タレルファ・カード愛好会

アンジと私


 苔むした住宅街の奥、今時珍しいガラス戸の玄関を軽くノックすると、奥からパタパタとスリッパで急ぐ音が聞こえる。戸の波打ったガラスが声の主を暈し、彼女が突っ掛けに履き替えるところでようやく彼の母親だと視認できた。

「いつもありがとうねえ……あの子、この歳にもなって出不精が治らなくって……」

 いえいえ、私だって出掛けるのは彼に会いに行く時くらいなもんです、と軽く挨拶を交わし、彼の母親の好きな最中を渡した。

「あら!最中、ちょうど食べたかったのよ、後で上に持っていくわね」

「いえいえ、お母さんとお父さんで召し上がってください。それに、彼にもお土産がありまして……お菓子と、紅茶と」

 紙袋を少し上げて見せた。

「いつも悪いわね……紅茶なら、きっとあの子は自分で入れたがるでしょうから。これを」

 お母さんはササっとティーセットを用意し漆塗りのお盆の上に乗せ、洋風のトレーも買っておこうかしらね、と笑った。

 トントンと小気味良く2階へ上がり、それから3階へ、一転、軽い運動かと思えるほどの急な階段を上がる。私が上りきると、細く取り付けられた窓から入る光でちらちらと埃が舞っているのが分かった。その空間だけ時が止まったかのようにシンとしている。私は彼に会うため、コンコンコン、コン、と左手にある扉を叩いた。

「……あ、おう、鍵は開けてある」

 扉に阻まれ少しくぐもった声が聞こえた。見た目より存外軽い扉を、ギイ、と押して、中に埋もれる男に軽く手を上げる。

「や、アンジ。すまないね、忙しいのに」

彼の背中にある細長い窓から光が差し込み、電気をつけなくとも明るいこの部屋は、祖父の書斎だったそうだ。彼が脚を乗せる重厚な机の両側は壁一面が本棚となっており、その前にも本やら紙束やら、溢れたものが所狭しと積まれている。

 彼は私の方を見て、手元の紙袋を見て、ほう、と白い息を吐いた。

「……ああ、湯を沸かそう、ええと……」

 私の左手を見て、機械の名前を呼び、火をつけて、とIHに向かって言った。IHはピッと大きく鳴って赤く光り、湯を沸かし始めたようだった。

「アンジでもこんな丁寧な口調で物事を頼めるんだな、科学の進歩に感謝だ」

「……は、俺は頼んでなんかいない、音声で信号を送ったまでだ」

 そう言って彼は煙草をくしゃりと潰し、椅子に座り直した。

「君は、その……どうだ。仕事はどうなんだ」

「毎日忙しいよ。まあでも、人気店だからとかじゃあない。常に人が足りていないんだ、飲食店ってやつは」

 給料だって上がらないしな、と加え、茶葉をティーポットに入れていく。

「そうか、そうだよな……うん、その……こっちも人が足りてない。いや、需要がある……あー……まあ、いつでも言ってくれ。共に何かするのもアリだ」

 こぽこぽ、と湯の沸き立つ音がしたので、IHの名前を呼び火を止めた。すぐにポットに湯を注ぎ、蓋を閉め、かろうじて空いていた右手の棚端に置いた。

「新作のは全部書いてるのか?多くのしきたり系ホラーが出ているようだが」

「……まあ、できる限り、は。俺はこの仕事でしか稼ぐ手段が無いからな。コロナ前まではイマイチだったが、最近は映画ライターってのもかなり食えるようになった」

 サブスクなんてのもあるし、な、と言いながら彼は本を捲っている。紅茶を淹れたカップとソーサーを渡せば、机いっぱいに広がった書類をガサガサと押しやってソーサー用の空きを作った。

「……うまいな。詳しく無い俺でもうまいんだろうなと思う紅茶だ……ここ最近はマルコ・ポーロを飽きもせず買ってくるってことは……振られたか?」

「好いた人を金で落とせるほどは持ってないさ。ただ香りが好きだから買ってる」

 へえ、と呟いて、熱い紅茶を顔色一つ変えずに啜っていく。

「これにスコーンを合わせるのもなかなか面白いな。ブルーベリーのを買って来たんだろう?一つ寄越してくれ」

 私は紙袋からいつものブルーベリー・スコーンを取り出して袋ごと彼の高く積まれた紙束の上に置いた。

「いつも悪いな……そうだ、SF……読んだか?あの、神が老いて、みたいな……」

「もちろん。訳が上手いのか、日本語でも軽やかに読める。ドラマだったかな、映像化されてる方も読んでみるつもりさ。こんなことがあったと錯覚……錯覚、と言おう、そう思うほどに引き込まれるな。あの世界を見た気さえした」

「俺もだ。ええと……その、怖さと、柔らかい"感覚"の部分と、抱える現実と……混ぜたら打開できるかもしれない、ただ元には戻れない、そういう痛いくらいの気持ちになれた」

 彼の感想が面白くて、君が話してるのを見るのは本当に楽しい、と伝えると、

「……は、どうも。ただ……そうだな、俺は、口が……いや、言葉がうまく出てこないからな。対面で喋るのは、推敲できなくて、とかくやりづらい。俺の遅い発語を待ってくれるのは君だけだ」

「書くのが仕事だから良いんじゃあ無いか。……そうだ、スコーンは崩れやすいからティッシュを……」

 言いかけたところでアンジから物音がしなくなったことに気がついた。彼は椅子に全て体重をかけ、くったりと力を抜いて目を閉じていた。

「君の過眠症は本当に……私にも眠気を分けて欲しいものだ」

 尻窄む声で呟くと同時に、彼の手に引っかかっていたスコーンの袋が滑り落ち、床に屑を広げた。仕方なくティッシュで屑を集め、スコーンは戻し袋の口辺りに本を乗せ、とりあえず留めたつもりにしておく。

「元気で、またすぐ来よう」

 彼のダランと垂れゆく腕を腹辺りで組むように戻して部屋を出た。

「君が羨ましいな。互いに無いものねだりなんだろうが」

 今日の予定が終わってしまった。家に帰ればまた底無しの夜が来る。彼の書いた記事を読みながら、薬を飲むとしよう。

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