第43話 ラスト・アタック
闇に伏した傍らで疲弊した感情が漂っていた、身も心も飲まれて今自身は無の中にいる。
(地獄か)
おそらくアスモデウスの亜空間のようなものだろう。やはり天国へは行けなかったか、冷めた心でそう判断した。
立ち上がると身が引きずるように重かった。炎に晒されたはずの皮膚は焼けおちていない。自身になにがあったのか分からなかった。
「ラナン」
優しい声に目を見開いた。振幅が激しくなる。ずっと、ずっと焦がれてきた声が聞こえる。もう何年も聞いたことの無かった声が、永遠に聞けぬと思っていた声が。
顔を上げると美しき黒髪の女性が闇に浮かび上がるような真白い衣をきて、たおやかに微笑んでいた。
「母さん」
消滅していなかったことへの安堵と九年間堰き止めていた感情が溢れだして、視界が涙で埋もれた。
嗚咽を堪え切れずに顔を覆っていると柔らかな手が頬を包んだ。
「ラナン、戦いなさい」
首をふるふると振るって否定した。
「オレはもう死んだんだ」
「躯になっても戦いなさい。あなたには力を得た責任があります」
「でも」
反論しようとした瞬間、母の腕に黒髪を抱きしめられて不思議な心地になった。まだ幼いころを夢見ているのか。これは現実で無いだろう。帳のなかで静かに香が薫っていた。
「ルシファーを倒す手段はもうないんだ」
「諦めてはいけません」
「…………」
絶望するまでに力の差を感じた。最早、抗える悪魔などこの世には存在しない。その思考を呼んだように母が訴えた。
「大天使ミカエルを呼び出すのです」
「……天使?」
夜迷いごとをいっているのかと思った。
「彼らはオレに微笑まない」
咎人ならいざ知らず、自身は目的に執心して関係のないレオナをも殺したのだ。
「あなたの命をかけて神に誓いなさい。贖罪をし、神意を背負うことを。そして契約を交わしなさい、この場に残るすべての人々の命を導くのです」
瞬間景色が白んだ。抱きしめられた母の腕から顔を上げると周囲には真白い雲があって下界に百万の花が見える。降り注ぐ滝しぶきが来光に輝いていた。
「ここは……」
『ラナン・シェン』
もう誰も呼ばなくなった名前の懐かしさに心が震えた。目前を見ると白髪の老人が立っている。有り体ではない姿に神なのだと理解した。
『悪を征することを誓いなさい』
「一度悪に身を宿したものです。それは出来ることではありません」
胸の内で後悔が渦巻いている。本心から出た気持ちだった。
『天使が悪魔になるように、高潔な魂を以って悪魔もまた天使へとなりえる』
「ですが」
『力を望みなさい』
静かに目を伏せると背中に優しい感触があった。頼りない指先で母がラナンの体を抱きしめている。
「あなたの辛かった人生も、わたしの失われた未来もこの決戦ですべてが決するのです。あなたが立ち上がらなければ、多くの命が失われます。この国が永年の歴史をかけて貫いてきたことが藻屑と化すのです」
「オレは……」
『力を望みなさい』
ラナンは拳を握ると確かめるように握って開いた。
「咎を抱えたオレをも信用して下さるのですか」
『わたしはお前のすべてを知っている、その愚かさも、その醜さも、その優しさも』
唇を噛み締めてこくりと頷くと神が手を広げてフレイルを振り被った。
『今こそ天威を授けよう』
世界が眩く輝いて、大きな光が体へと収束していく。天界のすべての力をかき集めるように。
光が胸に消えて色が戻ると、そこは元のカレル広場だった。
広場は炎に包まれて多くの人の命が失われていた。みんな叫ぶように慟哭を上げている。どうか夢であって欲しい。だが、今はその願いさえ叶わぬ。
広場に集うすべての人の心に神の声が降り注いだ。
『人々よ、祈りなさい。この地に蔓延る悪魔を葬り去るのです』
「なんだ、声が!」
「聞こえたぞ、声が」
「神だ、神が仰っているぞ」
――さあ、ラナン。
指先に母の幻影が重なる。それが徐々に形を成していく。出現したのは純白のマリオネットだった。
目を閉じると祈りを心の中で奉げる。
(すべての罪を越えて)
ラナンの心の声に呼応してカレル広場の中央に極大の召喚陣が描かれた。神々しいまでの光の瞬きに人々の祈りが重なる。曇天が割れて、眩い陽光が垂直に降り注いだ。
「ミカエル」
裏返りそうな鼓動を鳴らし、天から巨大な天使が降臨する。舞い降りたのは白金の髪を湛えた美しき大天使ミカエル、目にするものをすべて畏怖させるほどの覇気に人々の感銘が大きくなった。
――わたしはいつでも一緒です。
母の声が胸の内に落ちていく。ターコイズの瞳を光らせるとラナンは指先を繰った。
ミカエルが両手を広げると光が散って人々を焼いていた炎が消失した。それを見て、ムジークは言葉を強くした。
「大天使ミカエルだと。悪魔と契約したものが天使との契約を結ぶなど」
ラナンは強い決意で発する。
「契約を結んだのはオレだけではない。ここにいる全員だ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます