第42話 処刑
極大の悪魔の降臨をラナンは信じられぬ心地で見た。そいつは薄煙のような黒衣をまとい、美丈夫の顔で笑っている。
黒紫の髪を優雅にはためかせ、大きなロッドを凛と伸ばすと広場に朱の炎が走った。炎はカレル広場に集ったすべての人を取り囲む。悪魔の降臨と炎の牢獄に恐れを成して、人々は阿鼻叫喚に落ち入った。
逃げ惑う人々を嘲笑いながら、ムジークはラナンに語りかける。
「キミも代償を払っただろうが、このわたしの代償は比ではない。王を敷くというのだからな」
ラナンは解せぬものを感じていた。これにはカラクリがある。拳を握り締めると糾弾した。
「お前の代償とはなんだ!」
ムジークは人生で出会ったことも無いような残酷の笑みを作りあげた。
「この広場にいる全員が生贄だ」
三日月のように反り返った唇の浅ましさに身震いがした。こいつはなにをいっている。
「ルシファーは多くの命を欲する。召喚するたびに多量の生贄が必要ということをキミは知らないだろう」
渋面を作りにらみつけるが相手はそれすら意に介さぬ様子で驕り高ぶっている。あのラーツにさえ無かった残虐性だった。
「無関係の人を犠牲に出来るか、出来ないか。それがわたしとキミの違いだ」
(戯言を)
ラナンは唇を噛むとアスモデウスに指示を送った。
アスモデウスが地団太を鳴らして、石畳を蹴ると人々の間で叫び声が上がった。
「なんだよ、アレ!」
「警察に通報しろ」
揺れる地面を感じながら、戦いの感覚に身を落としていく。力量の差は分かっている。それでも――
「お前を駆りたてるものはなんだ! 死か、名声か、快楽か」
「すべてだよ。わたしはすべて欲しかった」
アスモデウスの剛腕とルシファーのロッドが接触する。空に光が散った。着地したアスモデウスは石畳に垂直に拳を下ろすと地を叩き割り、瓦礫を頭上に豪快に持ちあげた。砂埃が落ちてゆく。
勢いをつけて投げつけるとルシファーの目前で砂礫となった。
あの泰然とした姿、微々も効いていない。ならばと祈りを込めた。大きな召喚陣をルシファーの足元に描く。青の大きな円から数多もの鎖が吹き出した。
巨大な身体を絡め取り、鎖は咎を陣のなかへと引き摺りこもうとする。だが浮遊したその姿勢すら微動だにしない。鎖のしなりが大きくなり、ぎりぎりと締めつける音が止まないでいる。
鎖は限界まで伸び切るとガラスのように木っ端微塵に砕けた。
「その鎖は精神を絡めとるものなのだろう。引き摺りこまれるのは気持ちで敗したときだけ。王にとって小物の威圧など恐怖にも当たらん」
ルシファーは宙に浮かんだまま、その巨大な相好を崩さないでいる。凛と姿勢のまま優雅にロッドを振るうと広場で逃げ遅れた一人の男性に火柱が昇った。
「ぎゃああああああ」
周囲の人々は蒼白になり逃げ惑った。男性も女性もみんな喉を枯らし叫んでいる。曇天の中、焼けた男性の魂は静かに天へと昇っていく。それをルシファーは身に収束すると喜びの鳴き声を轟かせた。
「ああ、なんと甘美な心地だろう」
ムジークは心酔している。次々と繰り出されていく昇天の炎を身にまとい、ルシファーは猛りを上げた。広場に集った人々をすべて生贄にするとは虚言ではない。
ラナンは悔しさに、靴先で剥き出しの地面を蹴った。
「キミもまた生贄となろう」
そういって手を押し広げると強大な悪魔が両手を胸元で重ねた。まるで祈りを得るように。ムジークが言葉を連ねてゆく。
「祈りたまえ、祈りたまえ。どうか愚かなる魂に永遠の咎を」
するとアスモデウスの頭上に巨大な血のように赤い鎖の輪が出現した。それが下りてきて収縮するとアスモデウスの巨体を縛り上げる。
「グガアアアアアア」
腕の動きすら封じられてアスモデウスは反発する声を上げた。間もなく足元から黒い薄煙が巻いて昇り始める。
「アアアアアアア」
「なにをやっている!」
ラナンの糾弾にムジークは笑った。
「魂を抜く」
「アアアアアアアアア」
やがて身ごとかすめ取られた魂は静かにルシファーへと収束した。
言葉無くしてラナンは茫然とした。あのアスモデウスすら足元に及ばなかった。もう力はない。膝をつき、愕然として項垂れた。祈るように組んだ指先さえ冷たい。
ようやく人々の嘆きが耳に飛び込んでくると寒気が襲った。
ここにいる全員が殺される。
炎のカレル広場には瘴気が漂い、雨が落ちてきそうな空を見上げ人々は絶望していた。
◇
アスモデウスはいない。乾いた空を虚ろに眺めていた。自身で出来ることはすべて終えたのだ、もう手段はない。
天から見下ろしてくる悪魔の王ルシファーとの力の差。こんなにも、こんなにも格の違いがあったのだと今になって思い知らされる。浅ましき謀りごとだったのだと、絶望に涙がつうっとこぼれた。
ムジークは血の鎖で人々を縛り、順に天へと連れ去っている。ルシファーの体は固く膨れ上がり、空を凌駕した。彼の身は失われた魂の塊なのだろう、やっとそのことに気付けた。
「キミとは楽しかったが、ちと物足りなかった。もう会うこともないだろう」
ムジークが空を切る。ルシファーが大手を広げた。
ロッドが怪しく輝いて、過ぎの瞬間劫火が身を襲う。
「くっ、うわああああああああ」
呼吸さえできぬ炎の中でラナンは意識が振り切れた。
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