変人が語る美とは

 私はおそらくいや、おそらくではないかもしれない。変人である。なぜなら、と理由を説明するまでもないかもしれないが、友達に

「高校の時は浮かなかったのに、大学であなたがいなくなってから私も変だったことに気付かされた。というか浮いている」

と言われたことさえある。

 何が変なのかは私にはわからないが、恐らくどこか変なのであろう。

 そんな私が美について思うのが、肉体的な美というものは即ち、筋肉のしなやかさに依拠するのではないだろうか。ということである。議論において友達は

「肉体的なものそれに限るでしょ。特に造形」

とか。と言っていたが、それは半分正解で半分不正解だと考える。

確かに外面は整っている方が良いだろう。

しかし、美が宿ってるのは肉体そのものではなく、所作つまり、筋肉の使い方にある。

想像していただきたいのだが、イタリア、バチカン美術館にあるピエタ像がもし、直立不動で遠くを見ていた場合角ばった様式で子供を抱き抱えていたらどうだろうか。いかにも貧乏ったらしいマッチ売りの女が、子供を抱えている貧相な絵面になりそうに感じないだろうか。

つまり、美しさとは肉体に宿る曲線の筋肉の動きなのである。

写真の構図も、美の参考になるだろう。

この写真は美しいと思うものは筋肉の曲線の動きが必ず存在する。

直立不動でピースをする写真に元気さや可愛さは感じても美は感じないだろう。

帽子をかぶって女性が捻る曲線の腰の曲がり方や、男性の流れる様なしなやかな筋肉の使い方にこそ美が宿るのである。

と言ったのだが、顔が可愛ければそれで良い。むしろそれが大多数やと思うけど。あなたは変。と言われてしまったので、びっくりしている。

私はそこで考察を加えたいのだが、もしそれが正しければ、美というものの造形は昔から今まで普遍であるという価値観になってしまうのではないだろうか。

平安時代の美と現代の美は、顔自体はあまり変わっていなくても、好まれる造形は全く違う。それはおかしな事である。人間の脳は、「これこそ美だ」と言われたらそれを信じるとは思わない。

どの大学か忘れたが、赤子の実験で美人と普通の人どちらの方をよく見るかという実験をした時、美人の方を長く注視した。だから、赤子も判別出来るのではないか?

という実験があったが、では平安時代の美人ならどうだろうか?同じ結果が出るだろうか。

私はその造形に答えがあるのではなく仕草や惹きつける曲線にあるのではないかと思っている。美というものは、整形などで得られるものではなく、その筋肉の使い方や仕草にあり、造形そのものは影響しない様に感じる。つまり、颯爽とした筋肉の使い方に依拠する様な気もする。

バレエが好きで見るのだが、瀕死の白鳥を是非見てほしい。「美」は筋肉の動きである。がさらに証明されるだろう。


まあ、私の思う「美」であるから、基準は色々あるかもしれないが。

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