髪の長さは七難隠す

 夏目家は不思議な家系だった。神様の力によってその地位を、財力を、思うがままにしてきた。現実味のない、おとぎ話のような話である。けれど現に神というものは存在し、理解の及ばない、手の届かない範囲にある奇妙な力を使っては笑って楽しんでいる。そうやって世界は回っている。

 結婚式なんてものはなかった。別に期待していたわけでもなく、それを知っている葉太は何も言わなかった。姉は首を傾げていた。「あんた、でかい式をやれ、とかって騒がないのね」と言いながら形式上用意された二人を祝う為の豪華な料理を頬張っていた。食べっぷりは主役級だった。食事を摂らない葉太をおちょくったりして、若いいつものお手伝いに咎められていた。日常の風景。しかし葉太はそれどころではなかった。日常に笑うことも結婚を喜ぶことも後回しだ。

 ファフロツキーズというものがある。怪しい雨と書いて怪雨、あやしのあめと江戸の人間は称した。夏目家が信仰する神様は、それを引き起こす神様だった。気まぐれに魚やら瓦やらを降らせることもある。そしてその神様は、力を人間に貸すこともあった。それがいけなかった。牡丹が人を殺すのも、友人が罪を犯すのも、親戚が不幸な末路を辿るのも、全部神様のせいだ。

「ファフロツキーズは知ってるか」

 牡丹に尋ねてみる。牡丹は分家の人間だった。ここは分家、というものが存在する程度には大きな家だ。なにせ、神様のいる家系なのだから。そんな分家の人間はあやしのあめについてどこまで知っているのだろうか。

「存じておりますよ。あの儀式のことも」

 丸い目をした可愛らしい花嫁は微笑む。葉太にとっては見飽きた笑顔。

 葉太は一度、牡丹に殺されかけている。ついでと言わんばかりに両親も、仲の良いお手伝いも、姉も、親戚もみんな殺されている。それなのに、記憶も感覚もみんな葉太の脳裏からこびりついて離れないのに、当たり前のように両親やお手伝いは笑っている。不思議な感覚だった。拳を一度強く握ってみる。夢ではない。

 夏目家は古めかしい匂いのするまるでフィクションのような家なので、代々伝わる儀式というものがある。神様と空と地上とで会話を交わし、希望のものを降らせてもらう。そのための儀式。金でもなんでも手に入る魔法の儀式。

 牡丹に殺されかけたとき。そのとき葉太は神様と会話を交わした。そして、神様自身を空から降らせたのだ。空にある雨雲から雨粒が降るのと同じ。神様は空にいるのだから、当然降らせようと思えばできるわけだ。そもそも、カエルやら肉やらなんやらが降ってくる世界だ。何が降ってきたっておかしくはないのだ。そうして時間を巻き戻すように神様を説得した。彼、あるいは彼女が快諾したのでこうやって日常が戻っているわけだ。いつもは代償を欲するはずの神様は、何も要求しなかった。おそらくは願いを叶える代わりにどうでもいいものがなくなっているのだろう。神様というのはてっきり性格の悪いやつだと思い込んでいた葉太は、案外簡単に戻ってきた日常に少し困惑していた。無償でこんなことをしてもらえるなんて。幸せで素晴らしい儀式である。

 とにかく、葉太は焦っていた。牡丹はナイフ片手の殺人鬼だ。いつ陰惨で杜撰な惨劇が起こるかわからない。計画的なはずの彼女は衝動的だった。葉太への愛は彼女にはなかった。殺戮劇の原因は、葉太が夏目家の当主、つまり神様を管理する役目になれないことだった。牡丹に葉太への愛情というものはなかった。葉太に当主になる気は一切ない。だから結婚しても意味がない。それなのに牡丹はにこにこと笑顔を振りまいている。

 あっという間に宴会もどきは終わり、葉太の部屋に牡丹がやってきた。たくさん二人で話した部屋は彼女にとって新鮮に映るようだ。きょろきょろとあたりを見渡しては葉太の本を物色したりしている。何度も読んだことがある本なのに。くだらない本なのに。時間は確実に巻き戻っていた。

 夕日はとっくに落っこちていて、夜空が無駄なスペースの多い屋敷を見下ろしていた。牡丹が天井を見上げている。鬱陶しい長い黒髪をかきあげる仕草は見飽きた。

「葉太様、私たちうまくやっていけるでしょうか。これでも私、葉太様が大好きなんですよ。だから、どうか仲良くしてください」

 見え透いた嘘だった。返事も適当にして、葉太は星を見上げた。いっそのこと隕石でも落としてやろうか。いや、自分にはできない。そんなことできるのなら、とうの昔にやっている。度胸のある男ではなかった。

 葉太は文机を漁る。特に何も考えていなかった。黒インクのペンにプラスチック定規。大きなハサミ。小さくなった鉛筆。

「牡丹」

「はい、なんでしょうか」

 葉太は手招きする。牡丹は少女の笑みを浮かべて葉太のもとへ。たった十八年しか生きていない彼女だ。あどけない。その垢抜けなさが葉太には恐ろしかった。

 葉太は牡丹を抱きしめた。小さな体。艶のある黒髪。細い腕。頬は赤くなっている。

「なんでございましょう……」

 吐息。彼女の髪に触れる葉太の手。幸せそうな顔。新婚の甘さ。牡丹が葉太の背中にそっと触れる。柔らかい感触と、男性の骨格を感じた。温かい。時間が止まったかのようだった。顔を埋めてみる。温もり。牡丹はなんだか子供みたいだった。柔らかな空気が二人を包む。動けない。でも、動かなくていいと思える。至って普通の新婚夫婦。時間は巻き戻った。牡丹は少女。

 じゃきん。音がした。

「……え」

 牡丹の肩を滑る落ちる黒。価値がなくなってしまった髪が床に広がった。牡丹が葉太から目をそらす。葉太の瞳は絶対零度。

「残念だったな、いい旦那様じゃなくて」

 悪人顔。葉太の心は冷たくなっていた。そうしないといけない。この少女の皮を被った悪魔に、現実というものを教えてやろうじゃないか!そうして二人は別々の道を歩むのだ。それでおしまい。物語は終わり。きっとエンドロールには牡丹と葉太の名前があるのだ。ずりずりと後退り、牡丹がうつむく。髪を一房つかみじいっと見る。何も言わない。

「お前にはそれがお似合いだよ」

 ばーか。最後の決め台詞。これで終わりなのだ。寂しさとも言い難い気持ちが葉太の中で溢れた。牡丹が顔をあげた。その紅潮した顔を。葉太の脳が一瞬停止する。なにかがおかしい。

「似合っておりますか」

 沈黙。葉太の目がぐるぐる回る。頭の中は疑問でいっぱい。そんな葉太を置き去りにして牡丹はにっこり笑顔を見せた。

「私、髪を短くしたのははじめてです」

「ちょっと待て馬鹿」

 葉太の部屋がすっかり美容室になってしまった。姿見に一直線に向かっていく牡丹を葉太は止められない。くるりと牡丹が一回転。

「葉太様ありがとうございます」

「牡丹、お前、なんというか。大丈夫か」

「似合っているのでしょう?私は気に入りましたよ」

 どたどたという足音。非常にまずい。誰かに嫁いびりの証人になってもらおうと思っていたが、ただ犯罪に手を染めただけになってしまった。悪者は自分だけでいいとは思っていたのだ。でも、求めていたのはこの結末ではない。

「大好きですよ、私の旦那様」

 ノック音。明るい返事。お手伝いの悲鳴があがるのは時間の問題だ。葉太はただ自分の嫁を見つめていた。可愛らしい。数秒後、悲鳴があがった。牡丹は少々強すぎる。

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