散歩散歩
ショーペンハウアーもニーチェも散歩は哲学する絶好の機会だと述べている。
実際、散歩をしていると色々な想像や感覚が研ぎ澄まされて色々な感情が脳内を駆け巡る。
私も実はこうやって文を書いている暇はないのだが(論文も課題もある)、どうしても小難しい文章ばかりに触れていると脳がショートを起こして、私には才能がないのかもしれないという無限ループに入り込み抜け出せなくなる。
その時に、これ幸いとこの無限ループから逃れる手段こそ散歩なのである。
歩いていると色々な発見がある。目的を持って歩くとそればかり考えてしまうが時間だけを決めて好きな道を歩くのは良い。花の香りや名前をゆっくり思い出しながら、なぜ?の不思議をこの世界へと持ち込む。
センスオブワンダーと言うものはこういう事だろうとレイチェルカーソンに問いたいものだ。
チロリアンランプと言うものをついさっき思い出した。
私のおばあちゃんが教えてくれた名前の花である。鮮明には思い出せないが、その時の私は不思議な名前で可愛いね。と言ったような気がする。おばあちゃんの嬉しそうな微笑みだけが記憶のふちにこびりついている。
改めてみてみると、小さくて赤くて誰かの心を照らしている希望の提灯のように思えた。
その一つ一つに誰かの生活があって、団地のように重なり合いつつも離れて暮らしている生命の灯と言うものをこの中に見た気がしたのである。
そんなことをふと思い出しながら、私は壁が異様に薄いことにも気が付いた。
壁って何だろうという疑問に陥ると思うのだが、壁と言うのは、精神が人を受け入れる時の壁である。サルトルは他者と会う時私の中に対他的な部分が現れ、その時の私は普段の私とは違う存在である、と言う。
確かに私が人とすれ違う時、少なからず緊張しているのが分かる。
会釈をするべきか否か、それとも視線をやるべきか否か。
格好と言うものはすごく大事な要素である。私はTシャツと簡単なズボンやワンピースが家にいる時は着がちなのだが、いかんせん視線の質が変わることを大人になってから初めて知った。弟は非常にイケメンなので特に服装で感じたことはないらしいが、私は割とラフな格好した時にこそ人に話しかけられると思うのである。
恐らく、一般的に声をかけられるという状況はきちんとした服装や露出が多いなどそういう想像をしがちなのだと思うが、逆なのである。
これが私にとってはすごく不思議な現象で、なるべくこの格好では外に出ないようにしている。ただ、面倒になったときはそうするようにしている。
つまり、他者存在によって私自身が影響を受けているという事であろう。
どうでも良い人からすると良いことなのになぜか私には人の視線が気になって仕方がないのである。
つまり、私はあえて壁を厚くしないとボーとしている人間に見えるようであって要はまあお粗末なのかもしれない。と自分で自分を分析してみる。
ただ、こうやって天気の良い日に何も考えずブラっとすることは好きなので、時間があるときは試してみたいと思う。
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