第2話

   私が姉さんの部屋を出てから少しして母がやってきた。


  母は何やら慌てている。どうしたのだろうと思い、声をかけた。


「お母様。どうかしましたか?」


「風香。あなた、何で大姫の所にいるの。早く自分の部屋へ戻りなさい!」


「……どうしてです」


「衣装の手直しや調度品の数々の準備。あなたも手伝いくらいはしてもいいのに。だというのにやる気がないったら。おかげでわたくしが走り回らないといけないのよ。どうしてくれるつもり?」


「……わかりました。お手伝いはします」


  じゃあ、今から行くわよと言って私は自室に引っ張って行かれたのだった。


  その後、母や女房達と一緒に衣装の手直しをやる羽目になった。これはこれで面倒だ。


「姫様。こちらのお花の刺繍はいかがでしょう」


「そうね。いいと思うわ」


  そんなやり取りをしながらちくちくと袿に刺繍を施していく。私、自慢じゃないけど。お裁縫はそれなりに得意だったりする。なのでやる気さえ出せば、早く仕上げる事ができた。

  私付きの女房で衛門という若い子がいる。まだ、十八歳ではあるが。乳姉妹なので付き合いは長い。それこそ、私が赤ん坊の時から仕えているので女房歴も十年になるか。


「……姫様。手が止まっていますよ」


「はあい。やればいいんでしょ。やれば」


  私はまた手を動かす。退屈な刺繍ではあるけど。必要だから仕方ない。衛門に見張られつつも夕刻まで続けたのだった。


  夜になり夕餉を食べた。また、香屋子姉さんの所に行こうか。

  そう思っていたらかたんと音がする。どうしたのだろうと思っていたら明かりの火がゆらゆらと揺らめいた。

  何だろう。女房達が蔀戸や妻戸はしっかりと閉め切っているはずだ。なのに火が揺らめくという事はどこかが開いているという事。私は立ち上がるとそっと二階棚に近づいた。櫛などがしまってある箱を急いで出す。蓋を開けて中から小刀を取り出した。あくまで護身のためだが。それでも持っていないよりはいいだろう。


「……姫」


  不意に低い男性の声が聞こえた。私は右側へ顔を向けた。

  そこには見知らぬ人物がいた。二藍色の直衣と薄い萌黄色の指貫を身に纏った若い男性だった。香屋子姉さんよりは少し上だろうか。


「……どなたですか?」


「私をご存知ないのは仕方ないですね。あなたは香屋子姫でしょうか?」


「……私は一の姫ではありません。お人違いですわ」


  はっきり言うと男性は少し身じろぎした。どうも会う相手を間違えたので驚いたらしい。


「……そうでしたか。という事はあなたは妹君ですね?」


「ええ。姉をお探しでしたら東南の対屋ですわ」


「ありがとうございます。後、間違えてしまって申し訳ない」


  男性は少し頭を下げると出て行こうとする。私も小刀を仕舞おうと立ち上がった。けど不意に男性がこちらに振り返った。


「あの。姫君。もし良ければ、御名を聞いてもいいですか」


「……世間では風音の君と呼ばれています」


「風音の君ですか。あなたに合う良いお名前ですね。覚えておきましょう。それでは」


  そう言って男性は今度こそ出て行ってしまう。私はそれを黙って見送ったのだった。



  翌日、何故か香屋子姉さんが一人でやってきた。ちょっと不機嫌そうな表情をしている。


「……風香。ちょっといいかしら」


「どうかしましたか?」


「どうかしましたかじゃないわよ。あなた、昨日に殿方がこちらに来たのは知っているでしょう」


「……え。そういえば、昨夜に殿方が来ていたわ。あの方がそうだったの」


「そうよ。あの人、あたしの居所まで来て切切と口説いてきてね。おかげで困ったわ。あなた、あたしの部屋の場所、教えたでしょう?」


  ギクリとした。そう、昨日の男性は確か香屋子姉さんの名を口にしていた。私は仕方ないと頭を下げた。


「あの。勝手に教えてしまったのは謝ります。ごめんなさい」


「……まあいいわ。風香。あたしが男嫌いなのは知っているんでしょう。だというのに仮にも実の姉の居場所を教えるだなんて褒められた事じゃないわ。今度からは気を付けてちょうだいね」


「はい」


  頷くと姉さんは私に近寄る。頭を優しく撫でてきた。


「でもいきなり殿方が来たから驚いたし怖かったでしょう。あの方に文で文句を言っておくわ」


「……本当にごめん。姉さん」


「もう謝らなくていいの。風香、あなたは入内の事だけ考えていなさい」


  頷くと姉さんは頭から手を離す。ふわりと抱きしめられた。今は秋だからかほのかに侍従の香が薫る。驚きながらも私も抱きしめ返した。姉さんはそうした後で私に何かを手渡した。そうしてそっと離れた。見てみるとそれはえび香だ。現代風に言うと匂い袋である。私は何故と問いかけた。


「……入内したら滅多に会えなくなるでしょう。だから餞別よ」


「ありがとう。姉さん」


  お礼を言うと姉さんは微笑んだ。私は嬉しくて涙が出てきたのだった。

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