサッカー部一軍への上からの関心と干渉は相当なものだった。

 下手をすれば京極は一瞬で干され、彼らの犬が監督になるだろう。


 実際、好成績を残していた前々監督は生徒に対して厳罰を下し、部内の問題が公になってしまったタイミングで解雇されている。

 前監督はおそらく上層部の言いなりになる人物が派遣されたが、そんな骨のない人物で素行がいいとは言えない大所帯、それも実績を引っさげた傲慢ごうまんな者も多い部活をまとめられるはずもなく、他の名門校を指導していた経験もある京極に白羽の矢が立ったというわけだ。


 京極が今のところ監督を続けていられるのは、優勝とはいかないまでも好成績を残しているから、そして上層部との折り合いをうまくつけてきたからだ。


「たしかに老害たちのことを考えると頭は痛いが、巧や香奈のことを考えたら、これ以上見て見ぬふりはできないだろう。ここまではよく跳ね返して登ってきてくれたが、子供の精神力に頼りっぱなしでいいわけがないし、あまりにも指導者としての不誠実がすぎる。何よりまことたちの将来のためにも良くない。俺はまだあいつらの可能性を捨て切っていない。子供のうちは、特に高校生までならいくらでも矯正が効く。それをするのが教師の役目だ」

「相変わらず熱血だな、京極」


 川畑が口元を緩めた。

 馬鹿にしているという感じはない。どちらかといえば呆れている様子だった。

 反対に、京極は顔をしかめて、


「いや、この上なく冷徹だろう。本来なら、真から香奈への接触の時点で俺が止めるべきだったんだからな。今日も、香奈が真の親衛隊に襲われかけたらしい」


 京極は、愛美まなみ冬美ふゆみから聞いていた事情を間宮と川畑に話して聞かせた。


「それは公にはしないのか?」


 間宮が眉をひそめた。


「いじめに該当すれば停学はもちろん、退学もありうる。さすがに上も強く言えないくらいの案件だと思うが」

「香奈本人の意向でな。まだ証拠も受け取っていない。大事にしたらさらに面倒になる可能性もあるし、抑止力として駒は残しておきたいらしい」

「あんまりあいつらしくないな」


 川畑がジョッキを片手に、ひとり言のようにつぶやいた。


「おそらく冬美や巧の入れ知恵か、そうでなくとも影響は受けているんだろう。ただ、俺も賛成だ。真を崇拝している生徒たちは、言っちゃ悪いが思考回路がバグってる。追い込みすぎても何するかわからないから、証拠を握ったままおとなしくさせておくのは正解だろう」


 退学処分などを受けて自暴自棄になってしまえば、ネジの外れた連中は本当に何をしでかすかわからないのだ。

 そして疑わしきは罰せずのこの国では、そのリスクを排除することはできない。


「さすがのあいつらも自分たちがどこまでの処罰を受けるかわからない以上、迂闊うかつに行動はできないだろうからな」

「停学や退学になれば大学受験や就職にも影響するし、もちろん親にも話がいく。まだ理性を保っている状況で、さすがにそこまでのリスクを取ろうとはしないだろうな」


 川畑も京極に同意した。


「ということは真関連の二人の、特に白雪しらゆきの安全はようやく保証されたわけか」

「そう思っていいだろう。警戒は続けるがな」


 間宮の言葉に、京極はうなずいた。


「巧に関しては、まだ真や内村うちむら広川ひろかわが何か仕掛ける可能性もあるか」

「真以外にも今後やらかしたら処罰は与えると言ってあるし、何より巧のこれまでの頑張りなどは説いた。それに、真たちに不利な証拠も握っていると巧たちは言っていた。さすがに何もできないだろう」

「ならばいいが……巧にはぜひサッカーに集中して上り詰めてもらいたいからな。どうだ? 一軍での彼は」

「前にも言ったが、順調に成長しているぞ」


 三人で飲む機会は少なくないが、ここ最近で一番話題に上る人物は間違いなく巧だった。

 彼がさまざまな問題を引き寄せてしまうから、というのももちろんあるが、それ以上に他とは一風変わった選手のことは、やはり指導者としては気になるのものだ。

 それが人一倍サッカーが好きで努力をしている誠実な選手だったなら、なおさら。


「どんどん一軍のレベルにも適応しているし、連携が向上すればするほど輝くからな、巧は。次の試合ではメンバー入りさせようと思ってる。その意味では、あいつが真たちの弱みを握っているのはありがたいことだ。代わりに内村を外すことになるだろうからな」

「注意はしておけよ」

「あぁ」


 練習中のチーム分けで自分が巧より序列が下になったことが判明したときも、内村は巧を敵視していた。

 真一派のことはよく注視しておかなければ、と京極は思った。


 ——しかし、それはどうやら杞憂だったようだ。


「くそっ、マジでムカつくな如月きさらぎの野郎……!」

「それな。でも監督にも釘刺されたし、さすがにこれ以上何かすんのはヤバくね」

「あぁ」


 広川の言葉に、内村は硬い表情で顎を引いた。


「調べたら、いじめって判断されたら普通に停学とか退学もあるらしいからな。受験もあるし親に連絡行っても面倒だから、ムカつくけどさすがにおとなしくしておくか。真もあの録音があれば動けないだろうし、文句は言わねえだろ」

「だな」


 二人はうなずき合った。


「にしても明日の体育祭、マジだるくね?」

「それな。一種目くらいブッチしようぜ」

「ゲームやりまくるか」

「だな。どうせ俺らいなくても女子の前で張り切っちゃう系のイタイやつが頑張ってくれるだろ」

「体育祭ごときでマジになるとか共感性羞恥やべえけどな」

「あれでモテると思ってんだから笑えるわマジで」

「そういう奴に限って部活では一軍にも入ってねえんだよな」

「うわっ、マジわかるわー!」


 などと盛り上がりつつ、彼らは両手をポケットに突っ込んで肩で風を切りながら塾へと向かった。

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