休暇に虫刺され


 今日は何もしない、と決めた。

 昼のほんの少し前に目が覚めた。カーテンの隙間からは、すでに夏の始まりがこれでもかと差し込んでいる。きっと窓や物干し竿なんかは暑くなりきっていることだろう。クーラーを少し寒いくらいに設定しておいて良かった。布団の温もりと、隙間から覗く陽の熱と、ひんやりしたフローリングを足して、割ったらちょうど良いくらいだろう。

 近所に住む、小さい子供達が水遊びをしているのだろうか。ペチペチとサンダルが床を蹴る音と、嬉戯のあまり叫ぶような声が、水の跳ねる音に混ざって聞こえてくる。素晴らしい。実に素晴らしい。穏やかな雑音は、私の思考を止めたまま、脳に軽やかな休息を与えてくれた。クラシックでも聞くように、この豊かなざわめきにゆったりと耳を傾け、寝転んでいたい。今日はそんな日にしよう。そう決意した、ちょうどその時。

 ポーン、と玄関のコールが鳴った。

 これは、居留守に限る、と思い目を閉じる。ただ、少しだけ息は顰めた。帰ったか、と落ち着きを取り戻せたのも束の間、今度はスマホが震えた。電話だ。画面をこちらに傾け、誰からの着信かを確認する。うーん、彼か。今日に限っては少々面倒だが、気の置けない仲の者からだったので、緑のボタンを押した。

「……うん、どうしたの?」

「急にすまない。君の家の近くで用があって、帰りに会えたらと思ってメッセージを送ったんだ。ごめん、既読にならなかったから、その、あの……お節介だろうけど、心配で」

「ありがとう、心配かけたね……すまない、生きてるよ」

「そう、そうだよね、よかった。その……悪い、家の前に居るんだけど、会えたり、しないかな」

「うーん…………いくわ」

 かなり手間だったが、彼がわざわざ足を運んでくれたのなら仕方あるまい。暑いだろうし、しばらく涼んで帰ってもらおう。重い体を引きずって玄関まで歩き、重い重いドアを開けた。

「ごめん、待たせたね」

「いや、こっちこそ、押しかけるような真似をしてすまない。杞憂だとは分かっていたんだが……」

「ううん。連絡が無ければ怖いさ、特に私みたいなのから、ね」

「いや、ううん……そう、だね……なんというか、良い意味で、君だから、来た」

「ありがとう。暑いよね、上がっていく?」

 彼は、ありがたい、と言って丁寧に磨かれた大きな革靴を、ちょん、と玄関に半歩進めた。いつもパリッと張っている彼のポロシャツが、汗を含んで柔らかくシワをつくる。

「申し訳ないんだけど、私は今日眠たい気分なので……布団に戻らせてもらうよ」

 彼は少し驚いたような顔をしたけれども、このくらいの奔放さには慣れてくれているのか、ふ、た笑った。

「シャワーと、お茶と、パジャマでよければ使って。ここに置いておくから」

 シャワー?と彼が一瞬不思議そうな顔をしたので、

「ああ、いや、その格好ってことは、この後どこか行くんだろうな、と思って」

 臭いとか、汗が、とか面倒な事を考えられても困るので、きちんと理由を説明しておいた。

「……じゃあね、私は寝るから。眠かったら、私を隅に詰めて、布団に入っていいから」

「うん、ありがとう。長居せず帰るつもりだけどね」

 ふうん、と欠伸と返事から溢れた声を渡して、私は離れている間に少し冷えた布団にもぐった。

 ぼすん、と飛び込めば意識が手元からゆっくり離れていく。目を離した風船のように、私の気づかぬ間に、どこかに。もう手を伸ばしても戻すことはできなくて、ああ、とただただ空を見つめるだけ。遠くの方で木々が風に揺れる音がして、目を瞑ったはずなのに木漏れ日にちらちらと肌を撫でられた。それがくすぐったくて、眩しくて、寝起きに聞こえた子供達のように、光を追いかけてはしゃいだ。何が面白いか分からないけれど、よろめくほどに、腹を抱えて笑えた。ああ、気持ちがいい。汗ばんだ肌をそよ風が冷ますように。身体の境界も曖昧になって、意思が溶け落ちて大きな波と一体になる。これだ。こういう休息を夢見ていたんだ。ああ、ああ……



 泡がパチンと弾けるみたいに目が覚めた。

 まだおやつ時だ、あまり多く眠りすぎても夜に面倒だ。お菓子でも出して、積んでいた本を読むのがいいだろう。さて、お菓子は何があっただろうか、と考えながら身を起こすと、椅子に腰掛けた彼がこちらをじっと見つめているのに気がついた。

「おや、用事はいいのかい?」

「いいんだ、まだ時間にはなってない」

 彼がシャワーを浴びた様子はない。パジャマに仮に着替えることもなく、注いだお茶は八分目から減っていないようだった。

「君は、何をしていたんだ?」

 彼はこちらから一時も目を離さない。

 彼が黙る。一句分くらい、間が空いた。

「……眠っている君を、見ていた」

「…………楽しかったか?」

「とても」

「君は……恋人とかはいないのか?」

「いないさ。他に興味はない」

 彼が他人に興味が無いのはいつものことだ。だからこそ、ここに留まっている彼がおかしく思えた。

「……私のことを、どう思っている?」

 軽くため息をついて、彼が立ち上がった。その間も彼は私しか見ていなかった。

 コマ撮りのように、瞬きをするたびに視界の中で彼が大きくなっていく。怖い。近い。退がろうにも、これ以上下がればベッドと窓の隙間に落ちてしまう。もう退がれない。前を向けば彼にぶつかる。反射的にのけぞってしまった。

「混沌たる夢を美味そうに食っている、と」

 彼の白く綺麗に並んだ歯が喉元に近づく。

「僕は君に憧れているんだ」

 足元に乗り上げられ、身体が動かせない。

「少しばかり夢をもらえないかな」

 首筋に彼の嫌に熱い吐息がかかって背筋が震えた。待て、待て、と叫ぼうにも彼は聞く耳を持たない。彼の顔が下を向いて、いよいよ喰われる、と、目を思い切り瞑って痛みに耐える用意をした。来る、来る、嫌だ、助けてくれ——





「……大丈夫か?」

「……っわ、駄目だ、喰わないでっ……」

「何を……落ち着いて、大丈夫だ、気を確かに……」

 鞄を持った彼が慌てながらも私を宥めた。

「……っはあ、なんだ……ああ……すまない、悪夢を見ていたようだ……」

 机の上にお茶のグラスがあったので彼に頼み取ってもらう。覚えていないが、寝る前に注いだようだ。自分の無意識の用意の良さに感謝した。

「大丈夫か?随分うなされていたけど……玄関まで聞こえたくらいだ」

「そうか……すまない、大丈夫、夢見が悪いのはいつものことだ……ありがとう。帰るところだったんだろう?引き留めて悪かった」

「いやいや、君が無事なのが一番だ。何かあったら連絡をくれよ。なくても欲しいが」

 そうだな、すまない、と手短に返事して彼を見送った。

 ふと玄関の鏡が目に入って驚いた。首筋に無数の虫刺されができている。まだ痒く無いところを見るに、じきに腫れてくるタイプのやつだろうか。怖くなったので一応薬をつけておいた。

 彼は刺されなかっただろうか。これについて連絡をしておくか、と私はスマートフォンを取りに寝室へ戻っていった。

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