第9話

 ところが私は、他ならぬ父を守るためとはいえ、人間という生き物を殺すことそれ自体に、私はきっと怯える瞬間が来ると、自分自身のことをそう評価していました。それだから、なおさら気を強く、思考が竦んで逃げないようにする工夫が必要でした。


「誰がやる。誰がやる。自分がやる。逃げない、逃げない、逃げない」


 短いフレーズを呪文のごとく唱え、私の心は置いていかれても、体だけは目的を果たすまで動くようにと念じました。


 父の話があまりに長丁場で、足や腰が痺れてきても、目だけは開いて意識を据え付けるのと同じに、決行の日も、終わりまで体を動かす決意をしました。これだけは、私が自分で決めなければなりませんでした。


 父との生活、父の人生を守るために、私はその目的に、自分の決意を縫い付けたのでした。


 準備にありとあらゆる物を用意してくれた父でしたが、実際に手を下すのは私だけと決まっていました。これは、母の吹聴によって父が警察にマークされている可能性を考えてのことでした。


 顔を知られていない私なら家まで辿り着けるだろうと、父は言いました。私自身、十八歳で未成年でしたので、殺人をしても大した罪には問われないという理解でした。それに、少年法という法律があり、子どもは罰からも守られると、父から教わっていました。


 ついに、父は皺の寄った紙を持ってきました。それは、母が住む家の間取り図でした。珍しいカラーのインクで、ドアが外側と内側のどちらに開閉するか、どこに窓があるか、トイレはどこかなどが記されていました。


 どこから持ってきたのかなど、分かりません。父は、天が正しいことに味方して、与えてくれたのだと言いました。


 私はその時はじめて、住宅の間取り図というものを見たので、なんだかミニチュアの部屋のような感じがして、可愛らしいなとも思ったのです。


 下見をすることになりました。父の先に立って、半分が落ちている階段を下りました。父は、軽やかではないものの、慣れた様子の足運びでした。


 私たちは、かつて大窓があったらしい四角い枠を、出入り口代わりにして出ました。大きくて通りやすいだけでなく、隣の建物に面しているその構造を気に入ったのです。


 大枠を出て、人が二人並んで歩ける程度の細い、建物の間を抜けると、通りに出た時にはどこから私たちが出てきたのか、すぐには分からないようになっているねらいでした。


 こうして私たちは、獣そのものか、その糞尿の臭いを我慢しながら狭い通路を通り、今度は空気の良い、ひらけた道に出ました。


 通りの両側には空き地や、崩れた建物、木材やビニールを屋根にして、その下に住んでいる子どもやら、痩せた男やらが居ました。その日は、射し込む朝日に背を向けるか、顔に遮光物を乗せるかして寝転がっていました。


 誰もこちらを気にすることなく、まるで朽ちた景色の一つのように黙っていました。私と父は、可能な限り注目されないように、目立たぬように、計画の話は外でしないことにしていました。


 いつのまにか父が先になり、私はすぐ後を追っていました。やがて、だんだんと立派な屋根付きの家が点在する区域に入っていき、私が不安を覚える前に、足を止めました。周囲にはもうあぶれた子どもも、白目を黄色くしている男も見当たりませんでした。


 それどころか、狭くても庭に芝を敷いていたり、壁におしゃれな装飾を取り付けたり、飾り気のある家ばかりでした。まだ早朝とあって、カーテンは閉まって、鶏の鳴き声がどこからか響いていました。


 私は荷物持ちの仕事のため、この周辺の道には自信がありましたが、一軒一軒の家々には興味があまりなく、気に留めてみたことはありませんでした。

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