優等生は星を手にする


 体感での話に限るが、勉学ではない「学び」には二種類あると思う。私はその二つを「前進的学び」と「後退的学び」と名付けた。

 まず、「勉学ではない学び」とは他者との関わり、すなわち経験して学んでいくことである。学校に行けば、いつも集まるメンバーがいる、他のグループもある、皆で一緒にやらねばならないことの規模も大丈夫様々にある。たとえ仲間がいなくて一人だったとしても、同じ空間を共有しているわけだ、必ず関わりは生まれる。これらの「関わりの過程」を経験していくのが、勉学ではない学びであると仮定する。


 次に「前進」「後退」の基準について述べよう。普段生きている、コンマ一秒を切り取ったその瞬間が「基準」の状態である。関わりを続ける・始めるでもなく、断ち切る・滞らせるわけでもない。この「選択をしない状態」を基準としよう。

 前進、とは、自ら進んで学びを得ていくことを言う。関わりの過程において「前進的」とは、他者と関わることを言う。気をつけていただきたいのが、わざわざサークル長になるような、コミュニケーション大歓迎!といった奴らだけが前進的なのではない。「関わりを断ち切る」ことが可能であるのに、その選択をしなかった事が「前進的学び」なのである。つまり、関わりへ歩み出していること自体が「前進的学び」と呼ばれるのである。

 後退的、とは先に述べたように、その関わりを断ち切る・滞らせることを言う。つまり基準点から見て、関わりから足を引くことであり、例を挙げれば、学校へ行かない、提出物を出さない、などが含まれる。関わりの過程を体験しているのに、それらを放棄する。基準は選択をする前の状態であり、その瞬間は時間と共に次々起こるのだから、置いていかれる、つまり「後退的学び」と呼ぼうではないか。


 高校までの学びは、ほぼ前進的だ。言うなればたくさん得た者勝ちの世界になる。きっと誰しも関わりによって次の関わりが良いものになった事が、おありだろう。

 しかし、大学生になると、色々なことを断ち切ったり断ったりして関わりのチャンスを逃すことで、違った学びが得られることもある。どのくらい関わりを断ったら困ることになるのか。留年や、アルバイトを急に辞めたり。意外と困らなかったり、しっかりと負債が肩にのしかかったりする。まあ、言うなれば、怠惰のバランスを測る物差しを作るのに役立つのが、「後退的学び」なのである。


 今回私が話したのは教科書や本、授業なんかで吸収するものではない、生きた人間と関わる時に活きてくる「学び」についてである。なぜそれを学ぶのかというと、私の答えは、「理想の生活を手にするため」である。

 これらにおいて優秀な者は、邪魔な者がいたら、消えて欲しいくらいに憎い者がどうするのだろうか。落第間近の私には想像することしかできないが、きっと彼らはそう思った瞬間に、そいつらの眠る土の上をジョギングでもしていることだろう。

目の上の瘤が星になったことすら忘れて。

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