空に風

 学校から帰宅し、僕は玄関を開けた。

 家に一歩踏み入れれば、そこはもうドメスティック☆ヴァイオレンス。

 家の中には父さんの怒鳴り声と母さんの叫び声、物が激しくぶつかる音でまみれていた。


 リビングに行くと案の定、父さんが母さんの上に馬乗りになり、母さんをボコボコに殴っていた。父さんは僕に背を向けていたので僕にはまだ気づいていないようだった。父さんは母さんを殴る殴る。もう殴ってる理由なんて忘れてんじゃねえかっていう勢いで殴りまくる。


 人が人を殴る時、漫画みたいに「ボコッ」だの「バキッ」だの、そんな派手な音は出ない。少なくとも、父さんが母さんを殴る時はそんな音は出ない。なのに、母さんの顔は順調に腫れあがっていく。父さんは昔運送会社で働いていて、その時に培った筋肉は今でも衰えてはいない。その筋肉をフルに使って、父さんは母さんを殴っていた。


「ただいまー」


 僕はそう言いながら、全力で父さんの頭を金属バットでぶん殴った。

 この金属バットは僕が小学生の時に父さんに誕生日プレゼントとして貰った物だ。あの時は心底喜んで父さんに抱き着いたりもしてたっけ。


 そんな思い出深い金属バットで、もう一発、父さんの頭を殴った。



 すると今の今まで調子よく拳を振り下ろしていたのが嘘のように、あっけなく、父さんはその場に倒れた。頭から血を噴出してビクビクと痙攣している。

 母さんは驚いたような顔を一瞬したが僕の顔を見るとどこか勘違いしたような光が涙にぬれた瞳に灯った。

 生き生きした、目。

 僕はそんな母さんの顔面をぶん殴る。「ぎゃ」という潰れたような短い悲鳴があがった。なんだか母さんの「助けてくれたんだね」というトチ狂ったような目が胸糞悪かった。母さんは以前父さんに向けていたような目で僕を見る。先程とは全く違う「絶望」という影が差した目。


「母さん、今日の晩御飯はカレーがいいな」


 僕はそう言いながら母さんの頭をもう一度殴ると金属バットを放り投げ、二階にある自室へ向かった。



 パタン。



 部屋に入って、扉を閉める。




 静かな部屋。

 静寂が僕を襲ってくる。



 静かな部屋。

 静寂が僕を殺しにくる。




 静かな部屋。

 静寂が僕を正常にする。








「……ぷ。…くくくく…あっはっはっはっはっはっはっ!!!い~ひっひっひっひっひっひふひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひーー!!ひー!!くあーははははは!!!はははははははははは!!!!いひひひひひひ!!!!!ひゃ~ははははははははは!!!!」



 僕は爆笑した。腹を抱えて全力で笑った。腸がよじ切れそうになっても笑い続ける。なんだかとてもおかしかった。笑えて仕方がなかった。僕の笑い声でガラスがビリビリ震える。今年一番の大笑い。



「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!!!ふあはははははははは!!!!ひっひっひっひ…ふっふっふ……ふぁ…ああ……はあ…はあ…ははは……はあ………はあ………」





 ひとしきり笑った後、僕は大きく息を吸い込んだ。







「ぎゃああああああああああああああ!!!!!!!」






 叫んだ。叫びまくった。叫びながら顔面を壁に叩き付ける。何度も何度も狂ったように叩きつける。口の中に石が入り、床に吐き出すと、血にまみれた白い石が出てきた。歯だった。歯をじっと見つめていると、急に吐き気が這いずり上がってきた。頭を壁に叩き付けていたからか、平衡感覚も駄目になってる。僕は重力に従うようにべしゃりと崩れ落ちると、歯の上に思い切りゲロをぶちまけた。僕の「おうぅううえっ、おぶっ、おおおおお」という声と吐しゃ物が吐き出される音が部屋の中に響く。吐きすぎて視界がぼやけてきた。涙。ぼろぼろ溢れる涙に構うことなく、低く唸りながら髪の毛を鷲掴みにして、そのまま力任せに引き抜いた。ぶちぶちと頭の中で響く。ああ、切れていく。ぶちぶちいってる。僕の中で、何かが切れていく。ぶちぶちぶち。

 



 ねぇ、どうすりゃよかった。

 僕はどうすりゃよかったんだ。

 誰か教えてくれよ。

 僕は…。






 ねぇ。





 よろけながらも立ち上がる。が、すぐにその場で倒れてしまった。足が思うように動いてくれない。頭ん中が気持ち悪い。世界がぐるぐる回ってる。今のボロ雑巾のような体じゃ到底立てそうにない。




 でも駄目だ。立たなきゃ。



 空が見たい。空が見たいよ。




 壁に手をついて立ち上がり、そのまま壁を伝いながら窓まで歩く。ふらふらと窓にもたれかかるようにして、髪の毛が絡まりまくった手で窓を開けた。




 その瞬間、優しい風が、僕をそっと抱きしめた。




 僕の血やゲロや涙を優しく拭う。


 僕の頭を優しく撫でる。




 僕の何もかもを、風は、許してくれたような気がした。




 空が僕になにか言っている。




 え?なに?


 聞こえないよ。


 あ、ちょっと待ってて。


 僕、今からそっち行くから。




 僕は窓に足をかけ、思い切りとんだ。









 落下していく間、僕の頭の中をいっぱいにしたものはなんだったと思う?





 それがさ、笑っちゃうんだけどね。










 家族の笑顔だったんだ。

 

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