第39話 過去

 就職して八年が経ち、三十歳のムジークは部下も出来た立場となった。

 出身校のプラハ・カレル大学から同窓生の集いの知らせが届いた時は出席する心づもりもなく、いつも通り欠席だと決めつけていた。開封せずに破きかけた封筒を見て止めたのは最愛の妻だった。


「あなた、たまにはそういうの参加するといいわ」

「よしてくれ。コネを作ることに躍起な連中ばかりだ。辟易するさ」

「一度くらい開けてごらんなさいよ」


 そう苦言されて開封した中身を見て、ほうと吐息した。

 同窓生の集いの知らせにカラーの会報が一通同封されていて同級生のカレル・ラーツがかの有名なアトミックス社で研究開発職に就いているという吉報だった。


 理学部の彼と法学部の自身との面識はあるが、覚えていないような過去に一度きり。たしか奨学金の推薦申し込みの説明会のときに出会って美丈夫と感銘して、それ以来。彼は覚えていないだろうが、ムジークには印象的に映りよく覚えていた。


「知り合いなのかしら」


 妻が覗き込んだので、いや。と否定した。


「彼は比較的有名だったよ。あの風貌だろう。なのに喋り上手ときた。女性は放っておかないって噂だったから」

「あなたは放っておかれたのね」


 そういって妻が笑った。余りものだよといいたいのか。自身の見た目が眉目秀麗でないことなどとうに知っている。それでも結婚したのならば、一番に留めて置いて欲しい。


「キミもタイプかい」

「違うわ」


 そういって軽くキスをして台所へとゆくと包丁を扱う音が聞こえてきた。新婚じゃないけれど幸せに楽しくやっている、そう思うとつい口元が緩んでしまう。


「カレル・ラーツか」


 会えるだろうかとふと思う。ムジークは彼に興味があった。



 

 古い時代にフス派の学徒を多く輩出したプラハ・カレル大学にはときの為政者により、命運を左右された非業の歴史がある。政治、世情、数多の支配者が君臨してきた歴史のうねりがこの国の感情を作ってきた。

 つい酒が入ればそのような歴史を遡り、古い人々ほど熱心に議論する。交わされる言葉の荒々しさに苦笑しながらムジークはピルスナーウルケルを飲んで視線を巡らせた。


(きていないか)


 スマートなモテ男が年寄りばかりが集うこの場に好んで参加することは考えられない。コネを作りにきたものも何人かいるが、そういう若者は浮いている。名刺交換など無粋なことをしてせっかくのアルコールが台無しというものだ。


「ムジーク、久しぶりだ」


 振り返ると恩師が手を広げていた。


「先生」


 笑んで肩を抱く。久しぶりの再会に心を躍らせた。白髪の恩師はずいぶん年老いた。おそらく定年まで二年ほど。その後は名誉教授となる道筋が出来ている。


「キミはもう、こういうものにはこないと思っていたよ」

「いえ、興味はあったんですがきっかけが。友人もきているか分からなかったですし」

「そうか、そうか」


 にこにこ笑って五分ほど話しこむと忙しい恩師は別の教え子の元へと去っていった。

 一人残されて、知人を見つけられないムジークは踵を返した。


(帰ろう)


 くるりと振り返ると整った顔面と鉢合わせした。


「えっ、と」


 なんとあのラーツが目前にいた。


「こんにちは」


 不自然な挨拶を気に留めることなくラーツはほほ笑んだ。


「こんにちは。楽しんでます?」

「えっ、ああ。いや、知り合いがいなくて」

「わたしもです」


 それは嘘だろうと思う。彼の姿に注目が集まっているのは否応なしに感じられるから。


「出身の学部はどちらですか」

「法学部で今は警察にいます」

「キャリアでしょう、素晴らしいな」

「ああ、いや」


 自分より素晴らしい人物に素晴らしいなどといわれては立つ瀬が無くなる。だが、そういうことには頭が回らないらしくあくまで謙虚な態度で彼はこういった。


「わたしは理学部の出身ですが、他の学部の方とお会いする機会はあまり無かったのです。よろしければ学生時代の思い出などお聞かせいただけませんか。これからホスポダで飲み直しませんか」

「えっ、ホスポダでですか」


 急な申し出に声が上ずる。そんなに言葉を交わしたわけではない。そもそもこの場を早々に去ることに戸惑う。恩師に会えたのだし、これ以上の用事が無いといえば無いのだが。


「良い店を知っているんです」


 自然に誘われて、戸惑う気持ちが薄れていく。会話の波長は合うと思った。こんな時間に帰宅するのも躊躇われるし、それならばと酔いに任せて彼についていった。


 趣味のいい店内にはジャズの生演奏が流れて、熟練した店員と見事な料理の腕のシェフが美味い食事を作っている。肉に偏らず、伝統的な鯉料理、新鮮なサラダも用意されて上流階級の風を味わえる風雅な店だった。


「鴨はないのか」


 カウンター席でラーツは追加のメニューを見ながら残念そうにいった。いつもは用意されている鴨が品切れしていたらしい。


「好きなんですか」

「敬語はいいよ。酒の場に不要さ」


 そういって笑うと鴨はね、とユーモアをたっぷり含んだ思い出を語り始めた。


 しばらく話しこんで打ち解けて肩をたたき合うような気心休まる時間を過ごし、五杯めのピルスナーウルケルを開けた後、ラーツがこういった。


「ムジーク、キミに紹介したい集まりが今夜あるんだ」


 いつもなら身を引く誘いだが、その時は何故だかそういう気持ちだった。


「どんな集まり?」


 けらけらと笑いながら問いかけたつもりだったが相手は至極真面目な顔でいった。


「紀伯クラブという集まりだよ」


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