第五十二話 傷無し
それはまさしく絶望の出現だった。
一人の女が目の前に現れたかと思えば、次の瞬間には周りにいた仲間たちが殺されていた。
傷は無い。血も流れていない。
なのに、急に呼吸だけが止まった。心臓の拍動も聞こえなくなった。
その瞬間、彼は悟った。
自身の死に場所は此処なのだと。
抗う事すら許されない絶対的な実力の差。それをありありと見せつけられ、彼は逃げる事もできず、その場に立ち尽くすほかなかった。
女は妖艶に微笑みながら、ただ歩み寄ってくる。
彼以外に残った側近の二人も女が起こした光景に腰を抜かし、情け無い悲鳴を上げるばかり。
死の刻限が迫る中で、彼は絶望に屈した。
女の手が三人の顔付近にまで伸びた。
その時だった。
アジトとして使っていた廃屋の屋根を突き破り、一人の黒のドレスを纏った少女が舞い降りた。
少女は目にも止まらぬ速さで、瞬きの一瞬に女を蹴り飛ばしていた。
そこからは本当に展開が早かった。蹴り飛ばされた女は目の前に現れた少女に困惑し、少女はと言えば女を見るや否や踵を返して彼ら三人に付いてくるように促した。
無論、女もそこでその少女の目的がわかったのか、即時迎撃する為に走り出していた。
だが、次には女の進撃を遮るようにして、進路上に突き落とされた闇の雷。
女はそれを確認した後、顔を顰めさせながらその場から逃げていった。
彼――ドルグラは、謎の少女によって命を救われた。
「――本当、俺様がちょうど話があるってんでお前らの所に行ってて良かったなぁ? じゃなきゃ、お前ら全員死んでたぜ? 幸運だったなぁ!?」
「あ、あぁ……助かったよ……」
全身黒ずくめの少女――
その一点のみを取って考えるなら、確かにドルグラ達は幸運だったと言える。
人を嘲笑うかのような
「そうだ。お前たちは俺様のおかげで助かった。そうだよなァ? なら、その分の対価は必要だろ?」
「対価……?」
前を歩く少女にドルグラは眉を顰めた。
一体この少女は何を対価として求めるつもりだと言うのだろうか。
金か? 地位か? 名誉か?
はたまた、ドルグラ達が手にしたその全てを要求するつもりだと言うのか。
何れにせよ、ドルグラ達が手も足も出なかったあの女を退けたこの少女に逆らうのは得策ではない。
「俺様が求めるのは
少女が提案した対価は――命。
ドルグラ達が捨てる寸前で拾い直す事のできた、人間ひいては生物にとって、最も重要なモノ。
金なら幾らでも用意できる。
地位なら幾らでも譲渡できる。
名誉なら幾らでも提供できる。
だが、命は別物だろう。
それは到底他人に与えていいものではない。折角生き延びたこの命をすぐに消耗するなど、頭のおかしな連中の狂った行動だ。
ドルグラは賢い男だ。そこらの頭のおかしな連中とは違う。
折角、拾えた命。それを無駄にする事はしない。
そして、それはドルグラの側近二人も同じだったのだろう。一人の筋骨隆々な男が
「お前が命の恩人と言えど、俺らの命を預けるなど――」
「チッ……。邪魔だよ……」
「…………は?」
胸倉を掴んだ男の首から鮮血が噴き上がった。
彼らが歩いていた地下道の壁を赤黒いインクが汚していき、足元に液体溜まりが出来上がっていく。首を切られた男の身体は力無くずるずると倒れた。
仰向けに倒れた男の目は既に虚だった。生気をカケラも感じさせない冷たい目の色を見て、ようやくドルグラは状況を理解した。
「ひ、ヒィ……!?」
ドルグラは腰を抜かし、情けない声をあげて地面に座り込んだ。股座が暖かい液体で濡れ、震える歯がぶつかりガチガチと音を鳴らしている。
もう一人の側近もその光景を見て、血の染みが形成された壁とは逆の壁に身体をもたれ掛からせた。
「俺様に逆らってんじゃねえよ。テメェらが俺様の要求を断れるわけねぇだろうが。嘗めてやがんのか? 俺様を殺せると少しでも思ってたのか? ア゙ァ゙?」
今しがた殺した男の死体を足蹴にし始めた。
顔を何度も、何度も、何度も、何度も――踏み付ける。顔の原型を留めなくなっても、眼球が溢れ落ちようとも、鼻がひしゃげて無くなろうとも、歯の全てが折れて体外に飛び散ろうとも、頭が潰れ脳髄がまろび出ようとも、何度も踏み付けた。
肉片が辺り一体に飛び散る。
かと思えば、頭が潰れ、首無しの状態になった死体を壁に向けて蹴り抜いた。レンガ造りの壁には大きな罅が入り、死体は体中の血液を撒き散らした。
そこまでしてから、漸く少し苛立ちが収まったのか
ドルグラの前まで歩いてからしゃがみ込むと、ドルグラの前髪を引っ張り上げ、
「なァ? お前らも……俺様に逆らうつもりなのか? お前らも……あそこの『
原型を留めていない側近の死体を指差し、ドルグラにそう訊いた。
その質問にドルグラはゆっくりと首を左右に振り、
「な、なりたくない……でずッ!!!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔で叫んだ。
その叫びを聞いてから、
「お前は? どうなんだ? 俺様はそこまで気が長くねぇんだ。早く答えろ……」
「ぼ、僕も……あんな風になりたくない、です!」
残った側近の男も泣きながらにそう訴えた。
それを聞いてから、
手や足など。地面や壁に接地している部分に肉の嫌な感触や充満した血の匂いにドルグラは思わず口を手で覆った。
「これで分かるだろ? お前らが俺様に逆らったらこうなるんだって事を。これはまだまだ優しい方だぜ? 本当ならたっぷり痛ぶって、心が壊れた後に殺してやるんだからなァ?」
「は、はぃ……! 分かりました……!」
ドルグラは恐怖と絶望が入り混じった声でそう言った。嫌というほど見せつけられた
目の前に居るのは少女などでは無いと理解した。
――少女の皮を被った化け物。
可愛らしい容貌の裏に隠された狂暴性と残虐性。いや、端から隠し切れてなどいなかった。
内に醜く蠢く悪意は弱者を甚振り、少女の中にある絶対的強者故の性を刺激し続けていたのだ。
他者の痛みを理解せず、他者の悲壮を喰いものにして、他者の絶望を自身の快楽とする怪物。痛みという生物特有の『最恐』を理解できない、生物としてあってはならない『欠落』を抱えた悪魔。
それこそが『
痛みを知らないからこそ、その残忍な性格は醸成され続けていき、史上最悪の悪意となったのだ。
そんな悪意がドルグラ達に牙を剥いた。ただそれだけに過ぎない。
「それで良い……。お前たちは俺様の玩具だ。壊し甲斐のある最高の、な?」
(あぁ、そうか……。俺は……幸運などでは無かったということか……)
ドルグラは幸運だった。組織を壊滅させた女の魔の手から逃れ、生き延びる事ができた。
だが、それは幸運の陰に隠れた絶望だった。
死すらも救いと感じるほどの地獄へと、ドルグラ達は足を踏み入れてしまったのだ。
ただ、唯一の救いがあるとするならば、
「お前達はまだ……壊さない。俺様の計画のために、その命を寄越して貰うぜ?」
痛みが支配の手段になると知っているからこそ、少女は残酷に笑うのだ。
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