第107話 彼女の唇を喰んだ

「な、何がですかっ?」


 謝罪される意味がわからず香奈かなが問いかけると、愛美まなみ冬美ふゆみが顔を上げた。

 等しく罪悪感を浮かべていた。冬美が口を開いた。


「動画を撮っていたことからもわかる通り、もっと前から見ていたのよ。でも、確実な証拠がほしくて放置していたわ。その間、あなたはしなくても良かったはずの嫌な思いをした。最初から止めていれば、如月きさらぎ君を悪く言われて気分を害することもなかった。だから謝罪をさせて」

「本当にごめんね」

「い、いえいえっ、お二人が謝ることなんか何一つないですって!」


 香奈は焦ってブンブン手を振った。


「今回みたいに実際に手を出した動画でもなければ完璧な抑止力にはなりませんし、私のことを考えての判断だっていうのはわかってますから。むしろ、感謝しかしてません。助けていただいて本当にありがとうございます!」


 香奈は深く頭を下げた。


「……そう」


 冬美がふっと口元を緩めた。


(やばっ、可愛すぎるんだけど……!)


 普段の厳しめの表情とのギャップがすさまじかった。もしも香奈が男だったなら、今の一発でノックアウトだっただろう。


 愛美も優しげに香奈を見ていた。

 こちらは普段からのギャップという意味ではそこまで大きくないが、慈愛に満ちた表情を向けられては同性であっても照れてしまう。


「そ、そうですよ。お二人のお陰で今日から北枕で寝れます」

「また絡まれたくないなら、枕は高くするだけにしておきなさい」

「はーい。あっ、なら東枕にします!」

「意味がわからないわ」

「だって冬美先輩の苗字は久東くとうだし、東に頭を向ければ自然と西宮……じゃなくて西に足を向けることになるじゃないですか」

「ちょっと上手いのがムカつくわ」

「だね」

「ひどいっ!」


 香奈は憤慨ふんがいしてみせた。

 先輩二人が頬を緩めた。面白かったから、というよりは安堵しているように見えた。


(それだけ心配してくれてたんだ……)


 恥ずかしくなったので、話題を変えてみる。


「にしても、やっぱり頭いい人ってみんな記録するんですね」


 それは、たくみが録音という手段を重宝していることを知っている香奈にとっては何気ない感想だった。

 愛美は「そうなのよ〜」と得意げな表情を浮かべた。しかし、冬美は違った。


「やっぱりということは、以前にもこういうことがあったのかしら?」

「……へっ?」


 香奈は虚をつかれて間抜け顔を晒した。

 慌てて否定にかかる。


「あっ、いえいえ別に——」

「そういえば、前に二軍のマネージャーが不自然なタイミングでやめたよね。アキと華子はなこだったかな?」

「さ、さあ……」


 愛美に水を向けられ、香奈はタジタジになっていた。

 ルビー色の瞳は左右に動いていた。心当たりしかなかった。


 冬美と愛美が再び表情を緩めた。


「別に何があったのか問い詰めようってわけじゃないわ。けれど、今後もし何かあれば、誰でもいいからすぐに言いなさい」

「今回みたいに変に我慢しないこと。いいわね?」

「はいっ、神様仏様愛冬美まなふゆみ様!」

「くっつけるな」


 愛美に優しくチョップをされ、香奈は「えへへ〜」と笑った。

 冬美が呆れたようにため息を吐く。


「まったく……調子がいいんだから」

「でもまあ、退学がチラつけばさすがにもうあいつらは絡んでこれないだろうし、目立つだけでああいう頭おかしいやつらはほんの一部だからさ。私たちも含めてほとんどの人は香奈の味方だから、本当に一人で抱え込まないでよ? 人から頼られるのって迷惑じゃなくて嬉しいことなんだから」

「はい。わかりました!」


 香奈は満面の笑みでうなずいた。

 頼られるのが嬉しいことだというのは、身をもって知っていた。巧から些細なことを頼まれたり意見を求められたりするだけで嬉しくなってしまうのだ。


 巧だけではない。相手のことを嫌っていなければ、基本的に頼りにされるのは悪い気はしないものだ。


「この後はどうする? 全然早退とかしてもいいし、部活と距離を置きたいっていうなら尊重するけど」

「いえ、大丈夫です」


 香奈は首を横に振った。強がりではないことは伝わったようだった。


「そっか。まあ、如月君と一緒にいる時間減っちゃうもんね」

「なっ……!」


 愛美に揶揄うように言われ、香奈は頬を染めた。


「べ、別にそういうわけじゃ——」

「違うの?」


 愛美はニヤニヤと笑っていた。


「ち、違うこともないですけどっ! それ以前にサッカーも部活も好きですから!」

「そっかそっか。ありがとね」

「っ〜!」


 愛美に微笑ましいものでも見るような視線を向けられ、香奈は真っ赤になった。

 冬美に背後から抱きついて、背中に顔を埋めて唸り声を上げる。


かえでが言ってた通り、イジりがいがあるねぇ」


 二軍のマネージャー長の名前を出し、愛美がカラカラと笑う。

 香奈はさらに頬に熱が集まるのを感じつつ、絶対に楓に何かイタズラをしてやろうと心に決めた。




 部活が終わった後、香奈は巧の家で彼に事情を説明していた。


「そっか。久東さんと樋口ひぐち先輩が……力になれなくてごめんね」


 巧は眉尻を下げた。


「いえいえ、巧先輩が色々と考えてくれたからこの程度で済んだんです。ありがとうございます」


 それは香奈の心からの感謝だった。

 巧の表情は曇ったままだ。


「でも、西宮先輩からの接触を黙認してたようなものだし、色々と後手後手で事なかれ主義になっちゃってたと思う。そのせいで香奈には辛い思いをさせたし……」

「仕方ないですよ。相手のほうが立場が上だったんですから。多分、変に動いてたほうがヤバかったですって」


 タラレバはいくらでも言えるが、それが実際の行動よりもいい選択肢だったのかなんて誰にもわからないのだ。

 咲麗しょうれい高校は基本的に生徒同士の問題には干渉しない校風であること、そして真の絶大な影響力と数の力の恐ろしさを考えると、香奈には巧の判断が間違っていたとは思えなかった。


「それに、それを言うなら私こそ中途半端な対応をしてしまいましたし、巧先輩に甘えちゃってましたよ。自分では何もできなかったですし……」

「それこそ仕方ないよ。香奈のほうが身の危険があったんだから」


 巧がそっと香奈の頭を撫でる。


「やっぱり僕がもっと動くべきだった。ごめんね、頼りなくて。これからはもっと——んむっ⁉︎」


 巧はくぐもった声をあげ、目を見開いた。

 香奈が不意打ちで唇を塞いだからだ。


 唇を離す。呆然としている巧に、香奈は強い意思のこもった眼差しを向けた。


「巧先輩が頼りないなんてことはありません。常に最悪の事態を想定して慎重に動く姿勢はすごく頼もしく感じていましたし、それだけ私のことを考えてくれているんだなって嬉しかったです。それに——」


 香奈はいっそう言葉に力を込めた。


「私が甘えていたのは紛れもない事実です。今回の一件を通して、このままじゃダメだって思いました」


 自分がそれだけ周囲に支えられているのか再認識したし、いかにそれに甘えて寄りかかってしまっていたのかも痛感していた。


「だから、これから変わります。私は頼って甘えるだけじゃなくて、巧先輩と支え合っていきたいんです。先輩が安心して寄りかかれるような頼りがいのある彼女になりますから、見ててください」

「香奈……っ」


 巧の胸に愛おしさが込み上げた。


「……うん。僕ももっと香奈を安心させてあげられるようになるよ。お互い頑張ろう」

「はいっ」


 二人の間に、それ以上の言葉は不要だった。

 アイコンタクトをして唇を重ね合わせる。


「ふっ……んん、あっ……」


 小さめの嬌声きょうせいを上げながら、だんだんと香奈がふやけていく。

 巧はいつも通り、最後に長めのキスをして終わらせるつもりだった。


 しかし、先に不意打ちを喰らい、さらには愛おしさで叫び出したくなるほどの健気な宣言を受けていたからだろうか。いつも以上にテンションが上がっていた。

 唇を押し当てたまま、舌で香奈の潤った唇をなぞる。


「んんっ⁉︎」


 香奈が驚愕きょうがくともあえぎとも取れる声を上げた。

 しかし、それがどちらであるのかは重要ではなかった。大事なのは彼女の唇が開いたことだ。

 巧は舌を引っ込め、プルンプルンの下唇をんだ。


「ん、あっ……」


 少々刺激が強かったようで、唇を離すと香奈はへなへなと巧の胸に倒れ込んできた。

 巧はその頭を撫でながら、


「香奈、大丈夫?」

「だ、大丈夫なわけないじゃないですかっ!」


 真っ赤に染まった顔で、香奈は限界とばかりに叫んだ。

 顔を手のひらで覆って、


「い、いきなりあ、あんなっ……あんな……!」


 日頃から巧との行為を思い描いては自分を慰めたりしている香奈だが、妄想と現実は違う。

 実際の彼女は、いきなり唇を舐められて喰まれただけでオーバーヒートを起こしていた。


 ——そのことは、巧にも手に取るようにわかった。


(今はここまでかな。お互いのためにね)


 理性を総動員して自分を抑制し、巧は優しく香奈を抱き寄せ、その頭を撫でた。


「どうする? もう夕食作り始めちゃう? 明日は体育祭だから早く寝ないとだし」

「そうですね……でも、もう少しこのままでいてもいいですか?」

「もちろん」


 巧は笑みを浮かべてうなずいた。

 香奈とのイチャイチャで湧き上がるのは情欲だけではない。

 特に今のような穏やかなスキンシップの最中は、胸がじんわりと幸福感で満たされていく。とても心地が良かった。


 ——香奈も同じような心境だった。

 先程までの行為を思い返せば、嫌でも頬に熱が集まり子宮の奥がキュンキュンとうずくが、だからと言って今すぐ巧とそういうコトをしたいわけではなかった。

 ただ寄り添っているだけで満たされていた。


 巧はソファーに体を預けた。その肩に香奈が頭を乗せた。ドミノのようだった。

 幸い、どちらも倒れることはなかった。


 しかし、奇襲を仕掛けてきた睡魔という敵を前にしては、どちらもあっけなく敗れ去ってしまったが。




 二人が同時に目を覚ましたとき、彼らの目の前には微笑ましげに自分たちを眺めるらんの姿があった。

 彼女の母親、そして実の母に恋人と寄り添って眠る姿を凝視されていたことに気づいたカップルは、揃ってこれまでにないほど赤くなった。


「あらあら、ここに熟した桃が二つもあったわ。いっぱい買ってきたのに」


 蘭のトドメの一言で、二人は揃ってソファーに突っ伏した。

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