第12話
私は、慌てて一番尖ったナイフを握りました。膝まで響くくらい、心臓は高鳴っていました。こんなに早く帰ってくるとは、思ってもいませんでした。
カシャと小気味良い音がして、ビニール袋と一緒に、人間が入ってくる気配がありました。内側から施錠する音でさえ、私はしっかり聞いていました。それはつまり、この人よりすぐ後に、誰も入ってこないという合図でした。
そうして廊下をまっすぐに歩いてきた気配は、私が隠れている最奥の、すぐ手前の部屋に入りました。私は間取り図のことなんか、頭からすっかり飛んでいるくせに、自分のことを冷静だと思っていました。
今なら、まだ何とかなる。すみません、部屋を間違えてしまったとか、何か言い訳をして、出ていくことが出来るのではないかと、この期に及んで思いついた自分の頭を、拳で叩きました。それから、叩いた音が聞こえていやしないかとハッとして、もう、思考はめちゃめちゃだと気が付きました。
例えば私が今ここで、その思い付きをやってみたとして、彼女は警察を呼ぶだろうし、警察は私の不始末から、父を割り出すに違いないと思いました。
私がこの計画から降りるとしたら、それはこの部屋に入る前、格子に足をかける前だった、いや、その前からもうずっと、私はもう、戻れないところまで来ている、やるしかない、誰がやる、誰がやる、と呪文を頭の中で唱えました。
退路がないとしたら、敗退に犠牲が伴うとしたら、イチかバチかを賭けて、進めるところまで進み切るほかありませんでした。
ナイフを握った手の指の具合を変え、また握り直しました。いくら強く掴んでも、手から滑って落ちるような気がしました。
あの大人の足音が、今度は私が息を潜めている部屋に近付いてきて、躊躇いなく入ってきました。スライド式のその部屋のドアは、開け放したままでした。私は本棚の脇、ドアから入ってくる人間から死角になる場所を見定め、薄い緑色のカーディガンを着た人が入ってくるのを、息を止めて見ていました。
髪は明るい茶色で、ゆるくウェーブがかかって、揺れていました。昨日の下見の時、一番はじめに家から出てきた女の人でした。
突然に、やらなきゃやられると、それはもう強い衝動を、どんな思い切りよりもはっきりと、髪の先までビリビリと感じました。
私は彼女の背中に、無我夢中でナイフを向けて突っ込みました。振り向きかけ、倒れたその人に、ナイフを、刺すというより体を掘るように、夢中で突き立てました。引き抜く度に、ビッ、ビッと血が飛びました。どこを刺したか、よく分かりませんでした。
まだ日も暮れておらず、光源には不自由していないはずでしたが、私の瞳が人物の形をなぞって、一個体として認識していなかったのかもしれません。とにかくその時に目に付いたのは、緑色のカーディガン、それを血の色に染めようとしました。
それくらいやれば、死んでくれるだろう、いや死んでくれ、死んでくれ、私と父のために死んでくれ、全部お前が悪いんだと思いました。私の喉は勝手に締まっていて、声は出ていなかったように思います。
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