第14話

 それで、ついナイフを床に落としてしまいました。絨毯が敷かれていたので大した音はしなかったと思いますが、ゴンと、少しの振動を、靴を経由して感じました。


 すぐに、この子が起きて、泣いて音を出すのではないかと、部屋中の物にカッと睨まれたように、怖くなりました。


 爆発物を目の前にしているような気になって、私はすぐにナイフを握り直して、その子の胸あたりに向かって、瞬間、もろ手で突き立てました。迷いませんでした。引き抜く時はブランケットで押さえて、あまり血が飛ばないようにしました。


 血に染まるブランケットを見ましたが安心しきれず、顔を見ようと、ブランケットの頭の部分を捲ろうとしました。顔の上半分が露わになったところで、半分開いたままの、もう動きそうにない少年の目を見ることになりました。


 その目を見て、自分のしたことが急に怖くなったのです。だから、顔全体や傷口を、それ以上に調べようとは思いませんでした。


 それどころか、とっさにその子の顔を隠し直して、自分が小さな子を手にかけたのは本当のことなのかと、たった今、自分がやったことなのに、走り回った後みたいに息が浅く上がってきて、苦しくなりました。


 先ほどの、高ぶった破壊の衝動は、すっかりなりを潜めていました。


 私はシンとした空間にありながら、私が最初に手をかけた母が、血だるまのままこちらへやってきて、私を絞め殺す、これ以上ない生彩の映像が、頭の中でいっぱいでした。


 小さな男の子が死んでいることに驚いて、それなのに、私の頭の中には、私自身がその子を手にかけた記憶があるのでした。そんなはずはなかったのです。


 こんなつもりではありませんでした。あんな小さな子が私の脅威になるはずもないのに、一体どうして、ナイフを突き立てようだなんて残忍な考えが起こせたのでしょうか。


 頭を抱えて、文字通り、ぐるぐる回っていました。すると、誰かがドアを開けに来ました。近付いてくる度にシャンシャンと鳴る鈴の音がしたのです。絵の上手な女の子だということは、姿を見なくてもなんとなく、すぐに分かりました。


 その子は玄関で靴を見たのか、幼い声で「ママ」と言ったのです。来ないでほしい、見ないでほしい、一人にしてほしいと願い空しく、少女はそのまま最奥の部屋に向かって、パタパタと跳ぶような足音で向かってきました。


 いつのまにか靴を脱ぎ、靴下だけになっていたその子の足裏が、小さな子と私が居る部屋の前を通りすぎていきました。私はその少女が部屋の前を走っていくのを見たのです。


 幼い子どもの横顔に、小さな鼻がちょこんとついていて、細い手がひらひら、体をほんの少しだけ前傾させている姿が、その子が描いた海の絵の一コマのように瞬間だけ留まって、また元の通りに動いていきました。心臓に冷たいものが走りました。


 少女の方はこちらが目に入っていなかったのでしょう、そのまま走っていきました。


 その子の母親は、その子が向かった部屋の最奥、ドアの向こう側で、血にまみれて死んでいます。その姿を見て、その子はきっと泣き叫んでしまうと思いました。

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