第5話
父は、若い頃にある分野で博士号をとり、国内屈指の企業で重宝されていたのだと言います。博士号とは、小学校や中学校の卒業のさらに上で、優秀であることを認めてもらって、学校から学費をもらうなどしてはじめて通える、難解で複雑な場所です。
もちろん他にも優れた生徒がいるらしく、競争になったり、たくさんの時間を勉強に費やしたりしなければならないそうです。
それから、父は母と出会い、やがて私が生まれました。私はよく熱を出し、あまり丈夫な方ではなかったので、良い空気を吸わせて育てるために、地方に引っ越したのだそうです。
当然、父は私のために、将来のポストが約束されていた都会の仕事さえ、なげうってしまわなければなりませんでした。つまり、父は本当に素晴らしい、豪奢な生活を捨ててまで、私の健康を選んだのでした。
父の家族への献身を、母は不倫の末に出ていくことで無碍にし、残された父はつらい状況の中、病気にかかったのでした。
「あの女は、お前を産んで、家事も育児もやらずに、男をつくって出て行ったんだ。お前はあの女にとっていらない子だからな」
今でも頭の中で刻銘に再生できるくらい、父はそのフレーズを使いました。いらない子と言われると胸に刺さるものがありましたが、いかんせんもう関係のない人という理論が、私の心の慰めになっていました。そのような人から愛情をもらったかどうかなど、気にしないようにしました。
でもいつの頃だったか、私はなぜだか悔しくて、悲しくて、母親などいなくても生きていける、いつか成功して、目にものを見せてやると思った時期がありました。その時、足元にすがる母を鼻で笑ってやるのだと。
それから、テレビに、売り場の新聞の一面に、将来そこに載る自分の姿を描きました。きらびやかな栄誉の中に生きることを夢見ていました。
具体的にどうするかは、その時々の想像の中で変わりました。ある時は宇宙飛行士、またある時は大きな会社の社長といった具合です。自分にしか出来ない事を成し遂げて、選ばれた人として、素晴らしい人生を歩みたいと思っていました。
金銭は豊富にあり、とにかく大きくて整った家に住み、全ての居室に備え付けられたテレビのチャンネルを回す。そして、おしゃれなボウルいっぱいのお菓子を食べる自分の姿が、まさにそれでした。
もっと言えば、その家にふさふさの毛をした猫がいると、想像はより素晴らしいものになりました。毛の長い、触り心地もなめらかな猫にまとわりつかれながら、これまた大きなベッドで眠る夢は、濡れた手で顔を拭くよりもずっと心地良いものです。
現実になったならどんなに気持ちが良いだろうかと、こんな気持ちだ、いや、もっとこんな気持ちだと、新しく見つけた小さな布を重ねては寝床にして、想像に想像を重ねました。
そうしていると、父が置いたプランターの土の表面に、青いカビがまばらに育っているのを見つけました。つい棒でつついて潰しているうちに、母に見捨てられた寂しい気持ちが紛れている自分に気が付きました。
暮らしは、楽しいことばかりではありませんでした。だから、悲しくなれば何か他のことに忙しくして、底冷えするような気持ちに吞まれまいとしました。
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