哲学の学会は怖い

 タイトル通りのことなのだが、しばしば学会で見受けられるのは、伝統的哲学の絶対的真理の追求のためには、人の気持ちを考慮をせず切り込みを入れて、その切り口は鮮烈で鮮やかなのだが、他人の多少の流血は厭わない方々が一定数いらっしゃるという事である。

 何もそこまで言わなくてもすでに肉は断裂しているのだから、わざわざ絶命させなくても良いだろうという感想を抱くのである。

 しかもまた自分の心の防御の為にその負の連鎖が続くので、人にコテンパンに言い続けるのはナンセンスではないかと思う。

 戦わなければ勝てない、勝てなければ自分の論理が負ける。だから武器を持つしかない。

 これは学会だけでなく、日々の口論、大きくは戦争でもあり得る話である。

しかし、武器を持つとまた相手も同じ様に武装しなければいけない。核には核を論が正しいと主張するのだろうか。

 私は今までは武器を持たなければ、死んでしまうと思い込んでいたので、相手を打ち負かしたら終わりだと思っていた。しかしそうではない。負の連鎖の内側に私が取り込まれているだけなのである。社会的ダイナミズムの枠組みの歯車どおりに動いているだけなのだ。

 従って、ここから脱出するためには、相手にまず寄り添って考える。そしてその時の気持ちを伝える様にしている。

「痛いよ」「それは悲しいよ」

 武器を持つ人は生まれてから一人でに持った訳ではない。

少なからず痛みを覚える経験があったから武装を強化していったのだ。

哲学でもそうだ。自分が痛むから、それを防ぐために相手を先に攻撃しているだけに過ぎない。私はそのことに気がつくまで月日を何年も要した。もし、武器を飛ばすなら私はそれをしっかりと受け止めよう。

 しかしそれは自分が強くないとただ受け止めきれずに割れてしまう。私は今努力を重ねている最中である。自分の確固たる自信があればそれは受け止めることができるのである。私はその様な人達が好きだ。

私もかつては武器を積み上げて、誰も私に侵入しない様に閉ざしていた時期がある。

誰かの希望の糸を待っているのに、誰も私と同じ痛みを理解できる人はいないと思っていたからである。

 しかし、それは自分が傷付くのが心底怖いからしていたに過ぎない。

私は、どんな状況でも「よく来たね。いらっしゃい」

と言える様な、マインドと帰るための家を作っていきたいのだ。

 私がかつてそういう人を望んでいた様に今度は私がその人になって還元したい。

 武器を捨てて、ただ受け入れながらも主張するところは主張する。

そして、美味しいものを共有してただ他愛のない話をして、人生の夢を語る。



 自分はそういう人間になりたいと心底願っている。


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