直情的な馬鹿

タイトルにあるとおり私のことである。

私は、いわゆる賢く生きることが出来ない。というのは今までの私の文章を見てわかるとは思う。

ある知り合いが「数学はそのもの自体が役に立つのではなくて、これからの社会での忍耐力と思っていすれば役に立たなくても役に立つ」

また別の知り合いが「この人には愛想よくしてた方が良いよ。あとから利益があるから」

と発言は納得できるがどうも自分がそれに従うのが居心地悪く、なぜ?の私の基準が真でなければ、どうも納得することが出来ず、反抗し後から痛い目にあうこともある。勿論滑らかに生きて角を立てずに生きる事は、欲しいものを得るためには都合が良いのもわかるのだが、そのような自覚をもって生きる事が私には全然できず、いわゆる直情的な馬鹿になり下がるのである。


そう思うと、本当に賢い人は常に聞き役だなあと振り返ってみると考える。

腹の底では何を考えているかは正直分からないが、しかし、相手の意見を最後まで、耐えて聞き続けることが出来る。勿論話した相手は否定もしないのだからすごく幸せな気持ちで帰ることが出来る。

その人たちに聞いたことがあるが


「そんなのその人の考え方なのだから私が介入する必要もない。どうしても倫理的におかしいとか思ったら修正する方向に導くけど」

「別にどうでも良いから」

「普通に面白いじゃない。私は話すのより、聞いてそれを理解するほうが得意だから」


と人によって行動は同じでも様々な回答が得られたが、賢い生き方だと私は非常に感心する。

自分もそのようになれたら一番良いのかもしれないが、やはりどこか統合性なかったり、意見が偏屈だったりすると思うと突っ込みたくなる性分を持ち合わせている。

「なぜ?」と。

しかし人をいらだたせ、論争になってしまうこともしばしばある。

つまり、情報戦であるとするならば、私は見せしめに初めに死ぬキャラクターであろう。


常々「顔に思ったことが出ている癖を直しなさい」

と母から再三注意を受けたが、不思議に思ったら顔に出るし、楽しいと思ってもそのままだし、一生懸命ポーカーフェイスを装っても、全てわかりやすく出てしまうのでもうこれは、あきらめるしかない。と今では思っている。


ただ直情的な馬鹿ではあるが、人の話を聞くのは好きなのである。

例えば、

「今日は美味しいクレープを食べた。イチゴ味だった。そこのイチゴはシロップがかかっていて、糖分が足りない時又行きたいと思った」


という変哲もない会話があったとする。確かにオチもなく、だから何なんだ?というツッコミが入るかもしれないが、私はへえーそうなんだと言っている間に、なんでこの人クレープの話をしようと思ったのだろう。と別視点で考えることにしている。

この話に意図があったのか、それともただ甘いものが好きなのか、それとも私がスイーツ好きそうに見えたから敢えてその話を振ったのか、いや、イチゴの季節はいつ?期間限定の何かであったのか?

頭の中はそんなことを一斉に考えている。

勿論何もなければ、つまらない話かもしれないが意図がある場合もある。

つまりその短時間でいかに情報を詰められるかというところに面白味を感じている。視点を変えればつまらない話も楽しい話に変容するのである。


ただ、話聞いていないわけではないのに「話聞いてる?」

と言われる結末を迎えるのである。寧ろ考えすぎて、フル回転で思考しているのだが、その間における沈黙に対して、聞いていなかったのではないかと疑われるのである。だからこそ、私は矢継ぎ早に話す人が好きである。考える間を与えてくれないから、そのままの意味で理解することが出来るからである。



とまあ、人の話が好きでも直情的な馬鹿は損をすることが多いが、人の話を最後まで聞くことはどうにかして頑張りたいと思う。

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