恋は呑んでも呑まれるな?
「あの、えっと、頭あげてくれないかな葉太くん」
青空が綺麗な日。葉太は小太郎に頭をさげていた。廊下で男二人、変な空気が流れていた。彼に頭をさげたのは五年ぶりだった。つぼを割ったのを一緒に謝ってもらうという当時十九とは思えない動機だった。その時から小太郎と葉太は主従の垣根を越えた仲であるが、そもそもこの時代に主従だの忠義だのはナンセンスだ。
この世の終わりだ、みたいな顔をしている葉太に小太郎は困惑していた。表情を伺おうと覗き込んだところでいきなり葉太が顔をあげるものだから、小太郎はおでこに頭突きを受けることになった。つくづく不運な男である。
「お前、代わりにデートしてくれ」
肩を掴まれて小太郎は逃げることができなくなった。もともと気弱な彼であるから、体が自由であろうとも相手がどんなに弱くとも逃げないのは明白だが。
「誰とデートするの」
「……牡丹」
「遠慮します、葉太くんのお嫁さんでしょ。浮気じゃん、不倫じゃん」
デートなんて最悪である。葉太は牡丹のことをよく知っている。世界をやり直したのだから、葉太はある意味人生二周目みたいなものだ。しかし、牡丹は違う。何も知らない。葉太に興味はないのだから当然である。そんなことは理解している。理解したくないが、理解しなければならない。
けれど葉太はその現実を直視したくなかった。人懐っこく笑う牡丹の顔。あれは嘘の顔だ。雛鳥みたいに葉太の後ろをついてくる牡丹の笑顔。あれだって嘘だ。その事実は葉太を容赦なく殴ってくる。慰めてくれる相手もおらず、傷を癒す時間もない。葉太にはやらなければならないことがたくさんあるのだ。
「なあ小太郎」
優しい声で小太郎は返事をする。いつもの声。一度葉太が失ってしまった声。
小太郎にすべてを打ち明けてしまおうかと思った。けれど、それは小太郎に重い物を背負わせてしまうことになる。その重い物の名前はなんというのだろうか。運命だろうか。ともかく、それを背負わせることは誠実とは言えない。小太郎とはせめて誠実に接していたい。
だから葉太はすべて隠しておくことを、そして自分の手で運命を変えることを誠実と定義することにした。
「恋バナしようぜ」
「え、どうしたの急に」
「デートの前準備」
きょろきょろと周囲を確認する小太郎。年頃の女性みたいだった。つい葉太が吹き出す。やめてよ、ひどいよ、と頰をふくらませる小太郎。安心した。いつもの小太郎だ。
葉太には確認したいことがあった。だから突拍子もない提案をしたのだ。高校でも大学でも恋の話などしたことがなかったというのもある。
「えー、どうしよう。言ったら葉太くんは何を思うか……。ああ、誰も聞いてない、よね?」
消しゴムのカバーを外したら好きな人が書いてありそうな小太郎に、申し訳無さを含んだ笑いが込み上げてきた。意地悪をしてやろうとつい好奇心が疼いた。
「牡丹……はないよな。清楚系だけどタイプじゃないだろ」
「ど、どうしたの急に」
「俺の同級生に鈴木って子いたろ。あの子は……ちょっとギャルがすぎるか」
名探偵気取りで推理を進める葉太に小太郎が慌てる。推理と言うには意地の悪いそれが進むにつれて赤くなる顔は面白く、よくないと思っていても女性を挙げては焦らすを繰り返してしまう。
「すみれは……ないな。あれはうるさすぎる」
明らかに小太郎がそわそわしている。そして、これはないかなぁ、なんて葉太が言い始めたときについに手が動いた。ぱちん!
「うわ、お前叩かなくてもいいだろ?」
「ああ、わあ、ごめんごめん許して」
小太郎はたまに頭の処理が追いつかず処理落ちを起こすことがある。それを知っているから葉太は受け入れ、笑い飛ばしてやった。
「姉さんだろ」
「ち、違うよ」
「いいや、違わない。目でわかるんだよ」
スマートフォンを出してカメラ機能で自分の目を確認しだす小太郎はコメディアンみたいだった。葉太が腹を抱える。つばが飛んでも気にしないで笑った。
「まあ、無理すんなよ」
目を向けられて、やはりこの平和を守りたいと葉太は思った。小太郎も、このままでは不幸な目に合ってしまう。
「恋は呑んでも呑まれるな」
「上手く言えてないよ、それ」
二人で遅れた青春みたいな時間を過ごした。馬鹿みたいな話をした。その中で葉太は一つ忠告をした。
「お願いだからさ、無理に振り向かせちゃ駄目だぞ」
「どういうことなのさ」
「ほら、歩いてたら無理矢理腕引っ張られて振り向かされたら嫌だろ。そういう感じっていうか」
小太郎は事故に遭う。桜を振り向かせようとして神様と取引をする。その結果は酷い物だった。事故と言う名のありふれた地獄だった。神様は意地悪が好きだった。
こんなことを言っても無駄だとわかっている。小太郎はコップに水を溜めるように、不安や抱えきれない出来事、気持ちを抱える性質がある。それをコップの水に例えると、当然水が溢れる時が来る。それが問題なのだ。小太郎には、平穏に過ごしてほしい。
「ねえ葉太くん」
「なんだよ」
「好きな人が目でわかるって言ってたけどさ」
ふふ、と小太郎から笑みがこぼれる。小太郎が葉太に向き合うと、ぎい、と廊下が鳴いた。
「葉太くんの好きな人もわかるよ」
小太郎に隠し事はできない。葉太は小太郎を小突いた。葉太には、何度世界が繰り返されようとも幸せにしたい人がいる。
それが誰なのかは、悲しいかな、当の本人は知らないのであろう。
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