ー運命の女ー
井之 圭介
第1話
男の中で何かが壊れた音がした
(1)
「ーという事で現在この方はこの住所に住んでいてー」
その日男はある建物の中でテーブルを挟んで報告を聞いていた
「ー調査報告は以上になります、報告書はこちらに、料金はー」
男は無表情でバッグから無造作に札束を出すと枚数を数え、テーブルに放り報告書を手に取ると建物を後にした
30年…ようやく見つかった…これでー
(2)
数日後、準備を終えた男は部屋の姿見の前にいた
紺のスラックスに白いYシャツ、黒のネクタイと紺のジャケットに手提げのビジネスバッグ
どこから見ても営業中のサラリーマンといったいで立ちだ
これなら田舎道を歩いていても違和感はないだろう、そう判断した男はそのまま部屋を出た
さぁ、久しぶりの…最後の再会だ
(3)
男はとある地方の道を歩いていた
川を渡り
西に歩を進める、抱いている
喜びは今まで
与えられたどんな喜びよりも鼓動を早め既に遠足前の
子供のように男を突き動かしていた
暫くして一軒の家の手前で足を止める
ここだ…ここにあの人がいる
事前の調査調書を片手に男は物陰に身を潜め、その時を待った
(4)
30と数年前、入学した高校で割り当てられた教室に入った時、男は衝撃を受けた
それまで剣道しかやる事のなかった男の目に物静かに本を読む、まさに女神の姿を見たのだ
2年になり気持ちは募るばかり、初めて誰にも奪われたくないと思いいたった男は幾度かデートに誘い、想いを打ち明けた
想いを受けて貰えたあの日の事は男は忘れていない、見るものすべてに色が着いたようであった
それからしばらくの間、男と女は幸せな日々を過ごしていた
キスもした、お互いの愛を確かめて一つにもなった、至福の時がそこにはあった
男は母子家庭で生活はきつく、苦しかったが、だからこそ女に苦労をかけさせまいと必死に働き、交際費のすべてを賄っていた
働く苦労やお金の苦労をさせまい、必ず守り切ると男は息巻いていた
(5)
3年になって急に転機は訪れた、女は言った
「父が、あなたと付き合うのはやめなさいって…」女の父は学歴や地位を気にする人間だった
母子家庭で姉が既に大学に通っていた男には、大学に進学するという道はなかった
男も女が大学へ通っている間、必死に仕事をして2人の将来の為のお金を稼ぐつもりでいた
全てが男の目の前から崩れて行った
目に涙をためながら「あなたと一緒に行く事も考えたけど、大学にまで進ませてくれる家族を捨てる事は出来ないの」
とむせび泣く女を前に男は何も言う事は出来なかった
そして、男の中で何かが壊れる音がした
男の人生はここで終わりを告げたのだった
(6)
それからの男は荒れた
働きにも出ず引きこもり、たまに車で信号も無視して暴走する
そのうち事故って死ねたらと考えていたが奇跡的に一度も事故る事なく時間だけが過ぎて行った
引きこもり生活もやがて金銭的状況により出来なくなり、男は適当に就職し適当に働き始めた
給料が出るたびにギャンブルに費やし、飲み屋を回る、そんな生活が暫く続いたあと男は一人の女性から告白された
もしかしたら忘れることが出来るかも知れない、そう思った男はその女性と付き合いを開始した
(7)
そのうちに流されるまま結婚し、子供も出来た
だが男は妻にも、子供にも愛情を持つことは無かった
男の胸中には常にあの女がおり、妻も子供も単なる同居人に過ぎなかった
そんな男の胸中が悟られない訳もなく妻は不倫をし離婚することとなった
それでも男にとってはお構いなしだった、親権もとられたがそんな事はどうでもいい
逆に男にとっては願ってもない事だった、これであの女と運命を共にする一歩を気兼ねなく踏み出せる
男の人生はあの時に止まったままだったのだ
(8)
それから男は休む間もなく働いた
風の噂で女は大学で父親の認めた男と結婚し県外に出ていたのは聞いていた
とはいえ手がかりがそれだけでは探すのにどれだけ金がかかるか解からない
これだけあれば充分だろうと思う額が貯まった時、人生が終わりを告げてから30年が経っていた
男は何社か探偵社を巡り女の行方を探った
そして先日、ついに居場所を突き止めたのだった
(9)
やるべき事は何度もシミュレートしてきた
報告書によれば女と夫、息子の3人暮らし、息子は在宅率が高く今日も居そうだ、その方が好都合ではあるが
夫は女の代わりに買い物に行くことがある、車で出るので居るかいないかはすぐわかる
男は夫が車で出かけるまで身を潜めている
ビジネスバッグには研いだばかりの中華包丁と手ぬぐいにロープ、最低限度の準備はしてきている
そして、報告書で見知った夫が一人で車に乗って出かけて行った
見届けた男は行動を開始した
(10)
カチャリ…玄関のドアを極力音を立てないように開けた男は中を見回す
入口左にすぐ2階への階段、右はリビングに続いているらしくリビングからはTVの音がしている
理想通りの配置だ、男は足音を忍ばせて2階へ上がる
幾つかある扉を一つ一つ静かに開けていく、ヘッドホンを付けてモニターへ向かってゲームをしている息子を発見する
ヘッドホンはこれまた好都合だ、男はバッグから中華包丁を抜くとそろりそろりと背後に近付いて行く
一気に距離を詰め、後ろから片手で口を塞ぐとそのままもう片方で喉を薙ぐ
一瞬で血しぶきがあがり、腕の中でしばらくの抵抗があったが血しぶきが収まると共にその抵抗もなくなった
目的の一つはこれで果たされた
(11)
女はお茶の用意をしていた
2階からドタバタと音がする、息子がまたゲームでもしながら体を動かしているのだろう
注意するべきかどうか悩んで、一度は放って置く事にした
しばらくして静かになったのでほっとしたその時、急に口を塞がれ首筋に冷たいものを突き付けられた
「大声を出したら殺す、わかったら頷け」
無機質な感情のこもっていない声で言われ、混乱しながらも頷いた
男は女に猿轡を嚙ませ椅子にロープで結び付けた
女は男を見て更に混乱した、歳を取ってはいるが見た事のある顔立ち、昔愛した事のある見慣れた面影
親から言われ別れた後からは諦めるために一度も会おうとはしなかった、連絡もしなかった、ここにいるはずがなかった
大学在学中にお見合いのように親から付き合いを勧められた夫も愛するように努めて既に忘れ去ったはずのいるはずのない男だった
なんで?どうして?収まらない混乱に男の着ているジャケットの血を見て更に混乱は加速していった
(12)
男は玄関から入ってすぐに見える位置に女を配置すると夫の帰りを待った
リビングの入口に死角になる位置に身を潜める
女の位置からは丸見えな配置、男がどうしようとしているか一目瞭然だった
やがて、車の音がした、夫が帰ってきたのだ
女は懸命に動く首だけで来ないように促す、だがいきなり妻が縛り付けられている様を見た夫は急いでリビングに入ってくる
その刹那、男が両手で中華包丁を真横に薙いだ
ガコン!と鈍い音と共に夫の首が宙を舞った
女は目の前の惨劇が信じられずに呆けた表情のままだった
(13)
男は想いを馳せていた
30年前のあの日、振り向いて笑いかけてくれた女の笑顔
卵型の輪郭、整った顔立ち、切りそろえられた前髪と大きな一本三つ編みに飾り気のないメガネ
他の人にはそうでなくとも、少なくとも男には絶世の美女、そして抱きしめた時の温もりを…
(14)
回想を終えた男は血まみれの中華包丁を振り上げながら女に語り掛ける
「30年…長かった…それでも君は相変わらず美しい…」
男はそのまま女に歩み寄る
女は絶望の中に助けを、奇跡を求めながら目を瞑った
(15)
しかし、幾ら待っても何もやってこない
女は恐る恐る目を開けた
そこには振り上げた中華包丁を己の首筋に突き立てた男の姿があった
混乱して何が何だか理解できない女に男が突っ伏し、衝撃で血しぶきが女の全身に飛び散る
男は愛するものを失い失意のままに過ごす人生を、女にも科す事に成功した
そしてー
(16)
「あは…あははは…」猿轡をされたまま女が嗤う
女の目から大量の涙が溢れた
女の中で何かが壊れた音がした
ーそして女は運命の女になったー
ー運命の女ー 井之 圭介 @andoro01
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