弱アルカリ性

「あなたが私の全てだって言ったら、笑う?」



 僕は彼女の横顔を見た。



 学校帰り。

 制服姿。

 夕暮れ。



 公園には僕と彼女以外誰もいない。

 僕たち二人はベンチに腰掛け、今の今までずっと黙っていた。体感時間にしておよそ一時間。でも実際には一分も経っていないのかもしれないし、二時間も経っているのかもしれない。

 なんにせよ、今の僕には時間を確かめる術はない。公園の時計はガラス板が割れ、文字盤がバラバラになり、三本の針がものすごい速さで逆に回っていた。


 まるで"時間"なんてものは最初からこの世には無かったんだと言っているかのように、時計は狂う。僕たちは、いつもこんな時計を見ていたのかもしれない。そしてその曖昧な存在の"時間"に、馬鹿みたいに縛られていたんだ。

 時間に正解も不正解も、きっと無い。




「……笑っちゃうよね。

 ごめんね。いきなりこんなこと言って」



 彼女は目の前にある滑り台を見つめたまま、照れたようにはにかんだ。滑り台の金属部分は赤く錆び付き、滑る部分は所々腐敗して穴が空いている。滑り台だけじゃない。この公園に存在している全ての遊具は朽ち果てていた。その中で唯一僕たちが座っているベンチだけが新品のような状態で、朽ちた公園で圧倒的な存在感を出している。



 ベンチが僕の神聖な場所。

 ベンチが僕と彼女の場所。



「でも、本当なの。

 あなたが私の全てなの」



 僕は彼女の髪の毛に視線を移した。

 背中の真ん中まで伸びた黒髪は夕日の光を浴びて眩しいくらいに光っている。毎朝かけるヘアアイロンのせいで少し痛んでパサついていたが、それが余計光を拡散させ、輝かせていた。



 彼女の頬に、涙。



「あなたがいなきゃ、私、生きてられないの。

 あなたがいない世界に、意味なんてないもん」



 彼女は今まで僕に涙を見せた事なんて無かった。いつも僕に笑顔を見せて、僕に愛の言葉を囁いては僕の手を握る。小鳥のように飛び回り、花のように笑い、風のように僕を包む。


 そんな彼女が、初めて僕に涙を見せた。


 でも、僕は動揺しなかった。むしろ、こんな表情を近々見せるんじゃないかと思っていたくらいだ。


 今日が、その日なんだね。






 彼女は僕の心がわかる。

 僕は彼女の心がわかる。







 きっともう、

 彼女と僕は離れなきゃいけない。







「私、あなたを困らせたくないよ……。

 でも、それでも、やっぱり我慢出来ない」




 涙を流す彼女の髪に手を伸ばす。そして一撫でして、そのまま背中に手を回した。

 彼女が潤んだ大きな瞳で僕を見る。また涙が落ちた。



「ねぇ、わかる?

 私がどれだけあなたのことを想っているか……」




 僕はゆっくりと顔を近づける。


 わかる。わかるよ。

 痛いほどにわかる。

 お前がどれだけ僕を想っているか。

 誰よりも、お前よりも。

 僕はわかってる。



「あいし」



 僕は顔を傾け、話の途中で強引に彼女にキスをした。




 それ以上、言わないで。

 もうなにも言わないで。




 彼女はじっとしていた。

 僕も目を閉じたまま、唇を離さない。








 暗闇の中、


 彼女が消えていく感覚と、


 世界がものすごい勢いで歪んでいく予感がした。













 ―――――――――

  

 

 僕が目を開けると、一面が白色に染まっていた。

 それが天井だということに気がつくのにそう時間はかからなかった。辺りを見回すとどうやらここは小さな部屋のようで、クリーム色の壁には花の絵が飾ってあった。その見知らぬ部屋に、なぜか僕は清潔感溢れるベッドの上で横になっている。着ている服も見覚えが無い。しかもパジャマだ。



 僕は体を起こす。

 すると両目からなにかが落ちる感覚がして、僕はなにかが落ちた先……ベッドのシーツを見た。染みになってる。




 ……涙……。




 それは勝手にボロボロ出てきて、喉の奥が熱くなり、次第に嗚咽が激しくなって、ついには僕は絶叫しながら泣き出してしまった。



 すると部屋の扉が横に開き、白い服と白い帽子を着用したいかにも「看護師さん」という女の人が慌てた様子で入ってきた。そしてギャーギャー泣いている僕を見ると、ベッドの脇に置いてあった細長くて小さなボタンを押しながら三桁の数字と僕の名前を言い、続けて「目が覚めました。混乱状態です。先生を呼んでください」と早口で言った。



 その間も僕は泣き喚く。

 勝手に口が動いて言葉が出てくる。



 

「彼女は死んだ!!僕が殺した!!僕が生んだのに!!僕は誰かに愛されたくて、でも誰も愛してくれなくて、そしたら彼女が生まれて、僕を愛してくれて……。でも、本当は僕、気づいてたんだよ!!彼女は僕を愛するためだけに生まれた女の子!!僕のためだけに生まれた女の子!!僕の歪みまくった世界のたった一つの光で、温もりだったんだ!!……そんなの……、きっと助からない!!僕も彼女も!!悪化するだけなんだよ!!だから僕は!!彼女を!!消すしかなかった!!殺すしかなかった!!!僕が彼女を!!!僕は!!!僕が!!!僕の!!!…………ぎゃああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!うわあああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!うわああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」



 ベッドの上で涙や涎を垂らしながら狂ったように絶叫する僕を、女の人はぎゅっと抱きしめてくれた。高校生の男の僕より小さくて華奢な体なのに、女の人の力は強く、しっかりと僕を自分に押さえつける。僕は暴れられなくなり、次第に落ち着きを取り戻し始めた。でも、涙だけは止まらない。頬を滝のように流れ、顎からぼたぼたと落ちては女の人の胸元を濡らした。




「頑張ったね。大丈夫、大丈夫よ。

 これから一緒に治していこう」




 頭上で優しい声がした。

 その声は女の人のものだったが、彼女の声によく似ていた。

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