昨日の夢


 部屋に、随分と大きい何かがいる。

 狭い10畳にみっちりとおさまった何かは、窓の前に立つ私をガラスにぎうぎうと追いやった。どうやら午前中のようで、陽が当たるガラスはかなり熱くなっている。

 ここでこの出来事が夢だと気付いたのは、脱出のために窓を開けなかったからである。開かなかったとも、開けられなかったとも言えよう。きっとここから出て、少しでも圧迫感を減らした方が良いのだろうが、何故だかそうはいかないのだ。窓の鍵を開ける事なんて思いつかなければ、鍵の辺りを手で探った記憶もない。不思議なことに、脱出が最善と思えぬ頭のつくりになっている。まあ、本当はどうであれ——"本当"の定義からグラついているのは分かっているが、私の心を穏やかにするために、この空間や設定の小さな綻び、言ってしまえば"甘さ"が、この出来事を夢たらしめるのだろう、と思いこんでおく。


 部屋に満ち満ちた何か、には毛が生えていた。頬をガラスから離し、無理に向きを変えると、オレンジのような、薄茶色のような、あたたかみのある色の毛がふわふわと生えているのがわかった。体の大きさからして、おそらく短毛の生き物なのだろう。それが忙しなく動くものだから、体中撫でられているようでこそばゆい。私は"何か"の体が、押せば沈むような柔らかさを持つのをいいことに、肘と脚を使って圧迫されないように、呼吸のスペースを保って玄関まで進んだ。所詮は1K、壁伝いに進めば玄関には着くだろう。わさわさと揺れる、陽の光のような毛を掻き分けて行った。「慈愛」を色にするならこんな色だろう。

 途中、私の胸から下辺りに座れるほどのスペースができ、この何かが四つ足の生き物だと気付いた。先ほどまで私を壁に押しやっていたのは脚、腿の部分であり、今は中間地点、腹のあたりにいるわけである。体温を感じると愛おしく思うもので、得体の知れぬそれをわさわさと撫でてみる。鈍いのか、気にならないのか、こちらに意識を向ける素振りはなかった。相変わらず体を揺らしたり、お腹を膨らませたりを続けている。引っ越した当初からある、20足ほど入りそうな、肩ほどの高さのシューズボックスに手をかけ、私はようやっと玄関を目の端に捉えた。あと少し、体を玄関へ引き寄せるだけだ、と思い力を入れていると、突然何かが顔(と思われる部分)を振り、勢いでしゅぽんとドアの前に弾き出された。

 そして、何か、を理解した。

 なんだ、コロッケじゃないか。


 本物のコロッケではない。この生き物は、私の飼っている内の一匹、キンクマハムスターの"コロッケ"であった。随分と大きくなって、と感心している暇もなく、普段は白粉花の種ほどしかない、今ではミラーボールくらいある鼻を私の眼前にもたげ、ひすひすと匂いを嗅いでいる。普段は透明に見えていたヒゲも、今日ばかりはよく曲がり竹刀のようだ。玄関のスペースは彼らには狭く、鼻を少し押し入れるのが限界のようだった。壁やらドアやらにぶつかり折れ曲がるヒゲが、鼻を揺するたび鞭のように私の体に当たる。

 ひとしきり匂いを嗅いだコロッケは、少し鼻を持ち上げると、大きな口を開いた。ギロチンのような上下の前歯が目と鼻の先でガチンとぶつかり合う。

 怖くはなかった。

 しかし、このままガブリと頭から食われるのは、この夢の中では正解では無いようで、私は身を引いて逃げる動作を取った。コロッケはというと、狩猟本能はとっくに捨てているのか、私を無理に食べようとはしない。私はドアを背に悩んだ。玄関の扉は開けない。ドアノブすら肌には当たらない。ただ玄関横に仕方なく置いていた工具箱はハッキリとそのまま置かれている。私はしっかりと重さのあるそれを開け、ノコギリを取り出した。これは良い、取っ手に滑り止めのついた愛用の品である。その下にも何か入っていたのだろうが、使いまわされたJPEGのようにザラついてよく見えなかった。

 ノコギリを携えた私は左の腕を肩からトンと落とした。ノコギリのはずだがやけに簡単に落ちたな、と右手を見れば、いつのまにか中華包丁に変わっている。研いだまましまっておいた記憶が夢に影響したのか、左腕はソーセージを切るように簡単に切り落とすことができた。まるで毎日の餌やりのように、自分の手と手を繋いで切り口をコロッケの鼻先に持っていく。足元がぬるついて、踏ん張るのが少し難しい。何も感じないが、血は流れ続けているようだ。コロッケは素早く五回ほど鼻を振るわせ、ちょうど腕が入るだけ口を開いてポリポリと私の腕を食べてくれた。こんなに大きな姿だが、餌を食べる音はいつもの可愛らしいものと同じように聞こえる。頬袋が少し歪に膨らんで、頬袋に腕をしまってくれたのだ、とわかって愛おしく感じた。いつもみたいに撫でたかったが、残った腕を伸ばしたところで、きっと餌やりだとしか思われないだろう。コロッケは口元に付いた赤い汚れをいつものようにくしくしと——実際はとても大きいのでゴウンゴウンといった感じだが、毛繕いをして一切の汚れを舐めとったようだった。次はどこをあげようか、なんて考えながら頭を掻こうとしたが、左側が無いので何も起こらない。それはそうか、と一人で笑って、シューズボックスに不器用に乗り上げる。

「コロッケ」

 呼んだって反応はしない、これはいつものことだ、この生き物への対話など自己満足だ、と思っていたが、彼は予想に反してこちらを向いた。そしてシューズボックスに腰掛け投げ出された私の脚に横鼻を押し当てると、狭い中で最大限こちらを向き、片方の大きな黒い目に自身が歪んで見えた。

 夢のようだと思ったし、夢だとも思った。

 私は両脚を腿からばつんと落とすと、もう一度名を呼んだ。ごとり、と重たい音が二つ重なって聞こえ、餌が床に落ちる。餌の匂いがしたからか、今度はこちらを向かずに前脚と口で器用に脚を頬張った。左右にぷくりと膨らんだ頬袋が窮屈そうに揺れる。もう無いのか?と言いたげな鼻先がこちらを突く。どこまでも本能的で愛くるしい奴だ。私はコロッケの頭を撫でようと、包丁を横に置いて右腕を伸ばした。私はコロッケが大好きなのだ。飼い始めた時より少しだけ目立つようになった頭蓋骨に手のひらが触れたと思ったら、ぐわっと大きく口が開いて真っ暗な中に吸い込まれた。


 暗い中で3秒くらい過ごして、まあ夢だったな、と口にしたと同時に目が覚めた。久しぶりに頭がスッキリしていて心地が良い。

 コロッケの様子を見にいくと、元の、コロッケほどの大きさのまま、ケージをガジガジと齧っていた。餌は少し残っている。老いたのか慣れきったのかは分からないが、空腹では無いのだろう。

 小指を差し出してみる。酷い深爪の指先には容易くコロッケの鋭い歯が食い込んだ。老いたのか配慮を覚えたのかは分からないが、血が出るまで噛まずに口を離した。よくよく考えたら、人間はきっと美味しく無い。あれはきっと願望の写しでもあったのだろう。

 今日もコロッケがコロッケであることを確認して、私は仕事へと向かった。


 

 

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