第五十三話 朝
――今でも、思い出す。
その日はバケツをひっくり返したような豪雨が、国の全地域一体で降り注いでいた。記録的大雨だった。光を通さないほどの分厚い鉛雲が空を覆っている。昼間だと言うのに、舗装された道に並べられていた街灯の灯りが無ければ、一寸先も見えないような闇が街中を支配していた。
かと思えば、厚く覆い被さる曇空の向こうがピカッと光ったかと思えば、耳朶を強く震わせる衝撃が頭の先から足の裏まで突き抜けていった。それが雷だと認識するのに時間は掛からなかった。
それはまるで不吉の予兆のようだった。分厚い鉛雲はまるで悪魔の腑、窓やテラスを強く叩く雨音はまるで怪物の行進、轟音を轟かせる雷鳴はまるで化物の咆哮のようで。
部屋の中、窓から覗く街の様子は酷く簡素なもので、誰もこの豪雨の中では外に出歩く者など居なかった。だからなのか、いつもは活気溢れる街の静かな情景が更に不穏な気配を掻き立てる。
――今でも、身の毛がよだつ。
そんな時だった。耳を劈くような獣の吠声が聞こえたのは。酷く醜悪で、あまりにも低い唸り声。ひたすらに苦痛を抑え込んだような、世界に憎悪を向けたような声色が耳に張り付いた。
気付けば、世界は地獄に変わり果てていた。
雨音でさえ掻き消せない人々の阿鼻叫喚の悲鳴。命が尽き果て、絶望に沈み、破滅に戸惑う絶叫が轟く。溢れ出した血河は雨に流され、地面が赤黒い水で埋まり尽くしていく。
王国に仕えた騎士たちも総出で抗った。
しかし、まるで降り掛かる埃を振り払うように、騎士たちの命は呆気なく散っていく。魔物の絶望は底知れず。大人も子供も。男も女も。善も悪も。その区別など一切ないままに多くの命が潰えた。
親の死を目の当たりにして狼狽える子供の泣き声が聞こえていた。子供の死を前にして慟哭を上げる親の喘鳴の声が聞こえていた。
――絶望は、終わらない。
その日、その瞬間だけは命の価値などゼロに等しかった。どんなに命の尊さをその場で謳おうと、もはや誰にも止められない殺戮の宴。
命は儚いと……そう信じてきた。だが、違ったのだ。命は儚いのではなく、『脆い』のだとその時、彼女は悟ってしまった。
――あぁ、どうして……。
大切な日常が瓦解するのはほんの一瞬。
大事な人達が居なくなるのは刹那。
どんなに慈悲深く抱き抱えていても、全ては水の泡。
――こんな、こんな事があって良いわけがない……。
彼女はついに膝を負った。
絶望に屈し、地獄に折れ、悲愴に倒れた。
それが引き金となったのかは分からない。だが、その瞬間に更なる『破滅』が一国を襲った。
巻き起こる『黒い渦』。大地を抉り、空を消し去り、生命を滅ぼす。まさしく滅亡を体現する『黒い渦』はあらゆる全てを吹き飛ばし、一国を消滅させた。
◆
浮遊感が体を包む。水面から浮き上がるかのような感覚を覚えながら、シャルルはゆっくりと目を開けた。
カーテンの隙間から差し込む朝陽が瞳に入り込む。眩しさに目を細めながら、上体をゆっくりと起こした。カーテンへと手を伸ばし、軽く捲ってみるとそこには何時ものレウゼンの朝の光景が広がっている。
朝早くに寮から学校までの舗道を清掃してくれているおじさん、道の脇にある小さな花壇に水を撒いている上級生、並び立つ樹木の枝を止まり木にしているスズメ。
見慣れた光景にシャルルはホッと胸を撫で下ろした。
(今日も、いつも通りだ……)
時計を見れば時刻は現在六時半。
寮の食堂が開く時間が八時。シャルルはいつもこの一時間半の隙間時間を利用して、魔法についての勉強をしている。
本当ならばカーテンを全開にして、朝陽を浴びながら勉強したいのだが、寮の部屋は完全個室というわけではなく、二人一部屋であるため共同生活者の事も考えて、いつもはテーブルライトの灯りを点けて勉強をしている。
「シャルルぅ……? 今日も早いねぇ…………くあぁっ」
だが今日は珍しく共同生活者である少女がシャルルとほぼ同じ時間に起床した。
寝惚け眼を擦りながら、大きな欠伸をした少女はカルネ・アステラ。褐色の肌が特徴的なボーイッシュな少女である。
「今日は思ったより早起きだったのね、カルネ」
「まぁねぇ。だって、今日からでしょ? 《六魔大祭》が始まるのって。私はそもそも《剪定戦》に出てないけど、それでもこのお祭りは楽しみなんだぁ」
「へぇ……」
カルネはBクラスの生徒であり、シャルルとクラスが違うため学校での関わりは少ない。とはいえ、同室のよしみという事もあり、仲は悪くないとシャルルは思っている。
「カルネは《六魔大祭》に出たいとは思わなかったの?」
「うーん……出たくないかって聞かれれば出たいよ。でもめんどくさいし、戦うよりかはサポートの方が向いてるかなぁって思ってさ」
「そうかしら。カルネも実力的には上の方でしょ?」
シャルルの指摘にカルネは苦笑いを浮かべた。
「そーなんだけどさぁ。元々、私は戦技科に入るつもり無かったんだよねぇ」
「え、そうだったの?」
「うん。私は元は普通科志望だったの。戦いとか別にできなくて良いし、魔道具の開発とかの方が面白いし、自分に向いてるなって思ってた」
カルネは天井を仰いで、溜め息混じりに言葉を続けた。
「でも、私の両親が『折角、魔法の才能があるんだから戦技科に行け』って口煩くてさぁ……。まぁ、だから仕方なく戦技科に来たってわけよ。本当は普通科で魔道具の作り方学びたかったのにぃ! 親の馬鹿野郎!」
「それは……大変だったわね……」
シャルルは、愚痴のようにそう吐き捨てたカルネに、人並みの言葉しか掛ける事はできなかった。
だが、実際問題。今のマディステラには魔法を使えるなら取り敢えず魔法学校の戦技科に入れさせるという風潮が出来上がってしまっている。
魔法の有用性が分かっている以上、未だ人類の三割ほどしか使えない魔法の知識・技量を重点的に伸ばせる戦技科は、普通科よりも価値の高いものという認識が一般的だ。
「それで? シャルルは今日からの《新人戦》代表に選ばれてるけど目標はあるの?」
「そんなの優勝一択よ。他の学校を蹴散らして、ね」
シャルルは不敵な笑みを浮かべながら、そう言い切ってみせた。
「あぁ……優勝かぁ……」
ただ、カルネの反応は微妙だった。
「なにかあるの?」
どこか困惑したような表情を浮かべるカルネを見て、シャルルは頭の上にハテナマークを浮かべている。
「いやぁ……あるというか…………本当に知らないの?」
「なにを?」
どこか歯切れが悪いカルネに、シャルルは首を傾げた。
一体カルネは何を言い淀んでいるというのか。シャルルには皆目検討も付いていない様子だった。
「今年はレウゼンの優勝は厳しいかもしれないって、今街中で噂が流れてるんだよ」
「レウゼンの優勝が厳しい?」
シャルルにしてみれば、カルネの話は到底信憑性のあるものではない。なにせ此方には『フローリア・レーベンハイトの再来』と呼ばれるカティア・フルイゼルがいる。
彼女が居て、なぜ優勝が厳しいと街で実しやかに囁かれているのか。
「その理由が今年の他の学校の新入生たちが実力者揃いだからって話らしいよ」
「『他の』ってどういうこと? それじゃあ、まるで私たちが他学校の新入生たちに劣るみたいな……」
「世間は少なくともそう考えてるみたいだよ。実際、私もその話聞いた時はシャルルと同じ反応してたけど、理由を聞いたら納得しちゃった」
カルネは至って真剣な様子で、話を続けた。
「今年の他学校の新入生は既に『固有魔法』を使える生徒が一人以上は居るらしいんだ」
「な――ッ、『固有魔法』を!?」
「うん。それも全員猛者揃い。特に強いとされているのは今から上げる五人――」
カルネはそうして今年の注目株を説明していった。
一人目――。
東方の大陸からの留学生。戦争が頻発する紛争地帯の出身であり、常に戦場の最前線で剣を振い続けた『剣豪』。魔法による斬撃の強化を得意とし、近接戦においては無類の強さを誇る少年。
――アルビス魔法学校所属、スメラギ・カノン。
二人目――。
一般家系の出身でありながら、魔力の総量は魔法騎士団の隊長クラス。圧倒的な才能と、圧倒的な実力で他を圧倒する『異端の天才』。多彩な魔法を使い熟し、その手数の多さは他の追随を許さない少女。
――エルビナス魔法学校所属、クロネ・ローフィリア。
三人目――。
その巨躯はマディステラの中でも最大。最高峰の防御力を有し、最強の膂力を持つ身体能力の鬼。向かってくる敵をその怪力で捩じ伏せる『鬼人』。ただ只管に力を追求し続ける大漢。
――ローゼンティル魔法学校所属、ガルドス・デール。
四人目――。
魔法の破壊力は学生の中でもダントツ。最強の矛を体現する光魔法の担い手。上級生との戦いでは一歩も動かず、魔法は『下級』のみというハンデを付けて勝利した『砲台』。魔法戦においてめっぽう強い聖女。
――ジェノリア魔法学校所属、セシリア・ルナーズ。
「そして、五人目。正直に言って、この人が今年の本命だと思う。今上げた四人ですら霞むほどの実力者」
そう前置きして、カルネは最後の一人についての情報を話し始めた。
「――五年前に滅亡したルーセリア聖皇国の出身。全ての技能において高水準。その実力の高さ故に教師との模擬戦では圧勝。最高の天才と謳われる『フローリア・レーベンハイトを超える逸材』。魔法騎士として既に完成された実力者。フルトリエ魔法学校所属、クレセリア・ジオルーフェン」
これこそがレウゼンが優勝が厳しいと言われる所以。そして、彼ら五人とも理由は不明だが、《本戦》ではなく《新人戦》で一堂に会するのだ。
そして、レウゼンには彼らほどの実力者として名前を挙げられるとすれば、それは恐らくグレンだ。だが、グレンは他の五人と違い、まだ『固有魔法』の習得には至っていない。
他の学校の新入生たちと比べて見劣りするというのが、世間一般の反応だった。
だが、そんな事はシャルルにとってはどうでも良かった。
シャルルの意識はすでに最後の一人に向けられていた。
「クレセリア…………? まさか…………いや、でも……ジオルーフェンって……」
――クレセリア・ジオルーフェン。
シャルルと同じくルーセリア聖皇国の出身の少女。その名前を聞いて、シャルルは顔を強張らせるのだった。
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