第41話 災厄の訪れ

 旧マリオネット協会の本部で悪魔と接触したムジークは最初に上司を始末した。出来る物かと疑っていたが悪魔はいとも容易く、憎き上司を葬り去った。

 彼の連れ去られた魔法陣を見ているとすっと気持ちが凪いでいく。こんなに晴れやかな気分は味わったことが無かった。


 それから時折ムジークは気に食わない人間を狩った。普段は真面目一辺倒だった自身の心が奮い立つのを感じる。人の命が失われる時にだけ、恐怖に侵される時にだけ、目にすることが出来る本当の姿。人間は汚れて醜い。最後は自分さえ良ければよくなる。生に縋りつこうとする指先を蹴り落とすことがなによりの喜びだった。

 そして、ムジークはとうとう凡庸な妻を狩った。


 葬儀では悲嘆にくれた夫を演じた。参列した紀伯クラブの面々はお悔やみの顔を作っていたが、葬儀の晩に開かれた会合で祝杯をあげてムジークの所業を祝った。

ああ、人生が壊れてゆく。最上の気分だった。


 やがて自身は自身の出世を阻害する上司や同僚を秘密裏に狩り、出世街道を歩み始めた。ただの男が悪魔へと変貌していくさまを仲間たちは嬉しそうに歓迎した。

ラーツは大手製薬会社の社長、ムジークは警視総監。二人の歩んだ道は同じでなかったが、立場的には近づきつつある。その疼きをムジークも感じていた。

 紀伯クラブに通いつめて、十年以上が経過したころラーツがぽつりこういった。


「女に子が出来たんだ」


 困っているというより、まるで指先に棘が刺さっただけという風に囁いた。彼は長年色々な女と浮気をしている。冷たすぎる感情はその弊害かもしれなかった。


「今度連れてくるよ」


 そして紀伯クラブはルォシー・シェンという一人の美しき女優をこの世から葬りさった。

 葬儀が終わり、数日後に署ですれ違った幼き顔を今も覚えている。さめざめとしたターコイズの瞳で世界のすべてを睨んでいた。


――ああ、彼の復讐を。


 エクスタシーに駆りたてられて、にたりと笑みがこぼれた。

 あの日から自身は少年の再来を望んでいたのかもしれない。




「キミとこうしてこの場にいることがなによりも嬉しい。もう狩りたいものは大方狩ってしまったからな」


 ベンチで長い話を聞き終えて、ラナンは組んだ指を手の甲に打ちつけていた。彼の話には大きな欠落がある。人の命という大事なものが。


「あんたは大事なものがないのか」

「捨ててしまったのだよ。プライドと引き換えにね」


 立ち上がるとムジークはカレル広場の中央まで歩き始めた。周囲には人が大勢いて、在るべき己の日常を楽しんでいる。ムジークはくるりと振り返ると手を大仰に広げた。


「この国はひどく美しい。美しすぎる。人も町並みもあぐね歩んだ歴史さえも。ぐしゃぐしゃに壊してなじりたいほどに」


 ムジークはポケットに手を突っ込むとそれを取り出した。

 彼の手に握られていたのは小さなマリオネットだ。右手に握りその姿を見つめる。


「さあ、キミもマリオネットを取り出したまえ。最後の対峙のときだ」


 ラナンは言葉に応じるように悪魔のマリオネットを垂らした。アスモデウスが身じろぎする。呪を唱えて、呼び出すと空に青の召喚陣が現れて畏怖するような光の中から衣をたなびかせアスモデウスが下りてきた。


 周囲の景色が黒に染まってゆく。ここはアスモデウスの空間だ。


「これがラーツを跡かたもなく始末したカラクリか」


 ムジークは闇の真ん中で可笑しそうに笑っていた。


「なにが可笑しい」

「可笑しいんじゃないよ、嬉しいんだ」


 喜びに浸されたように男は闇を見定めた。


「キミはなにか勘違いをしている。少なくともアスモデウスは最強ではない」


 そういってマリオネットを繋いだ手を振り上げると亜空間が割れた。アスモデウスの展開した闇がガラスのようにばらばらに砕け散る。石畳が剥き出しとなり、景色は再びカレル広場の日常に戻った。


 ふっと笑うとムジークは振り上げたままの手を開いてこう呼びかけた。


「さあ、格の違いを見せつけよう。眼を開いて王の降臨を見よ」


 瞬刻、南の空から北へ向けて一筋の光が走った。厚い雲が奔流を巻いて全天を覆う。突然の天候の異変にカレル広場に集った人々は吃驚の声を上げて空を見た。

 空が慟哭を上げている。オーン、オーンと共鳴音が鳴り響いて天から降臨した悪魔の格の高さにラナンは空を凝視した。

 巨大な悪魔は曇り空を抱いて裂けるように笑っている。


「堕天使ルシファー。お前にこの災厄、受け止めきれるか」

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