第6話

 ある日、私がパンをもらって二階に帰ると、父がいませんでした。子は父の姿が見えないと、自分の所在を失って不安になるものです。


 しばらくして、父が大きな目をして帰ってきて、母を見つけたと言うのです。手には板のような端末を持っていて、それで母の居所が分かったらしいのです。


 私はその端末を持ったことはないので、使い方も仕組みもよく分からないのですが、それによると母は、なんと隣町に住んでいました。


 しかも誰かと結婚しているらしく、母が聞いたこともない苗字に改姓していると説明しながら、父は二階の床が落ちるのではと心配になるほど、ドシドシと歩き回っていました。


「ふざけた苗字しやがって、どこの国から来たかしらねえけど、この国で大きい顔してやがる。子どもを捨てて逃げたくせに、よくやるよ、売女だよ、売女」


 ぎょろぎょろした目で、父は言いました。その怒りの勢いに、私の心もゆらゆらと、風を受けた蠟燭の火のように揺れました。父の怒りが私に向いていないことを感謝しました。


 本当にそうだよ、人間じゃないよと言って追従し、父と同じ気持ちを表明することに、違和感はありませんでした。


 それで父はますます勢いがついたのか、母のことをもっと調べてみると言い出しました。なんにせよ、父が意欲を出して活動しようとしているのですから、子としては応援しなければなりません。


 ですから、端末の充電のために父が出かける時、ついていって何か手伝いをと思いましたが、いつもの通り小銭を稼いでくるよう制されて、私も出かけて行ったのです。


 いつもと同じに、いくつかのパンを買って家に帰りましたが、夜が更けても父は帰ってきませんでした。私はたまりかねて、近所を探してもみましたが、とうとう見つかりませんでした。


 入れ違いで帰っているのではと、一縷の望みを持って二階に戻っても、父は居ませんでした。もう、変人や霊が闊歩する時間になっていました。少なくとも、外には、骸骨が皮を被ったような人間が裸で居たり、犬が何頭も群れて、気を大きくしたりしているはずでした。


 仕方なしに二階で座り込んでいるうち、うとうとしていた私でしたが、父の靴音で跳ね起きました。父は真っ暗な中、明るく光る端末の画面を私に見せました。


 写っていたのは、一枚の絵でした。海に泳ぐ無数の熱帯魚群と、気持ちよさそうに目を細めているウミガメなどが泳いでいる様を、深い水中から水面を見上げるアングルで描かれていました。


 光の具合が見事で、私には光がそんな風に見えたことはなかったのですが、透明な海水が太陽光を受け入れて、その空間を温めている様子でした。父はこう言いました。


「あの女、もう一人ガキがいるんだよ。そいつが描いた絵。一等賞」


 父は、絵の額の下方に印字されている字を指して、女の子によく付けられる名前と、聞いたことのない苗字を読み上げました。


 この間、母が結婚しているのを知ったばかりでしたが、さらに、絵の上手な子どもまでもがいたのでした。父は母の新しい家族図を、罵る言葉で汚しました。それだけでは収まらず、夜中だというのに、叫ぶような声になっていました。


「お前、悔しくないのか。馬鹿にされている、俺たちは馬鹿にされている!」


 父の、皿のような白目が、暗い夜を迎えた部屋で目立っていました。膝をつき、私の顔を正面から捉えた父は、黒目の円が丸々と見えるほど目をかっぴらいて、少しの眼振もありませんでした。


 この時点で、私はこの家族が特別憎かったかと言えば、そんなことはなかったのです。母の悪口を確かに口にはしたけれども、それは父に従うために、口をついて出た代物でした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る