小鼠らの喧騒



「おい、おい、起きろ」

 コンと軽い音がして、眉間に何か錠剤ほどの小さなものが落ちてきた。不思議に思い、寝ぼけた頭でスマホと転がったはずの何かの行方を探し、手をもぞもぞと動かす。

「起きろって」

 声の主は語気を強め、苛立った様子で続けた。

「いつもお前は起きるのが遅い、日本に住んで何年になるんだ?時差ボケでもこんな時間に起きない」

「……ん、ん……わかった、わかったよ……」

 あまりにも眠かった私は、いつも近くに置いているはずのスマホを諦め、耳の横の小さい何かだけを探りながら答えた。ただ、もう少し寝ていたい。目を開けたら覚醒してしまいそうなので、目を瞑ったまま話を続けた。

「……君は誰だい?聞き覚えのない声だが……」

 頭の上の方で、チチチ、と硬い爪のようなものが跳ねる音が聞こえる。まるでヘッドボードの上で何か生き物が歩くかのような可愛らしい音だ。もしくは、薄く可憐な爪の美少女が板を爪でくすぐっているとか。私は甘美な想像に浸り、大きく息を吐いて微睡に身体を委ねた。

「俺か?俺は……よく知っているだろう、お前の最愛のペット、白餅だ」

「……白餅、なのか」

 白餅とは、私の飼っている二匹目のハムスター、ダルメシアン柄のゴールデンハムスターである。最初は、ごま塩、なんて呼んでいたが、愛らしい瞳に負けて、餌を無限に強請るのに答えていたら、いつのまにか、お尻の大きいもっちりとしたハムスターになってしまったから、そう呼んでいる。

 本当に声の主が白餅かは分からないが、彼が言うならそうなのだろう。私は目を開けることなく続けた。

「白餅……鍵が開けられるようになったのか」

 ケージ側面の扉には簡易的な錠前がかかっている。噛みちぎるか、近くにある鍵を差し込むかしなければ開けられないはずだ。上面にも掃除用の扉が付いているが、開けるには、雲梯で遊ぶように扉の閂辺りまで体を運び、自身を腕のみで支えたまま開ける必要がある。ハムスター、ましてや白餅には(理由は明記しないでおくが)難しいことだろう。

「これだから人間は……視野も狭いのに二足で歩こうとなんかするから足元に疎い。足先にある、色を塗るくらいしか意味のない爪に目でも付けたらどうだ」

 チチ、チチチ、と彼が忙しなく動く音がする。考えてみれば、トイレ用の砂や餌の溢しを受けるトレーが金網にくっついているタイプのケージだ、その間をどうにかして潜り抜けたのだろう。

「ああ……ケージと受け皿の隙間から出たのか。君は賢いな」

「俺が賢いんじゃない、お前らがデカい割に密度のない脳味噌なだけだ」

「君は随分と口が悪いな……私が見ている洋画の影響か?」

 チチチ、という音がしなくなったかと思うと、頬あたりをふわふわとした毛に撫でられた。思わず身を捩ると、

「急に動くな、ったく人間は常に自分本位が過ぎる」

 と怒られてしまった。爪楊枝のようなものが皮膚に少し食い込んで、威嚇のために軽く噛まれたのだと分かる。

「お前が何度も何度も同じ映画を見るから、変な言葉ばっかり覚えてしまったかもしれないな。特にアレだ、あの時間が逆行したり順行したりするやつ。あれなんか二日で三回も見やがって……選択肢があるのに同じものばかり見るなんて、気色の悪い」

「大好きな監督の作品くらい、繰り返させてくれよ」

「あとは一日で全部見たやつ、アレだ、人喰い博士の……まあ、あれは悪くなかった。なかなか博士には惹かれるものがあったな……おっと、こうしている場合じゃない。俺は腹が減って喉が渇いたと言いに来たんだ。隣のハムスターは古ぼけたジジイだろう?あいつが水入れの留め具を齧りやがって水入れが床に落ちちまった。そして……」

 腕の内側、柔らかい部分にチクチクと白餅の小さく伸びた爪が刺さる。額に髪の毛が張り付いた時のようなくすぐったさが腕を走り、彼が私の腕周りに鼻を嗅ぎ回らせているのが分かった。

「……っ、齧るのはよしてくれ」

「うるせえ。いつもお前が寄越す緑色の硬いやつは飽きちまったんだ、次はもっとジューシーで、喉も潤うような……食いごたえのあるやつが食いたいと思ってな」

 白餅は私に噛みついたのだ。思わず腕を振り払うと、彼は素早く避けたのか私の耳の横まできて、細い髭を振り振り、ゆっくり話し始めた。

「あの博士も言っていたな、動物は頬肉が美味いと!彼なんて生捕りにして喰らい付いていたもんなあ……チチッ、言うなれば俺は今、"人喰いハムニバル"ってとこだ」

 これから映画を選ぶときは、ハムスターが見ていることも考慮しておく必要があることを強く心に刻んだ。あの映画は純粋なハムスターには刺激が強かったようだ。

「白餅、なんて鈍臭い名前をつけやがって。まあいい、この後、まことにめでたいことに、紅白餅になる予定だからな!」

 きっと彼は両手をあげているのだろう、四つ食い込んでいた爪が一瞬だけ二つになった。

「赤ワインを、と言いたいところだが、香りが強すぎて鼻がイカれそうだ、ここは他の"赤"で代用するとしよう」

 そう白餅はつぶやいて、ついに私の顔に上り始めた。ようやっと鼻の上に座ると、頬を嗅いだり小さな手で押したりして何かを確かめている。

「……ふむ、ふむ。ここだな。ここなら噛みつきやすく、お前らが風呂上がりにつける臭いやつも汗で落ちてる。じゃあな、ご主人。お前らは俺を"飼っている"と思っているだろうが、いつのまにか俺らを起点に生活が廻っていることについぞ気付かないでおくれよ。へへ、カニバル・ハムニバルだ!」

 彼の、細いマイナスドライバーくらいの歯が頬に刺さる。思っていた数倍痛い。しかし白餅が肉を噛みちぎるような動作もない。どうしたんだろうか?彼の声も聞こえなくなった。視界に、風に靡く絹のような柔らかい光が揺れ始める。ああ、これは、もしかして。



 ひゅっと息を呑んだ感覚で目が覚めると、頬と枕の間に、放っておいたスマートフォンの充電コードが挟まれているのに気がついた。かなり赤く跡がついてしまい、なんだかみっともない。

 白餅を確認しにいくと、足音に反応してこちらを向いたものの、後は素知らぬ風にカシャカシャと滑車を回していた。

 横に取り付けたはずの水入れだけが、倒れたまま滑車の動きに揺られカタカタと地面にぶつかっていた。

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