第44話 プラハの棺

 人々はミカエルの御姿を手を合わせて拝んでいる。今こそ悪魔に裁きを、天の高らかな意思を。

 ラナンが小指を跳ね上げるとミカエルが空を舞った。地面すれすれを滑空しながら、ルシファーへと迫る。懐に飛び込むと巨大なフレイルでロッドと打ち合うと地鳴りが響いた。その力量は互角いやそれ以上。


「堕天使の烙印を押されたかつての最強の天使ルシファーはミカエルと双子だった。対抗出来るならばそやつしかおらぬとは思っていたが」


 ムジークは渋面を作り、驕り高ぶった。


「だが付け焼刃の力量など恐るるに足らず。今更なにが出来るというのだ」

「お前は怯えているのだろう」


 ミカエルのフレイルが空を切ると光のトライアングルがルシファーを囲った。


「光の牢獄」


 ラナンの言葉と同時に幾重ものトライアングルが空から連鎖状に下り重なって旋回を始めた。切り裂く痛みにルシファーが声を上げる。


「グガアアアアア」

「小賢しい」


 ムジークは糸を吊った手で握りこぶしを作るとぐんと振った。ルシファーが血みどろになりながらトライアングルを弾けさせる。光りの直棒が残バラに落下した。


 戦況を不利と見たルシファーは反転攻勢に出た。胸筋が巨大に膨れ上がり、腹から黒の球体を無数に吐くとそれで広場を埋め尽くす。靄のような球体は触れた人々の命を吸収し始めた。命が掻き切れる絶望の声が広場に響く。


「ぎゃあああああ」

「助けてくれ!」

「いやあああ」


 祈りの力が失速を見せて、ミカエルの帯びた光が弱まり始める。


「ちっ」


 ラナンはテグスを操り糸のように交差させると星章を象った。光の星が地に描かれると白光が吹き荒れて瞬刻、球体をすべて消し去った。


「地は支配した。無数の祈り、お前の力量では抗えない」

「まだだ、まだ!」


 ムジークは嬉しそうに破顔していた。その奇妙な笑みに懐疑の気持ちが湧く。


「なにが可笑しいんだ」

「嬉しいのだよ。ルシファーの全力を導けることが」


 黒の気配が満ちて再び空を覆い始める。地に描かれた星章が陰りを見せ始めた。やがて雨粒が壊れた石畳を叩き、吹き荒ぶ雨の中互いがにらみを聞かせる。

 光と闇が空に弾ける。身を削るような打ち合いの後、雨露にしなだれて天使と堕天使は対峙した。


 どちらも傷つき、術者もまた疲弊している。体力を奪っているのは雨だけではなかった。おそらく心の通じぬ苛立ち、これほどにまで祈りは遠いのかとラナンは辛酸を舐めた。


 人々の願いが背後で聞こえている。みんな限界まで雨の中祈っている。それが届いていない訳ではないだろう。それを廼して君臨するほどに、ルシファーは永年の歴史を経て数多の命を吸ってきた。


「残酷になれるか、なれないか。その差だとは思わないだろうか」


 ムジークという人間の奈落を見て、ラナンは息を飲んだ。自分は悪に徹しきれない。悪魔に心を奉げながらも救済を求めてきた愚かさが胸を突いた。


――ラナン、神に祈るのです。


 霹靂のような母の声とともに頭中に教会の十字架がすっと浮かび上がった。幼いころに母と何度も訪れたあの教会の光景が――そして、それは最後の母の導きのように感じられた。

 胸元にマリオネットを奉げ、真摯の祈りを口にする。


「プラハの町に安寧を」


 マリオネットの脚を両手で柔に包むと空に十字架のように掲げた。どうか届いてほしい、その一身で。

 広場に集ったすべての命が平和を求めて懇願していた。


「神よ、どうか」

「力を」

「アーメン」

「アーメン」

「アーメン」


 人々の祈りが折り重なり、ついぞ空に後光が差した。空から光の粒子が舞い降りる。それはルシファーの体を灼いてゆく。


「アアア、ギャアアアアア」


 黒い気配が解けて立ち上り、順に悪しき魂が空へ導かれ始める。祈りの炎を絶やすことなく焚き続けよう。どうか、この町に平穏を。誰も悲しみ失われることのない未来を。


「ヒギャアアアアアアア」


 すべてが消え去る瞬間に、ルシファーが最後の抵抗を見せた。苦し紛れに放った悪意が槍のように伸びて一撃でラナンの胸を貫いた。




「ラナン?」


 誰かに呼ばれた気がしてメイリンは空を見た。予感めいたものを感じて立ち上がったがそこに誰もいるわけではない。先ほどまでの悪天候は鳴りを潜め出来た水たまり。静かに景色は明るんでいく。まるで天国の訪れだと思った。


「どうかしたの、メイリン」


 魔女先生に問われてメイリンは首を振った。予感、違うきっと心配になっただけだ。このところ連絡も取り合っていなかったから。


「ごめんなさい、何でもないの。ラナンに呼ばれた気がしたから」

「まあ、そうなら素敵ね」


 うん。そう笑んで答えるとメイリンは子供たちに手を引かれて隣の部屋へといった。




 一瞬が無限に感じられるような長い刻の中で痩身が緩徐に倒れていった。地に伏して、視界がだんだんとぼやける死の傍らにいて、先細る意識の中で母の笑顔が見えていた。


 すべての悪意が過ぎ去ると、人々が歓喜するなか空から天使が舞い降りた。倒れたラナンの周囲を取り巻き、手向けの白花で飾る。無数の香りに囲まれ、胸の前で静かに組まれた手には純白のマリオネットが握られていた。それが砂のように解けて光の雨となる。

 空へと早馬が走った。


――ああ、プラハの棺が天へと運ばれてゆく。


 すべての神意が消え去るなかで人々はただ空に祈り、生き永らえたことに感謝した。


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