アンジと私 2
大学での講義中、スマホが震えて私を呼んだ。唐突に電話を掛けてくる友人なんていただろうか、とスマホをジーンズのポケットから取り出し画面を見れば「アンジ」と表示されていた。
アンジは私の幼馴染で、他学科ではあるが、大学の同級生だ。知識量や洞察力が、同世代では見たことがないほどに優れている。自罰的で内向的、気にしいな性格から言葉数は少なく、本人曰く、感情を言葉に乗せるのが難しい、とのことで単調に喋る様子から少し距離を置かれがちだが、人一倍優しい。私とは逆に過眠症であり、たしか他にも診断を受けていたが、私にとっては今も昔も変わらない、癖のある親友だ。
その彼がメッセージも無しに掛けてくるなんて、何かあったに違いない。きっと急いで向かうべきだ。しかしこの民族学の授業はなかなか面白く、聞き逃したくはなかった。とりあえず一旦メッセージを送る。
「どうしたの?」「ごめん、授業で出れなくて」
「来て」「もらいたい」
「あと三十分は厳しい?」
「がんばる」
来て、と命令形で最初に打ってしまうあたり、だいぶ彼に危機が迫っているようだ。普段の彼ならもっと返事が遅く、何より命令や上からの物言いになることを極端に避ける節がある。ますます不安に思った私は、先生が話し終わった瞬間に立ち上がり、適当な言い訳をして、最後に提出する感想文を後ほど職員室に持っていくことを伝えた。急いで廊下を走る。授業のあった棟からアンジのアトリエまでは少し遠い。柄にもなく駆け足で向かった。キャンパス中央の芝生の広場を抜け、図書館の手前で曲がりジメジメとしたトンネルのような通路を走っていく。風のあまり通らないここは、むんとした土の匂いで満ち満ちている。彼のアトリエにやっとのことで着いて、汗を拭って重たい扉を開いた。
「アンジ?」
返事はない。
重い扉に押し込まれるように中に入ってアンジを探す。部屋の中に部屋にはかなり冷房が効いていた。彼はお茶が大好きだし、熱中症ということはないだろう。過眠症故、部屋で倒れていることはよくある。下校時間に何度か警備員さんに救急車を呼ばれたせいで、常に過眠症の説明が書かれたカードを首から下げているほどだ。
床に散らばる彼の習作に気をつけながら歩いていると、奥から小さく、鼻を啜る音が聞こえた。
「アンジ?いるなら声を……」
「…………あ、あ……」
部屋の隅から微かに声が聞こえた。
声の方を向く。
彼が拾ってきたデスクの奥、隅で震える影を見つけて、思わず駆け寄った。
「アンジ!どうしたの、なにか、なにかできることはある?」
アンジはグレーのタオルケットを頭から被り、膝を抱え、ひぐひぐと歪な呼吸をしていた。
「……っあ、あ、あり、がとう……」
「ううん、遅れてすまない。ゆっくり、息を吸った方がいいかなと思う。ゆっくり、ほら……」
彼の骨ばった背をさすり、震える呼吸を整えるように共に深呼吸をする。泣いているのか、しゃくりあげてしまってうまく呼吸は続かない。時折、う、う、と獣のように低く唸る声がした。発作の一種だろうか。だとすれば、まず心を落ち着かせなければならないだろう。身体の接触はあまり好まないが、アンジなら良いと思えるかもしれない。今までの恩返しだ、と自分を納得させ、震える彼の首に腕を回して、身を寄せるように抱きしめた。
「アンジ、ごめん。嫌だったら振り払って。でももし、君の抱える、重く冷たい何かが、少しでも和らいだらいいなと思って……」
しゃくりあげる声が、唸りが、少しずつ収まっていく。さらに身を縮めたアンジが、少し小さくなったように思えたが、浮き出た背骨が優しく上下する動きに落ち着いていく。
「アンジ……そう、そのまま、ゆっくり……」
それ以外に何か尋ねるのもな、と思い、一緒に呼吸するだけに留めた。私は大きく深呼吸しながら少し眠たくなってしまった。昼飯と授業、それにひとっ走り終えた後の身体を、冷房の風がひんやりと冷ましていく。アンジが壁際にいてそれ以上奥に倒れないのをいいことに、彼を抱きしめたまま少し意識を空に浮かべた。彼の顔を覆っていたタオルケットが優しく落ち私の顔にかかる。呼吸がしづらいので横に退けて、そのまま目を瞑った。鳥の声、木々の騒めく音、遠くの方に聞こえる学生らの会話。ここは学内で一番穏やかな空間だった。アンジのざりざりとした呼吸もようやく落ち着き、彼の強張った身体がほんの少し解ける。
「……あの、ありが、とう……」
彼の涙混じりの声が水滴のように落ちてくる。
「ううん……アンジが無事なら、いいんだ」
眠気に身を捩れば彼の鎖骨あたりに鼻が当たるような格好になって、ふと自分の汗を感じた。汗臭いかもしれない、と思って勢いよく離れる。
「っごめん、汗かいてる、すまない」
「……ま、まって」
アンジが離れた私の腕をグッと掴む。細身の身体に似合わず大きな手が、想像より遥かに強い力で私の腕に食い込んだ。
「……くさく、ないよ。……お、おねがい……もう少し、だけ……」
「……あ、ああ」
少しずつ頭が冷めていって、私らは何をしているんだ、という疑念が湧いてくる。それでも、目に涙を溜めた幼馴染に言われては引き下がれない。床に座り直して、彼をもう一度包み込んだ。
「……アンジ、どうしたの、って聞いてもいい?」
「……ご、ごめん、本当に申し訳ない、謝るしかできない……僕が、僕がもっと、ちゃんとしていれば、よ、くて……」
その後もずっと彼は謝り続けていた。私は、いいんだよ、とか、アンジが安心できるならいいんだ、とか、なるべく彼の負担にならないような柔らかい言葉を返した。
「…………アク、お願い、が、あるんだけど……」
アク。その渾名で呼ばれるのは久しぶりだ。
皆がアンジをアンジと呼ぶように、私も初めの頃はアク、と呼ばれていた。しかし私はそれを酷く嫌った。根からの性悪だから、アク。誰もが踏みとどまる善悪の一線を、軽々と超えていく奴。私のしたことが悪かったのかもしれない(心当たりは無い)が、あまりにも不名誉すぎるだろう。良く捉えようがない。私は皆にこの渾名を使うことを禁止した。それを承知の上で、知己の幼馴染に呼ばれるなど心外極まりない。
「……アンジもその名で呼ぶのか?私のことを、悪い人間だと思うのか?私が何をしたって言うんだ……もう、本当に……」
「ち、ちがう。言い訳だけど、僕は、僕はこの音が気に入ったんだ……悪い、という漢字じゃない、開く、明く、あとは、水、は英語でも、ラテン語でもアク、から始まるし……何より、君を、呼びたかった……」
「……私のその名が、性悪、の悪からきてるのは知ってるだろう。ああ……すまないアンジ、君が落ち着いたようなら私は……」
散らばった手荷物をまとめて立ち上がる。
「待って、待ってよ、ごめん」
途端、襟を強い力で後ろに引かれてよろめいた。雑に抱えたノートや筆箱が宙を舞う。背中と後頭部を強く壁に打って視界がチカチカと点滅した。カン、と軽く足を弾かれて、壁に沿ったまま大きく尻餅をつく。肩を壁に打ち付けられ、たちまち隅に縫いやられてしまった。
「……痛いよ、アンジ」
「……ごめん」
彼の手は依然として、私の肩ごと強く壁に押し付けられたままだ。彼が無理やり習わされていた空手を思い出す。クソ、あの時もっと辞められるよう協力しておくんだった。今になって身体の使い方や力の差が憎い。私より細いくせに。脇の上、肩の関節の辺りが手のひらの膨らんだところで押しつぶされ、鈍く痛む。
「……僕には、僕の、僕だけの、アク、じゃあ……だめかな」
「他が真似するだろう、君がいいなら俺たちも、って呼び始めるさ」
「二人きりの時だけにする」
反論できずに黙ってしまった。アンジは俯いたままこちらを見ない。空いた片腕で彼を引き剥がそうとしたが、そちらも彼の左手で壁に押さえつけられる。
「……アク、ごめん、申し訳ない…………もう一つだけ、お願い」
「……今度は、何だ」
本格的に授業が始まったのか、学生らの声は聞こえなくなっていた。冷房が風を吐く音だけが色もなく響く。
「……恋人は、いる?」
「いないし、作らない」
「…………じゃあ、さ……」
逃げれるかと思って身を捩ったが、ついに体重を掛けて壁に張り付けられてしまった。足先にものしかかられ、いよいよ身動きが取れなくなる。
「…………後で、ぶん殴って、踏ん付けて」
彼の左手が私の手を離し、今度は顎を押さえた。
ゆっくりと彼の白い顔が近づく。
不思議と、嫌だなあ、とぼんやり思っただけだった。
彼の唇が震えたのがちらりと見えて、そのまま額同士がコツン、と軽く当たる。
「……嫌?」
「嫌だよ」
そっか、と彼が吐息だけで言った。
「……アクには、たくさんの人がいるけれど、僕にはアクしかいない」
返事が思いつかなくて、視線を落とす。
「……本当に申し訳ない……後で、踏んで、叩いて、殴って……気の済むまで、好きなことをしてもらいたい」
「私に得はない」
「得なんかどこにもない、全ては穴埋めだ」
「……縁を切ったら、どうする」
彼の瞳が初めてこちらを向く。そしてゆっくりと、反時計向きに下まで回って、ぱ、とまたこちらを向いた。
「……終わりにする」
それは困るな、と言おうとして、私の唇に彼の唇がゆっくり押し当てられる。
思っていたより冷たくて、思っていたより酷く優しかった。彼の低い体温を、私の熱が少しずつ温くしていのがじわじわと分かる。身体中がザワザワする。早く終わってくれ、頼む、と祈りながら目を瞑って耐えるしかない。やっと、体感だけで言えば二時間くらい経ったころ、彼はゆっくり身体を離した。
「……アンジ、こういうことなら、適当に相手を見つければいいだろう」
「……君が良かった」
「恋人になりたいのか?」
「…………ならない、だろ」
「もちろん」
アンジは適当に落ちていたガムテープを掴んで私に寄越した。
「……反射で抵抗したくないから」
これで腕やら足やらを巻いて殴れということだろうか。私はガムテープを見つめて溜息をつく。
「アンジ、こんなことをしてもまた同じことを繰り返すだろう……意味なんかないよ」
「……意味じゃあない、穴埋めだ」
「これは穴じゃない、傷だ」
彼はハッとして、それから罰が悪そうに縮こまった。
「……どうしたら、傷が癒える」
「アンジ」
座れ、と指差して床に座らせる。
「傷には傷を、といこう」
私は一本タバコを取り出し、煙感知器の場所を確認した。真上にある。少し危ないだろうか。いや、気づかれたら逃げよう。胸ポケットのライターを探り、彼の手を取った。
「君は、心の拠り所が欲しいだけだ、そうだろう?」
彼の身体がギュッと強張るのが分かった。しかし彼は手を振り払わない。
「私の手首にある丸い跡は、初めて自分を罰した時のものだ」
彼の目が怯えながらも、私の腕をちらと確認した。
「……アンジ、私もアンジのことを特別に思っている。だが君と気持ちが重なることはない。だからせめて、私の痛みを、君にも分けてあげよう。これで私らは、特別だ」
こんな適当な単語の羅列にも、アンジは涙をボロボロと溢して大きく頷いた。
タバコに火をつける。何口も吸いたくなるが、あまり吸うと先端が尖ってやりづらい。今は痛みに重きを置かないので、仕方なく、大きく一口だけ吸った。うまい。
そうして彼の腕をこちらに寄せ、少し先端の灰を吹いてから、彼の手首で、じう、と熱い先端を押し潰した。彼が痛みに眼を瞑って、また一つ涙がこぼれ落ちる。
「……火傷はいいよね、長く続くし、跡も残る」
アンジが火傷跡を眺めて泣いている間、我慢ができなくてタバコに火をつけた。うまい。彼の鳴き声と、私から出る煙だけがこの世を形作った。
途端、ビーッビーッと火災報知器がけたたましく騒ぎ出した。マズい、面倒なことにはなりたくない。急いで立ち上がり、アンジ、と呼びかけ手を差し伸べた。彼は急なことによろけて、どうにか膝を床につくところまで起き上がった。そして彼が私の手を掴む。
私は彼の腕を引き、思い切り、彼の腹を蹴った。
喉が潰れたような音がして、彼が鳩尾を押さえてうずくまる。彼の指に吸っていたタバコを握らせ、私は走って裏口を目指し、その場を後にした。隣の棟のエレベーターに乗り込み、3階に上がったところで、吹き抜けの廊下の端、柵から顔を出し、多くの人が音の原因であるアンジのいる絵画棟に駆けつけるのを眺めた。
「あれ、見に来たの?隣で放火?」
「ああ、なんかあったのかなと」
名も知らぬ友人が話しかけてきた。彼は、タバコかねえ、と一人でブツブツ言って、燃えてないならいいか!と一人で喋りきって去ってしまった。
しばらくすると、アンジが担架に乗せられて救護室まで連れて行かれるのが見えた。彼は担架を持つ人に何かを言っているようだったが、ここからでは良く聞こえない。私はアンジ目掛けて大きく手を振った。
彼の顔がこちらを向き、私を捉えたまま見切れていった。スマホを取り出し、明日一緒に登校しない?とだけ、メッセージを打っておく。
アク、と呼ばれるのはやっぱり嫌だなあ、なんてぼんやりと思いながら、甘いものを求めて売店に向かった。
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