欲の鼓動
ここ数週間、終末観や思弁的なものを描く小説をいくつか読んでいる。各著者の表現について両手を広げて賛美したいところではあるが、ここ数日あまり眠れていないため、今日は感想を短くまとめたい。
どんなに価値観が変容していこうと、"欲"だけは私ら人間の内に居座ってその存在を失くすことはない。欲こそが人間を人間たらしめるのではないかとすら思う。言わば私らは欲望に根が生えた程度の生き物なのである。
あまりこのジャンルを読んでこなかったため、少ない読書量での判断ではあるが、科学の進歩と倫理・価値観の再構築は常に二人三脚であると考えている。少し、科学の進歩が倫理観らの方を引いているような感じはあるが、十年単位で見れば二人はくっついて時を駆けていく。ネットに個人情報を載せるなど言語道断、と口酸っぱく言われた世代にとってはマッチングアプリで恋愛をするなど想像もつかないだろうが、私らの仕事や性別はすでに大した個人情報では無くなりつつある。特定のパートナーを作ることだって義務でもない、ましてや"普通"でも無いのだ。これらは全てスマートフォンやSNSのスピード感の発展(整備、構築と言った方が良いのだろうか)に引っ張られるようにして形を変えた価値観の姿なのだろう。
しかし、私らの"欲"はどんなに上記の二つが遠く速く時代を駆けて行こうとも、私らの身体を動かす司令塔でありつづける。
これは生理的欲求に限った話では無い。なんだって良い——大袈裟かもしれないが、殺したい、愛したい、愛されたい、何もいらない、全て私らを突き動かす"欲望"なのである。科学が進歩し状況が変われば、人を殺すことが、人口削減やらを掲げ当たり前になるかもしれない。それは築きあがった文明の一地点なのだから仕方がない。しかし、それを欲するか、それの無い日々を欲するかという問いは必ず我々の内から湧いてしまうものなのである。
私は昔から、殺すことは愛する事だと思って生きてきた。なぜならそれはものすごい手間と労力とリスクを抱えてもなお欲が消え失せぬ時に起こす行動、つまり全てを賭けて相手に捧げる行為なのだと思っていたからだ。
殺すことが大した労力やリスクも無くなった場合、これは愛ではなく単に社会、もしくは自身への小さな利にとどまってしまう。さすれば殺害も重罪ではなくうっかりミス程度の扱いになっていくのかもしれない。そもそも簡単に子をなすことができたら、その行為に愛なども関係なくなってしまうだろう。
科学の進歩にそなえて、愛の伝え方ももう少し考えた方が良さそうだ。私みたいな石頭にはとくに。
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