大仏ぶつぶつ
私は基本あの様なものをどう扱ったら良いかわからない。
何を言ってるんだと言われる出だしから始めてみる。
大仏を見る事はもし仏教信者なら何か心に響くものがあるのかもしれない。しかし、どうみてもただの置き物の様にしか、私には思えないのである。
ただ、そこに鎮座しゆっくりと私たちを見下ろしている。これをどう楽しめば良いのか。顔が綺麗だ!歴史を感じるなどとどこぞの学者の様にふんふんと頷いてみれば良いのだろうか。
横から見て縦から見て正面から見ても、その顔は家にありそうな置き物の一つにしか映らない。
適当にわかる様に、年代を顔で当ててみたりするがそれだけである。クイズの一つでも覚える様に知識だけが蓄積し、それをどう生かして感じるのかがわからない。
周りを見渡すといかにもの様に皆が大仏を見つめているが、私も適当に真似をして頷いてみるだけだ。
そんなわたしなのだが、興福寺にある阿修羅像は別だ。
あれだけは幾千の怒りを一生懸命に乗り越えた後の悟りの顔が非常に精巧に表されている。もう自分の人生はやり終えたと。
あの状況になって初めて人は人としての一生を終えていくのだろうと想像する。
人生のエネルギーの契機は何かへの怒りなのかもしれない。
それを無くしては、生きる意味すら無くしてしまい世捨て人となるのかもしれない。
といいあててもよいくらいにあの表情は、悟りの境地を描いている。
横から見ても楽しめるのがこの像の良い所だ。まだ横の顔は我慢している様に私は見えるのである。怒りはあるが、それを昇華できずにもんもんと抱えている様な不思議な顔。
私は今の私はこの横の阿修羅であり、正面の顔へと移り変わるには後何年かかるのだろうか。
そんな事を考えさせてくれる素敵な像なので
ある。
私の様に大仏の楽しみ方がよくわからない人には是非見てほしい像である。
美というものは現代とはかけ離れているがそれでもあの像は人間の美を思わせてくれる素晴らしいものである。
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