審判の日

土屋正裕

審判の日

西暦2045年、第三次世界大戦で東京は核攻撃を受ける。放射能汚染から逃れるため、中学生の沢木涼介は決死の東京脱出を図る!



審判の日


令和27年(2045年)8月11日(金曜日)。


大日本帝国の敗北によりもたらされた第二次世界大戦の終結から100周年となるこの年、国際情勢は風雲急を告げていた。

アメリカ合衆国とロシア連邦の対立が激化し、近いうちに核戦争が始まるのではないかとの噂がしきりに飛び交っていた。

沢木涼介(15歳)は自宅地下のシェルターで目を覚ますと、日課のニュースをチェックする作業のためパソコンの電源を入れた。

シェルターは核攻撃にも耐えられる構造で、家族4人が中で長期間生活できるように設計されていた。

トイレ、冷蔵庫、電子レンジ、空調システムが完備され、インターネットも使用可能。非常用電源も用意されている。

2ヵ月分の水と食料も備蓄してある。ここに籠もって核爆発をやり過ごせば、あとは残留放射能が減るのを待てばいい。

「放射能と言っても大したことはないんだ。放射性ヨウ素の半減期(放射能が半分に減る時間)は8日だ。つまり、1週間もたてば放射性ヨウ素はほとんど消えてなくなる。問題は寿命の長い核種だが、セシウム137は30年。ストロンチウム90は29年。プルトニウム239は2万4千年もある。セシウムは血液に溶けて心臓発作を引き起こし、ストロンチウムはカルシウムに似ていて骨に入り癌や白血病を引き起こす。プルトニウムは吸い込むと肺がんになる。しかし、セシウムやストロンチウムはデトックスできる。ベントナイト(土の一種)とクロレラを飲んで体内を浄化すればいい。プルトニウムは重くて遠くまで飛ばないから、それほど心配する必要はない。海藻を食べてヨードを摂取すれば放射性ヨウ素で甲状腺をやられることもない。だから、放射能を必要以上に怖がることはないんだ」

涼介の父親・耕太(50歳)は祖父の代から続く開業医で、涼介は父から放射能に関する知識を叩き込まれた。

耕太は40代から書き始めた恋愛小説が公募新人賞を獲得し、中年男女の不倫を描いた『禁断の果実』が大ヒット。映像化もされた。

莫大な印税で耕太は東京の渋谷に500坪の豪邸を建て、地下に核シェルターを築いた。

「近いうちに戦争が始まる。日本人はどうしようもないほど平和ボケしているが、今に間違いなくとんでもないことが起きる」

というのが耕太の口癖であった。


この夏、核戦争の危機が迫っていると直感した耕太は仕事を辞め、家族をひそかにシェルターに避難させた。

涼介は中学生だったが、自宅にシェルターがあることは誰にも言わなかった。

「うちにそんなものがあるなんて知られてみろ。いざとなったら、みんな押し寄せて何もかも奪われてしまうぞ」

耕太が厳しく口止めをしていた。

「うちだけ助かってもいいのかよ。みんなはどうなるんだよ。それでも医者かよ」

と反発する涼介に、

「いいか、涼介。人間というのは皆、自分勝手な生き物なんだ。困ったときに助け合うのは世の中が平和な時だけだ。いざとなればみんな、自分のことしか考えなくなる。戦争や災害で焼け出されて、それでもみんなが助け合うなんてのは幻想だ。うちに水や食料やお金があるのを知れば、それを奪おうとしてみんなが襲ってくる。普段は仲良くしていても、人間は非常時に信じられないほど残酷になる。人間ほど恐ろしいものはないんだよ」

さらに耕太はこう付け加えた。

「何があっても人は誰も助けてくれない。涼介、お前の味方はお前だけだ」


涼介がシェルターの自分の部屋でパソコンに向かっていると、机の上に置いてあるスマートフォンがぶるぶると震え出した。

「Jアラートだ!」

涼介は得体の知れない恐怖を覚えた。

全国瞬時警報システム(通称J-ALERT)は、大規模な災害や日本が武力攻撃を受けた場合、国民保護のため必要な情報を通信衛星を利用したネットワークで知らせるシステムである。


「午前8時45分ごろ、日本列島に向けて何らかの飛翔体が発射されました。国民の皆様はただちに命を守る行動をとってください」

スマホの画面に流れる文字列を読み取りながら、

「お父さん!核戦争が始まったよ!」

と涼介が叫んだ。

「みんな、ベッドに入れ!頭から毛布をかぶってじっとしているんだ!」

怯えている母親の浪江(45歳)と妹の瑞穂(10歳)を涼介はベッドの中に押し込んだ。

「着弾まで3分しかないぞ!衝撃に備えるんだ!」

耕太が叫んで部屋のドアを叩きつけるように閉めた。


ロシアの首都モスクワから東に約1800キロメートル離れたウラル地方コスビンスキー山。

山の地下深くに建設された核ミサイル発射基地から一発のロケットが打ち上げられた。

このロケットから発せられる電波信号に応じて、ロシア各地の核ミサイル基地から300発もの大陸間弾道ミサイル(ICBM)が発射された。

同じ頃、北海道北東沖約500キロのオホーツク海。

水深450メートルの深海に潜むロシア海軍のボレイ級原子力潜水艦にも核ミサイルの発射命令が出された。

この原潜には16基の核ミサイルが搭載されている。

ロシアの大型ICBM「サルマト」はMIRVという多弾頭システムを採用しており、1発に16個の核弾頭を搭載している。

1発が800キロトン(広島市に投下された原子爆弾の53倍)もの破壊力を持つ水素爆弾(核融合爆弾)であり、広島と長崎に投下された原子爆弾(核分裂爆弾)を起爆剤とする。

核弾頭はいったん地球の外に出た後、大気圏に突入し、音速の20倍もの猛スピードで飛来する。

複数の核弾頭が日本の各都市めがけて別々に飛んでくる。発射を探知できても着弾まで残された時間はわずか数分しかない。

日本の自衛隊が保有するイージス艦や陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」を用いても、極超音速ミサイルを迎撃するのは不可能である。


さて、その時、東京にいる人々はどうなるのであろうか。

午前8時45分、朝からうだるような猛暑の中、都民はいつもと変わらない日常生活を始めていた。

通勤ラッシュがようやく終わり、会社員は冷房の効いたオフィスでホッと一息入れ、ハンカチで額や首筋の汗を拭っていたところだった。

Jアラートが鳴り始め、人々は異変に気付き始める。

だが、この時は何も起きない。どうせ、誤報だろう……。そんな淡い期待が人々の脳裏を占める。

しかし、破滅は静かに着実に迫っていた。

大気圏に突入した核弾頭は断熱圧縮で白く輝き、美しい流れ星のように東京の青い空に一筋の光の線を残した。

人々がそれを目にした次の瞬間、東京の上空600メートルで核弾頭は炸裂した。

弾頭の前部にある原子爆弾が爆発し、放出された中性子と高熱が弾頭後部の水素爆弾を起爆させたのだ。この間、わずか100万分の1秒の出来事だ。

それは都心に人工の太陽が出現したのと同じだ。

大火球の表面温度は30万℃にも達し、爆発からわずか1秒足らずで半径900メートルの大きさに膨らむ。

爆心地にいた人々や建物はすべて瞬時に蒸発する。跡形も残らない。

爆心地には深さ100メートル、直径400メートルのクレーターが残る。周辺の温度は数万℃に達し、周りの空気が音速を超えるスピードで押し出され、強烈な衝撃波が発生する。

火球は3秒ほどで消滅する。が、爆心から放たれる猛烈な赤外線がすべてを焼き尽くす。

爆心地から半径3キロ圏内の人々は影だけ残して消滅する。爆心地から半径11キロ圏内にいる人々は3度の重い火傷を負うことになる。

皮膚は炭化してはがれ落ち、ボロボロになった皮膚が垂れ下がり、血も体液もダダ漏れとなった人々が幽鬼のように水を求めてさ迷い歩くのだ。

熱線の次に襲うのが激烈な衝撃波だ。

熱線には耐えた鉄筋コンクリートの建物も衝撃波には耐え切れず、模型のようになぎ倒される。

歩行者や自動車は紙のように空高く舞い上がり、粉砕されたガラスや破片が凶器となって襲いかかる。

ここまで爆発から10秒もたっていない。

爆心地で加熱された超高温の空気は凄まじい上昇気流を引き起こし、高度30キロに達するキノコ雲を形成する。

と同時に、衝撃波で吹き飛ばされた空気が一気に吹き戻るため、都内各所で同時多発的に大規模火災が発生する。木も紙も布も自然発火し、傷ついた人々を容赦なく焼き殺すのだ。

しかも、これは1発の核弾頭がもたらす災禍に過ぎない。

1発のサルマトに搭載される16個の核弾頭が東京の各所を襲い、それぞれが爆発して恐ろしい光景を生み出すのだ。

ある意味、爆心地にいて瞬時に消滅した人はこの上なく幸せだったかもしれない。

その後にやってくる悲惨な現実を直視せずに済むのだから……。


核爆発の瞬間、沢木一家は東京・渋谷の自宅地下シェルターで難を逃れた。

Jアラートの通報から着弾までわずか3分しかなかったが、分厚い強化コンクリートの壁に囲まれたシェルターの中は安全であった。

涼介はベッドの上で毛布にくるまって震えていた。

爆発までの時間が永遠のように長く感じられたが、やがて鈍い轟音と地震のような衝撃が立て続けに襲ってきた。

その後は長い静寂。

不気味なほど静まり返ったシェルターの中で一家は息を殺して恐怖と不安に耐えていた。


核攻撃からは生き延びたものの、インフラは徹底的に破壊されてしまい、スマホもネットも使えない。

情報が遮断されたため、どの程度の被害が出たのか、あとどのくらいシェルターの中にいればいいのか分からない。

「おそらく、首都圏は壊滅状態だろう。敵は反撃手段を完全に奪うために、自衛隊と在日米軍の基地を徹底的に叩いたはずだ。市ヶ谷、小平、習志野、朝霞、木更津、横浜の自衛隊駐屯地や、航空自衛隊の府中基地。アメリカ海軍の空母や原潜が寄港する横須賀や、座間、横田基地もやられたはずだ。東京、埼玉、神奈川、千葉は完全に焦土と化しただろう……」

耕太が沈んだ声で言った。


「これは核戦争が起きた場合のシミュレーションだが、ロシアとNATO(北大西洋条約機構)がそれぞれ300発、180発の核ミサイルを撃ち合う。たった3時間の攻撃で死傷者は260万人に達すると予測されている。その後、アメリカが600発の核でロシアに報復し、ロシアも反撃して、45分で死傷者340万人。さらにロシアとNATOは戦後も立ち直れないようにお互いの都市を核攻撃する。45分で死傷者は8530万人。トータルの犠牲者は9150万人。そのうち死者は3610万人と予想される」

耕太が手元の資料を読み上げた。

「敵が狙うのは東京だけじゃない。大阪、名古屋、福岡、仙台、札幌などの大都市も間違いなくやられるはずだ。沖縄の嘉手納飛行場や辺野古基地、長崎の佐世保基地、青森の三沢基地、山口の岩国基地も狙われる。日本全土で核弾頭が炸裂すれば、死傷者は数千万人に達するだろう」

浪江が両手で顔を覆った。

「私たち、これからどうなるの……?」

「とりあえず、我々は生き残ったんだ。ここにいる限り、放射能の心配はない。水も食料も当分は困らない。残留放射能は2週間もすればだいぶ薄まるだろうから、それまでの辛抱だ」

耕太は拳で自分の胸板を叩いて言った。


核攻撃から2週間後。

耕太と涼介は核シェルターから初めて外に出た。

シェルターの出入り口は銀行の金庫の扉のような重く頑丈な金属製のハッチで外界と完全に隔絶されている。

ハッチを出ると長い梯子をよじ登ってマンホールの蓋のようになっている外界への出口に至る。

そこは自宅の庭であり、普段は植え込みに隠れていて、外からはまったく見えない。

シェルターから地上に伸びたシュノーケルには特殊フィルターが設置されており、放射性物質や化学兵器などの毒物をほぼ100%除去できるようになっていた。

耕太が苦心して作った自慢のシェルターであった。

耕太と涼介はガスマスクを装着し、耕太はガイガーカウンターを所持していた。

重たい出口の蓋を開けて2週間ぶりに外に出ると、赤茶けた大地と鉛色にくすんだ空が見えた。

「これはひどい……」

2人とも絶句した。

見慣れた自宅周辺の景色は一変していた。

木造家屋はすべて焼失し、倒壊を免れた鉄筋コンクリート造りの建物も骨組みだけ残して崩れ落ち、焼け焦げた無残な姿をさらしていた。

見渡す限りの廃墟と焦土。

人影はまったくない。犬猫やカラスなどの動物もいない。

樹木もすべて焼けるか根こそぎなぎ倒されている。

かつてそこに存在した生活の匂いは澱んだ空気と死臭に取って代わられていた。

太陽は夏のものとは思えぬ弱々しさで暗い空に浮かび、放射能の塵を含んだ強い風が吹き荒れていた。

耕太がガイガーカウンターの電源を入れると、途端に針が狂ったように振り切れた。

「すごいな……こんな数値、見たことない……」

マスクの中で耕太が呻くように言った。

「残留放射能は大したことないと思っていたが、どうやら考えが甘かったようだ。ロシアのサルマトは1発のミサイルの中に16発の核弾頭が入っている。1発の核弾頭の出力は800キロトン。広島原爆の53倍だ。ロシアの戦略核兵器は水爆だから、核分裂による放射能をあまり出さない“きれいな核”だと思っていたんだが、東京だけで少なくとも16発は落ちたことを考えれば、そんな悠長なことは言ってられないんだな……」

涼介はマスク越しに、

「学校で習ったよ。昔、アメリカがビキニ環礁で水爆実験をやったんだって。15メガトンだから広島の1000倍だよ。放射能を含んだ死の灰が広範囲に降って、住民は避難を余儀なくされた。その後、アメリカが徹底的にクリーニングして、『もう戻っても大丈夫』って太鼓判を押したんだけど、帰還した住民が次々に病気に倒れて、驚いて調べたら放射能は全然減ってなくて、元に戻るには100年かかるらしいよ」

と耕太に言った。

「よく勉強してるな。あまり大きな声じゃ言えないんだが、父さんみたいな医療関係者は検査や治療に放射線を使う。だから、放射線の害については過小評価しすぎているところがあるんだ。でも、そんなことを言ったら商売にならない。放射線は害もあるが、有益でもある。しかし、我々医療従事者はもっと真剣に原子力がもたらす不利益について考えるべきだったんだな……」

耕太の表情が曇った。

「もしかしたら、この核攻撃で日本中の原子力発電所が破壊されてしまったのかもしれない。日本全国に54基の原子炉がある。東京周辺だけでも茨城県の東海第二原発、静岡県の浜岡原発、新潟県の柏崎刈羽原発。青森県の六ケ所村には核燃料の再処理工場もある。西日本の原発群が破壊されれば、放射能は偏西風に乗って東日本は壊滅的に汚染される。この異常な数値はそれが原因かもしれない……」

生存者はいないかと捜してみるが、一面の焼け野原と化した街に人の気配は絶えていた。

誰かいたら助けを呼び、放射能に汚染された土地から一刻も早く脱出しようと思ったが、人っ子一人いない。

道路には焼けただれた車両の残骸が散乱し、白骨化した死体が虚空を睨みつけていた。

「ひどいな、これは……本当にみんな死んでしまったらしい」

耕太と涼介は目に見えない放射線の恐怖と闘いながら自宅周辺を捜索したが、何の収穫もなかった。東京は、いや、日本は死んでしまったのだ。

「これ以上は危ない。戻ろう」

耕太と涼介はシェルターに戻り、体や衣服に付着した埃をはたいてから中に入った。


核攻撃から1ヵ月が過ぎた。

豊富にあった水と食料も残り少なくなり、発電機の燃料も底をついた。

「一体、私たちはどうすればいいのよ!」

浪江はヒステリーを起こし、耕太と激しく言い争うようになった。

まだ幼い妹の瑞穂は、それまで喧嘩をしたこともなかった両親の攻撃的な姿を見て、すっかり怯えてしまっている。

「いつまでここにいればいいの?あなた、2週間もすれば放射能は問題ないって言ってたじゃない。みんな死んじゃって、あたしたちだけここにいて、これからどうするつもりなのよ!」

「ここにいれば、そのうち助けが来る。放射能まみれの外にいるよりは安全だ」

「そのうち、そのうちって、いっつもそればっかりね!一体、いつになったら助けが来るのよ?」

「俺にどうしろって言うんだ?お前たちを連れて、放射能の中、あてもなく逃げろって言うのか?」

「放射能は大したことないって言ったのはあなたなのよ!」

優しかった母親がこれまで見たこともないくらい狂暴にわめくのを見ていると、涼介も辛かった。

「父さんも母さんもいい加減にしてくれよ!今は家族が争ってる場合かよ!みんなで生き延びることを考えなくちゃ……」

「生き延びてどうするの?みんな放射能で死んじゃったのよ。あたしたちもみんな放射能にやられて死んでいくんだわ!」

「よさないか、浪江!瑞穂がすっかり怯えてるぞ」

「どうせ、みんな死ぬのよ!お父さんが言ってることはただの気休め!こんなシェルターなんか作るんじゃなかった!どうせ死ぬなら、いっそのことみんなで死にましょうよ!」

人が変わったように荒れ狂う母親。

自分の無力を痛切に感じながら何もできない父親。

家族がバラバラになろうとしている今、中学生の自分には何ができるのだろうか……?


その夜、浪江は自分の部屋で丹念に頭髪をブラッシングしていた。

入浴もできないシェルター暮らしでストレスはたまる一方である。

こんな時でも、せめて女の命である髪の毛だけは清潔に保ちたかったのだ。

だが、ブラシにごっそりと絡みついた毛髪の塊を見て、浪江が金切り声を上げた。

「どうした?!」

耕太が駆け込むと、浪江はショックで床にへたり込んでいる。

「死ぬのよ、あたし!もう死んじゃうの……」

「一体、どうしたんだ?」

「髪の毛が、こんなに抜けて……ねえ、原爆で死んだ人も髪の毛がごっそり抜け落ちたって言うでしょ?きっと、放射能のせいよ。あたし、放射能で死ぬんだわ」

「気のせいだよ」

「嘘!みんな放射能で死ぬの!遅かれ早かれみんな死んじゃうんだわ!」

「浪江、落ち着け」

ヒステリーの発作を起こした浪江を眠らせるために耕太は強い鎮静剤を投与するしかなかった。


次の日の朝早く、涼介は耕太に叩き起こされた。

「涼介、起きろ」

眠い目をこすりながら涼介がベッドから起き上がり、

「今、何時?」

「もうすぐ5時だ」

「もうちょっと眠らせてよ」

「涼介、これから父さんが言うことを落ち着いて聞くんだ」

「なに……?」

耕太の目は真剣そのものだった。

「涼介、瑞穂が死んだ」

「えっ?」

「自殺だ。遺書はない。部屋のドアノブに首を吊って死んだ」

「死んだ……?」

「そうだ。もう瑞穂は帰ってこない」

「嘘だろ……」

あまりにも急な話なので、まるで実感が湧かない。明るく快活だった妹が何故、自殺したのか。

「涼介、今日でお別れだ。お前はこれからひとりで生きるんだ」

「えっ……?」

「父さんも母さんも今日限りで親子の縁を切る」

「え?な、なんだよ、それ……」

「涼介、母さんはもう帰ってこない」

「ど、どういうことだよ?」

「母さんは眠った。もう二度と起きない」

「母さん、寝てるだけじゃないのかよ?」

「父さんが強い薬を打ったんだ。今頃は瑞穂と天国にいる」

「な、なんで、そんなことを……」

「ここにいても、いずれ死ぬだけだ。父さんもお前も放射能にやられて死ぬ」

「だから、母さんを殺したの……?」

涼介は息を呑んだ。

「心配するな。父さんも逝く。母さんと瑞穂の面倒は俺が見る。だから、お前はここから逃げて、どこまでも生き抜くんだ」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ……」

「涼介、もう時間がないんだ。日本という国は亡びる。いや、もう亡びたんだ。今後は生き残った若い日本人が国を立て直すんだ」

耕太は痛いくらい涼介の両手を強く握りしめた。

「涼介、親として本当に申し訳なく思う。こんな時代に生まれていなければ、お前も瑞穂も幸せな人生を送れたかもしれない。だから、恨むなら父さんを恨め。俺は地獄に落ちたって構わない」

「…………」

「だがな、涼介。これだけは忘れるな。人間、この世に生まれてきた以上は死ぬまで生きなければならん。最期の瞬間まで人は自分の力で生きていかなければならないんだ。人生は苦しい。決して楽しいものではない。それでも人間は死ぬまで生きていかなくちゃいけないんだよ」

「なんだよ、それ。親の勝手に生んでおいて、そんなことってありかよ!」

涼介は目に涙を浮かべて耕太を罵った。

「父さんはそれでいいかもしれないけど、俺はどうなるんだよ!こんな世界で、たったひとりで生きていけって……あまりにも無責任じゃないかよ!」

「そうだ。無責任だ」

「ふざけるなよ!あんた、それでも親かよ!」

涼介は号泣した。

「親として、人間として、俺は最低だ。でも、涼介。お前は生きなきゃいけない」

「…………」

「お前には、やらなきゃいけない仕事がある。ここで起きたことを後世に伝えるんだ。そして、できることならば、母さんや瑞穂をこんな目に遭わせた連中に仕返ししてほしい。それができるのは、お前みたいな若者だけなんだ」

「…………」

「涼介。お前、体の具合はどうだ?」

「……別に……何ともないけど」

「そうか。父さんは、どうも具合が悪い。放射能の中を何時間も歩いていたからな」

「元気出せよ」

涼介は力なく言った。

「お前、チェルノブイリの事故を知ってるか?」

「チェルノブイリ……?」

「そうだ。お前が生まれる前だが、ひどい事故だった。放射能にやられて沢山死んだ。でも、放射能に強い個体は生き延び、今やチェルノブイリ周辺の森は野生動物の宝庫なんだ」

「それが、どうしたの?」

「涼介。お前は放射能に強い個体かもしれない。お前なら核戦争後の世界でも生き延びれるかもしれない」

耕太は奥の部屋から小さな木箱を持ってきた。

蓋を開けると、まばゆい金色を放つコインが入っている。

「カナダのメイプルリーフ金貨だ。金に困ったらこれを金に換えろ。それだけの価値はある。俺がお前に遺してやれるのはこれくらいだ」


涼介は涙に濡れた顔をこすって、飲料水と保存食の入ったリュックサックを背負った。

ガスマスクを着け、ガイガーカウンターを手にシェルターから出た。

耕太が見送った。

「放射能汚染の少ないところを行け。あんまり無理はするな。なるべく生きろよ」

涼介は何度も振り返りつつ自宅を離れた。

何度目かに振り向いた時、すでに耕太の姿はなかった。

(生きるのか、おれひとりで……)

涼介は乾いた土を踏みしめながら黄色い空を見上げた。

日本の夏の風物詩だった蝉の鳴き声はまったく聞こえなかった。



これを書くとき、“日本人”の大半はもはや24年も前の出来事など覚えていないかもしれない。


ロシアによる先制核攻撃で日本全土は廃墟と化した。


日本政府も自衛隊も在日米軍も瞬時に壊滅し皇族も全滅した。


アメリカとNATOはロシアに報復し、第三次世界大戦はたった1日で終結した。


アメリカ合衆国、ロシア連邦、中華人民共和国の代表者は戦後処理問題を話し合うため、2046年4月30日、カザフスタン共和国の首都アスタナで会談。この「アスタナ合意」で日本の運命が決した。


日本は「中華人民共和国東海省倭族自治州」となり、中国に併合された。


自治政府の首都は岡山県岡山市に置かれ、治安維持のため中国人民解放軍が進駐した。


核攻撃で人口が激減した日本列島には中国人が大量入植した。


全国の広大な焼け跡には太陽光発電パネルが敷き詰められ、海底ケーブルで中国大陸に送電。日本は中国への電力供給基地となった。


放射能汚染の激しい土地は核廃棄物の最終処分場となり、日本の荒廃した山野には放射性廃棄物のドラム缶が山積みにされ野ざらしとなった。


自治政府は日本人と中国人の同化政策を推進。


生き残った日本人女性の多くは中国人男性と結婚した。日本人男性は強制断種され、日本人の子どもは強制堕胎された。


公用語は中国語となり、日本人と中国人の混血が増え、日本の中国化が急速に進んだ。


中国の日本併合に反対する日本人は武装抵抗組織を結成しゲリラ戦を展開したが、2050年代半ばまでに中国軍に鎮圧された。


こうして神武天皇の即位以来、約2700年にわたり続いた「日本国」という世界最古の単一王朝国家は滅亡したのである。


中国の国営新華社通信は人民解放軍を歓迎する日本人の様子を報道。新華社通信の記者は、


「街道には多くの日本人が『熱烈歓迎』と書かれた横断幕を掲げ、赤旗をふって兵士たちを熱狂的に迎える日本の子どもたちの姿もみられた。日本人は概ね、中国共産党の“解放”を好意的に受け入れている」


などと伝えた。


中国共産党政府は声明を発表し、


「日本人民は2千年におよぶ封建制から解放され、真の人民民主革命と日中友好の道を模索している。偉大なる中国共産党の指導の下、日中両人民は平和と発展の道を歩み始めたのだ」


などと高らかに宣言した。


戦後、世界は南北アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の「自由主義諸国連合」と、ロシア・中国を中心とする「全体主義諸国連合」、中東からアフリカ大陸にまたがる巨大な「イスラム帝国」に分裂した。


全面核戦争で大きな痛手を受けたアメリカ合衆国とロシア連邦だったが、両国ともに国土は広大で資源も豊富であり、戦後の復興は急速に進められた。


戦後も両国は大量の核兵器を保有しており、戦争終結から四半世紀近くが経過した2069年現在も厳しい冷戦状態が続いている。


朝鮮半島は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)により半島統一。大韓民国は世界最速の少子化で亡国の瀬戸際にあったが、ロシアの核攻撃と北朝鮮軍の怒涛の南進(韓国侵攻)にあっけなく陥落した。統一朝鮮は「高麗民主共和国」を名乗った。


中華民国(台湾)も中国に併合された。台湾軍の必死の防戦もむなしく、米国は台湾介入を拒否。かつてのベトナムやアフガニスタンのように見殺しにされた。中国軍による平定後も台湾ゲリラの武装抵抗が続いた。現在、台湾亡命政府が中国支配に抗議し米国で活動中である。


敵対するインドとパキスタンはロシアの後ろ盾を受けたパキスタンがインドに対する先制核攻撃を実施。インドも核報復攻撃に出て両国の死者は1億人を超えた。世界最大の人口を抱えるインドは歴史的に中国とも対立しているが、現在までに数度の武力衝突があったものの、全面戦争には至らず、戦後もインドは英語圏という強みを活かして驚異的な経済成長を続けている。


イランや中東諸国と激しく対立しているイスラエルは核保有国とみなされている。イスラエルは核保有を宣言したイランに大規模空爆。ロシアに支援されたイランも反撃し、実戦で戦術核が使用されたとの見方も出ている。イスラエルは小国ながら強大な武力を保有しており、現在もユダヤ民族滅亡の悲劇の再来には至っていない。


戦後、核攻撃による大規模火災で膨大な量の粉塵が大気中に放出され、太陽光を遮り地球の平均気温が急激に低下する「核の冬」が到来するとみられていたが、実際は「核の秋」程度の寒冷化にとどまった。


しかし、2030年代から太陽活動の低下や火山噴火の影響で地球は「小氷河期」と呼ばれる寒冷化の時代(370年以上続くとの説もあり)を迎えており、異常気象で農業生産は減少。


戦争でインフラが徹底的に破壊され、世界の物流に甚大な影響が出たことから、世界各地で大飢饉が発生した。


放射能汚染による癌や白血病の増加、奇形児や先天的疾患の多発、中長期的な健康被害も懸念されており、飢餓と放射能汚染による全世界の犠牲者は50億人に達するとの説もある。


一方、世界の総人口は急激な増加を続けており、2058年ごろには100億人を突破するとみられていた。このまま人口爆発が続いた場合、水、食料、資源、土地の不足、温室効果ガス激増による地球温暖化、環境破壊と大気・水質汚染の深刻化が問題になるため、核戦争による人口削減は「歴史の必然だった」という見方もある。


2069年現在、人類は滅亡していない。核戦争でも人類は滅びなかったし、国が亡びても、人は生きていくのである。『進化論』を唱えたチャールズ・ダーウィンも言っている。


「強いものが生き残り、弱いものが滅びるのではない。環境に適応できたものだけが生き延びることを許されるのだ」


西暦2069年(令和51年)1月1日

中華人民共和国東海省倭族自治州にて 土屋正裕

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