醜態

 目覚めてから三ヶ月が経った。

 ここ数週間、結葉は顔を見せていない。


 このまま結葉が俺の元にこないといいんだけど……。


「これ終わったら休憩にしましょうか」

「ん、了解」


 結葉がいない分、華恋と一緒に勉強する時間が増えた。

 俺は理系科目、華恋は文系科目が得意なのでお互いの得手不得手を補う形で進めている。


 勉強にひと段落をつけ、肩の力を抜く。


「そういえば最近見かけませんね。和孝くんのカノジョさん」

「ああ、そうだね」

「ドライですね。寂しくないんですか?」

「せいせいするくらいだよ」


 俺は頬杖をつき、ポツリとつぶやく。


 あ、余計なこと言った気がする。華恋が判然としない表情で見つめてきた。


「和孝くんはカノジョさんのことが好きではないんですか?」

「いや……まぁ隠してもしょうがないか。俺と結葉は恋人じゃないんだよ」

「どういうことですか?」

「話すとちょっと長くなるんだけど」


 そう前置きをしてから、結葉にされてきたこと、記憶喪失のふりをしていることを赤裸々に打ち明けた。


「それは中々ひどい話ですね……」


 俺の話を聞き終えた華恋の表情は浮かない。


「だよね。だから、結葉が顔を出さなくても寂しくはないんだ。清々しいくらい」

「そうですか。ただ話を聞く限り、彼女が、和孝くんに『別れれば?』などと言われたくらいで諦めるとは思えないですね。近いうちまた現れるのではないですか?」

「うん。まぁ次に会うことがあったら、その時は記憶喪失から回復したって言おうと思うよ。結葉は意外と打たれ弱いみたいだし、こっちがびくびくする必要なかった。もう関わらないでって言おうと思う」

「良いと思います。不利益をもたらす人と繋がりを持ち続ける必要はありませんからね」



 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽



 和孝、和孝、和孝、和孝、和孝……。

 あたしは自分の部屋のベッドで体育座りをしながら、うわ言のように名前を呼ぶ。


 和孝はあたしに反抗したりしない。

 和孝はあたしに従順で、あたしの思い通りになってくれる。


 和孝は目覚めてからずっと変だ……。

 あたしの知ってる和孝はどこ行っちゃったわけ? 


 和孝に会いに行かなくなってからもう二週間以上経っている。


 あたしの知っている和孝なら、そろそろあたしを恋しく思うはず。

 だって和孝にはあたししかいないんだもん。人恋しくなって寂しい思いをしてるはず。そうだ、きっとそうに違いない。


 あたしは重たい自分の身体に鞭を打って、病院へと向かった。



 和孝の病室の前で一呼吸置き、あたしはゆっくりと病室の扉を開ける。


 和孝は上半身を起こし、参考書の問題を解いていた。


「か、和孝……」


 弱々しく彼の名前を呼ぶ。


 和孝はペンを置いて、首ごと振り返った。


「ひ、久しぶりに来てあげたわよ。この前、和孝が生意気にも別れれば? とか言い出すから本当に別れてやろうかと思ったけど。あたしって寛大よね。もう二度とああいうこと言わないって約束してくれるなら、これからは毎日和孝に会いにきてあげても──」


「帰れよ」


 あたしはピタリと身体を硬直させ、まぶたを瞬かせる。


 え? あれ、聞き間違いかしら? 


「い、今なんて言った?」

「帰れよ。来なくていい」


 和孝は目尻を尖らせて、鋭く言い放つ。


 難しい言葉は使われていないはずなのに、あたしは彼が何を言っているのか理解できなかった。


「俺、記憶戻ったよ。結葉にされてきたこと全部思い出した」

「ちょっといきなり一体何を言いだすわけ?」

「もう俺を追い詰めるのやめてくれよ。結葉に縛られずに生きたいんだ」

「あ、あたしが和孝を追い詰めた? か、勝手なこと言わないでよ」


 和孝の記憶が戻ってる? 

 なんで急に戻っちゃうのよ……。なんでよ。和孝……! 


「もう二度と関わんないでくれ」


 和孝は不自由な足でゆっくりとあたしに近づくと、軽く右肩を押してきた。


 病室の外に追いやられ、バンと勢いよく扉を閉められた。


 あたしは呆然と立ち尽くすしかなかった。

 和孝の嫌悪感に満ちた熱を持たない目が、あたしの細胞ひとつひとつを苦しめる。


 でも、全部あたしが蒔いた種だった。全部あたしが悪かった。


 そもそもあたしを何をしてるんだ……。

 和孝に謝ろうって決めたのに、和孝の記憶喪失に漬け込んで恋人を自称した。

 挙句、和孝を独占しようと性懲りも無くまた同じ轍を踏もうとしていた──。


 引きずるような足取りで来た道を戻っていく。


 と、真向かいから歩いてくる鬼龍院と目が合った。

 鬼龍院はすぐに視線を逸らし、何食わぬ顔で横を通り過ぎていく。


「ねえ」

「はい、なんでしょうか」


 あたしの声で、鬼龍院は歩みを止め振り返った。


「アンタが和孝に何か吹き込んだわけ?」

「……なんのことでしょう」

「惚けないでよ! アンタのせいなんでしょ! アンタが和孝をおかしくしたんだ! だから和孝があんなひどいことをあたしに……」

「大丈夫ですか?」


 憤りを露わにするあたしとは対照的に、鬼龍院は心配そうに見つめてくる。そんな目であたしを見ないでよ! 


「早く和孝を元に戻しなさい! あたしの和孝返してよ!」


 鬼龍院の胸ぐらをつかみ、あたしは咆哮する。


「私は何もしていません。勝手に責任を押し付けられても困ります」

「いやアンタに決まってる。アンタが和孝をおかしくしたんだ!」


 あたしは鬼龍院を突き飛ばす。

 鬼龍院はその場で尻餅をつき、右目をすがめた。


「暴力は嫌いです」

「……ッ。アンタのその態度ほんとムカつく!」


 ほんと、なんなのこの女……! 


 鬼龍院は手すりと使って立ち上がると、踵を返してあたしの背中を見せてきた。


「ねえ、ちょっと待ちなさいよ!」

「まだ何かあるのですか?」

「だから言ってるじゃない、和孝を元に戻しなさい!」

「他人に原因を求めて惨めになりませんか」

「は?」

「本当は気づいているのではないですか?」

「な、なによ」

「和孝くんをおかしくしたのは貴方自身だと。今の彼こそ正常なのだと」


 …………。


 そんなのわかってるわよ。でもわかりたくない。

 あたしはやっぱり和孝から離れたくない。たとえ歪んでいても、彼のそばにいたい。


 間違っているのはわかってるけど、あたしに都合のいい彼に戻って欲しい……。


「哀れですね」


 去り際、鬼龍院の漏らした言葉が、あたしの胸に深く突き刺さった。

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