第40話 サディスト
(紀伯クラブか)
迎えの車の中で考えを漂泊させていた。噂には聞いていた。昔からプラハ・カレル大学の卒業生の間で連綿と受け継がれてきた上流階級の人々の集まりがあると。彼らは夜な夜な集まって法律に触れるようなことをして楽しんでいるらしい。存在を知ったからといって、目頭立てて取り締まるつもりはなかったがそれでも看過できぬ話だった。
「ラーツ。キミが所属しているとは驚いたよ。忘れているかもしれないがオレは警察の人間だ」
もちろん覚えているよと軽やかに返事してラーツはくつくつと笑った。
「だから誘ったのさ。法を知る人間が法を破るなんてこんなスリルあるはず無いだろう」
スリルという言葉の響きにこの男の深淵を見た気がした。ああ、彼はそういうサディズムの一面を持つ男なのだ。
「法なんて案外簡単に破れてしまうものだよ」
酒に思考を浸されたこともあって、ほんとうにそうだろうかという気分になってくる。
「警察は楽しいんだよ。すごく向いていると思っているんだ」
「安心しろ。紀伯クラブはもっと楽しい」
真白いベンツは旧貴族の邸宅地フラチャニに向けて走った。
ラーツの邸宅は驚くほど古美だった。
伝統あるアールヌーヴォー建築に貴族出身の彼が優雅に振る舞える理由を垣間見た気がした。燭台の薄明かりを持って老人の使用人が奥へと招く。館を貫くように伸びたレンガ色の大理石の廊下に古の時代を想像した。かつての貴族がドレスを纏って歩いた様が目裏にありありと浮かび上がる。壁には高そうな絵画がいくつも飾られて、規則的に置かれた調度品が王城のような雰囲気を醸し出していた。
一室の前で立ち止まると使用人は両開きの扉を開けた。中に入ると八人の男たちがステップフロアに規則的に置かれた上等なイスに腰掛けて、ワインやブランデーを煽りながらこちらを見ていた。まるで演劇を鑑賞する小さなホールのようだった。
(彼らが紀伯クラブの)
陰険な顔をしているものがいれば、柔和な微笑みを浮かべているものもいる。多種多様だが、みんな上等の顔をしてさも文化を楽しむように優雅に構えている。
「今日の生贄は彼だ」
イスに着いたラーツが手を上げた。怯えた初老の男が暖炉の前に経つ。彼はラーツにいわれるがまま服を脱ぎ、苦悶に喘ぎながら床に振りまかれたワインを舌先で拭っていた。
「惨めなこと」
「卑しい男だ」
衆人が呟き笑みをこぼしているが、ムジーク自身は居心地の悪い思いをしていた。
「慣れないのだろう」
そういうとラーツが粉を差し出した。警察の経験上知っている違法薬物だ。酒で判断力も鈍っていたが、今日は特別の夜なのだろうという気がしていた、口に含ませると苦い。景色が回り始めた。
幻影の中で惨めな男が泣いている。それを見るといっそう気持ちが良くなった。ワインを口に含み、舐めまわし。空のグラスを叩き割ると暴力的な気持ちが湧いてきた。
サイドテーブルに置かれてあったワインを一本手に取るとラッパ飲みして笑った。ようやく宝を手に入れた気分だった。
瓶で男を殴ると鈍通に男は泣いた。彼の名前も知らなければ出自も知らない。この場に何故居合わせたのかさえ。タガが外れたように殴打した。
体中に黒ずみを作り、借用書にサインをして衆人の一人に渡すと男は怯えるように帰っていった。
朝を迎え、ほとぼりの冷めた部屋にどの男かの吐息が一つ聞こえた。外なら白くくぐもる季節だが、暖炉の部屋は温かい。温かいのに身震いするほどに冷めた空気だった。
言葉もなく男たちは退出していく。すべての出来事は幻夢の中のよう。あれほど昂った気持ちも落ち着いて、それなのにひどいことをしたという感覚は残っていなかった。
「ムジーク、キミは友人だよ」
一人残った屋敷の主人ラーツが表情を崩し微笑んでいた。
「良い夜だったろう」
「もうこないよ」
本当にそういう気持ちだったのだ。だが、ラーツはそれを受け入れなかった。
「直にきたくなる。キミはそういう人間だ」
その言葉がずっと心に残っていた。
それからの日々をムジークはつつがなく過ごしていたが、頭にはあの夜があった。男を殴打したあの生生しい感触を夢に見る。もう一度、もう一度だけ。
「おい、ムジーク!」
怒声にはっとして顔を上げると上司が渋面を作りこちらを見ていた。彼は仕事が出来ず、賢明なムジークを目の敵とばかりに日頃から嫌がらせをしてくる。昨日もまた、己の不手際を押しつけられたところだった、
「お前は不細工な上に、心まで腐ってる。報告書はどうした、今日が締め切りの報告書だ」
それは上司が提出しなければならない報告書のはず、こうしたいびりは日常茶飯事だった。
「わたしのではありません」
凛と応えたつもりだったが、その拙さがいっそう彼の高慢な心を刺激した。
「お前がなんでも教えてくださいといっただろう」
彼は部下になりたての日のことを覚えて悪態をついているのだ。彼の存在が消えぬ限り、自身もまた上にはいけない。自然とそういう構図が出来上がっていた。
(居なくなれよ)
そう悪態を吐くも素面のムジークにはそれをやってのける意気地が無かった。酒が入り、薬を煽り昂ったあの心を出来ることならばもう一度だけ……
吐息し、スマートフォンの画面を確認するとラーツからの誘いがあった。
その夜、ムジークは館で誰よりも弾けた。上司に虐げられた鬱憤で心の反り返りが止まず、驚くほどに残酷になった。貧民を馬鹿にするだけでは飽き足らず、お前の家族もペットもその場に引きずり出してやろうかと囁くと虐げられた男は裂けるように懇願した。その日の生贄は珍しく二人で、どちらもいい嘆きの表情を見せてくれた。
「素晴らしかったよ、ムジーク」
朝焼けの中、帰宅していくみんなを見送りながらラーツが呼びとめた。大抵休日の日にかけて会合があるので、もちろんその日は休み。一日中眠りたいほどに疲弊していた。
「いやなことがあったんだ」
「そうだろう。職場でかい」
「片付けたい男が居るんだ。連れてこられないのだろうか」
戯言のつもりだったがそれをラーツは深刻に考えたようだった。
「後の連中はふがいないがキミになら良いだろう。案内するよ」
そういってラーツは左手を差し出した。その懐かしさにぽつり呟く。忙殺される日々の中で心の片隅に追いやっていた存在だった。
「マリオネット」
不気味な様相の小さな人形がこちらを見上げていた。
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